第6話 厨房へ乗り込もう2/3
ともあれ。
わたくしはノーラにドレスを渡し、ノーラの衣類を借り、裏門の近くで馬車を降りた。マルゴも召使いの服装に身を包み、わたくしについてきてくれている。こんな巻き毛の召使いはいないと言われたため、わたくしは髪を結った上で大きめの手巾で包んでいた。これからの用事にも都合がいい。
あの後、ブライアン様もマリアンヌ様も、わたくしたちを心よく送り出してくれた。――とは、正直言えなかった。マルゴがブライアン様に、今朝の顛末を暴露したからだ。
今朝何があったかというと、身支度をする前だ。わたくしは髪を切ろうとしたのだ。
だってこんな巻き毛の召使いはいないってマルゴが言うから。いえ、淑女としてはしたないほどの短さにまで切るつもりはなかった。緩やかなウェーブの辺りまで切れば、召使いに化けるのにちょうどいいと思ったのだ。王宮ではいつもマルゴが結い上げてくれるから、短さや巻き毛の量はごまかせるし、しばらくダンスをする機会もないはずだから、何らかの集いの時には付け毛を付ければいい。戴冠式までは半年もある。それまでには髪も伸びるだろうし。遠駆けの準備で忙しいマルゴの手をわずらわせるまでもないかと、思ったのだけれど。
結局マルゴにもノーラにも泣いて止められたので断念し、手巾で包む作戦に切り替えた。実行しなかったのだし反省もしているのだから、これ以上咎めないで欲しかったのだけれど――マルゴからそう聞かされたマリアンヌ様は呆れ、ブライアン様はわたくしを叱った。公爵家の人間に生まれた以上、侍女や召使いにとって“仕えやすい