第7話 厨房へ乗り込もう3/3
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運が良かったのは、マリアンヌ様の執事に仕える侍従見習いのひとりが、今回ロクサーヌ様に同行してこられるカヴェ夫人の召使いと、仲が良かったことだ。
ロクサーヌ様の女官も何人かいるが、最も有名なのはふたりだ。オリンピア・リッツィエリ伯爵夫人、それから、ジョスリーヌ・カヴェ子爵夫人。カヴェ子爵夫人はとても気の利く優しいご婦人で、今日の訪問に先立ち、世間話の体でそれとなく情報を伝えようとしてくださった。ロクサーヌ様のご機嫌と体調、最近お気に入りのことは何か、と言ったようなことだ。そのお陰で――もちろんカヴェ夫人はあずかり知らぬことではあるが、王宮側は、訪問前の貴重な数時間を手に入れることができた。少なくとも正門前に到着したときに発覚するよりは遙かにましだった。全く、カヴェ夫人の心根の清らかさに頭がさがる。
が、わたくしが厨房に入っていくと、厨房は阿鼻叫喚の渦だった。召使いや料理人や下女たちが右往左往してはなにか怒鳴り交わしている。マルゴを従え、わたくしはそのまっただ中につかつかと入って行った。騒動の中心で、見覚えのある料理長アンリが頭を抱えている。
「ごきげんよう、アンリさん」
声をかけるとアンリは顔を上げた。普段は元気そうな丸丸とした赤ら顔だが、今は血の気を喪って土気色になっている。「ああ」と声が漏れた。「ああ――もうどうしたらいいのか」
昼餐まで、あと五時間ほどしかない。料理の心得はもちろんのこと皆無だけれど、お客様をお迎えするためのご馳走を作るのには短すぎる時間だということくらいはわかる。わたくしはアンリが頭を抱えている作業台をまわり、彼のすぐ隣の椅子に腰をかけた。「姫様、」マルゴがおろおろとした声を上げるが、今は無視する。
「お客様が到着したときにお料理が出来上がっている必要はないのよ。正午までは、まだたっぷり時間がある」
そう言うとアンリは大声を上げた。「――無理だ!」
「いいえ、無理なものですか。あなたの腕を、わたくしはようく知っているわ。ジャクリーヌ様のお気に入りだったあなた。マリアンヌ様にも、いつもお褒めいただいているじゃありませんか」
「無理だ――無理、無理、無理です! 今日はなんの準備もしてないんだ! 材料がない! 丸鶏も! 牛も豚も、魚も羊もっ、なんの下準備もできてない! 今からメインを作るなんて――」
わたくしは周囲を見回した。コック帽を被った若い男性と目が合った。利発そうな顔立ちの人だった。その人を手招きして、訊ねる。
「お野菜は?」
「え、あ、ああ。野菜もほとんどありません、その、今日は殿下を送り出したら、みんな休暇をいただくはずだったほどで。ええ、ええその、休暇に出る前にわかったんで、その、その、みんなその戻って来てそのでも」
「そう、では人手はあるのね。それは不幸中の幸いだったわ! それなら足りないものを買いに行っていただくことができる」
料理人は目を丸くした。「買、う!?」
「ええ、ランベール家ではたまにするのよ。野菜と、果物が必要なのかしら。必要なものはあなたの方がご存じでしょう、羽ペンを貸してくださる? ――ありがとう。紹介状を書くから、これをランベールのタウンハウスへ届けて。くれぐれもあまり公にならないように、セバスチャンに直接渡して頂戴ね」
料理長の控え室から出された羽ペンを借り、さっきセバスチャンが用意してくれたばかりの手紙の裏に、必要なことを書いた。サインをして、顔を上げる。
厨房の大騒ぎは、すっかり収まっていた。召使いたちはまじまじとわたくしを見ている。わたくしは先ほどの、利発そうな顔立ちの料理人に手紙を差し出した。
「今すぐ行ってくださる? 運ぶのに人手がいるわ、あなたと、あなたも。一緒に行って、借りられそうなものは全部借りてきて。そして、お父様のお好きなクィナを納めている店はどこか聞いて、買って来てくださいな。あのクィナを召し上がったらきっとロクサーヌ様もお喜びになるはずよ。代金は“つけ”にしてもらえるはず」
料理人は戸惑っているようだった。が、ややして手紙を受け取った。「行ってまいります」しっかりと頷かれ、わたくしは少しホッとした。未だ座ってぽかんとしているアンリを振り返る。
「さあアンリさん、元気を出して。ここはエステル王家のお膝元。魅惑の魔法都市、シャルヴェナよ。三十年前なら絶望だったでしょうけれど、今は違うわ。二月にしてつやつやの果物やお野菜が手に入る都じゃないの! ほら、大丈夫よ。あなたには、今はとにかくメインを考えていただかないと。あのね、わたくしね、あなたの作るテリーヌが最高だと思っているの。テリーヌは今からでも作れて?」
「メインにはなりますまい。それに、材料が少ししかない。量が作れません。デュシュマン公爵、リッツィエリ伯爵夫人、カヴェ子爵夫人、それぞれの侍女がおひとりずつ同行するとか。召使いも合わせたら総勢十五名もの人数です!」
「ええ大丈夫。大丈夫よ。先ほどのお手紙で、セバスチャンに観賞用食材を頼みましたもの」
「観賞用――」アンリは目を剥いた。「観賞用食材!?」
「ええそう。ロクサーヌ様も女官のお二人も、もう五十近くのお年ですもの、わたくしやマリアンヌ様ほどには召し上がらないわ。わたくしの叔母様もいつも、ほんのぽっちりしか召し上がらないもの。おもてなしの時、いつもお料理が大量に残るでしょう? その余る分を全て観賞用食材にしてしまえば間に合わない?」
観賞用食材というのは、その名のとおり、見た目だけ食べ物に似せた偽物のことだ。確かに王宮の料理人がそんなものを使うなんて屈辱だろう。ランベール家だって使わない。セバスチャンが持っているのは愛好家(コレクター)だからである。
「そんな。そんな大それた!」
「余る分を召し上がっているのはどなたなの? 今回はその方たちに、我慢していただくしかないのだけれど」
いつもいただいているお食事とは違い、今日は大食堂でのおもてなしになる。給仕をする召使いの数も格段に違うし、準備される食べ物の量も、余る食べ物の量もぜんぜん違う。余った大量の食べ物は、召使いたちが食べているのではないだろうか――ここは王宮だから、ランベール家のやり方とは違うかもしれないけれど。給仕をしてくれるときに、偽物の食べ物を取り分けないよう気を付けてもらえばごまかせる。確かに綱渡りだが、何もできずにマリアンヌ様の顔に泥を塗るよりずっとマシだ。
「とにかくお客様の分だけ体裁を整えられたら充分よ。さあ、元気を出して、アンリさん。マリアンヌ様もいつも褒めているでしょう、わたくしもあなたの腕が最高だって知っているわ!」
「本当ですか」アンリの茶色の目がじっとわたくしを見た。「昨日の籠は、お気に召さなかったようですが」
「わたくしだって残念だったわ。わたくしとマリアンヌ様のところへ
「それはどういうこってす」
「わたくしが知りたいわ。間に何があったのかはわからない。でもわたくしたちのところへ届いた籠には、腐った果物の皮が敷いてあったの。あなたがそんなことをする人じゃないっていうことはわかっているし、マリアンヌ様も重々ご承知よ。とにかく、今はさあ、働きましょう! マリアンヌ様に恥をかかせるなんて絶対にできない、お願い、あなたの腕が頼りなのよ!」
アンリが立ち上がった。
そうすると、彼はまるで聳えるような大男だった。ジャクリーヌ様の前に出るときは少し離れた場所に小さく縮こまっていたから知らなかったが、ここの厨房、彼の城では、威風堂々として立派に見えた。
「メインはどうにかなるか。そういや、クィナの木で燻した豚の塩漬けがあった……」
今はもう、限られた食材でいかに素晴らしい食事を調えるかを、考え始めているようだった。
「しかし問題はデザートです。チョコレートと果物とベリー類だけではあまりに淋しすぎる」
「シュカルクッフェンがいいわ! あなたのシュカルクッフェンは最高だもの!」
口を出すとアンリは顔をしかめた。「ランベールのお姫様は本当にシュカルクッフェンがお好きですが。あれはおもてなし向きの菓子とは言えないですし、公爵のようなお年の方には重すぎやしませんかね」
「あら、あなたのシュカルクッフェンが気に入らない人なんているものですか。材料がないなら仕方がないけれど」
「材料はあります、ありますがね、小麦粉とバターと砂糖くらいのもんですからね。が、デコレーションせずにお出しするわけにゃあいかんのです!」
「ええお任せするわ。デザートの内容を考えるのはあなたですもの。わたくしは希望を述べているだけ。“鏡の向こう”では、チョコレートのようなものを溶かして飲んでいるようだって聞いたわ。溶かして、シュカルクッフェンにかけたらどう?」
「冗談じゃない、甘すぎる!」
「それを上手く調整するのが、あなたの腕じゃなくて?」
微笑んで言ってやると、アンリはぎろりとわたくしを睨んだ。
「だいたいなんですそのお召し物は。本当に、ランベール公爵令嬢、あなたでいらっしゃるんですか? いったい全体どうしてこんなところにそんな格好で! スキーに行かれたんじゃないんですか!?」
少し調子が出てきたらしい。わたくしの格好に注意を払う余裕が彼に戻って来た。こうなると旗色が悪いのはこちらである。
「だって信じられない籠が届いたんですもの、あなたが病気にでもなったのじゃないかと心配だったのよ。それでマリアンヌ様にお願いしてこうしてお見舞いに来てみたら、こんな事態になっていたというわけ。でも良かった、あなたがお元気そうで。あなたが病気だったなら、ロクサーヌ様をおもてなしするなんて絶対に無理だったもの」
うぬう、とアンリは唸る。が、それ以上は何も言わず、コック帽をかぶって踵を返した。わたくしは満足だった。打ちのめされて途方に暮れるのをやめて、とにかく目の前の問題に立ち向かう気になってくれた。召使いや下女たちもうろたえるのをやめ、きびきびと働き出している。
わたくしはマルゴと一緒に厨房を出た。
次は家政婦長だ。
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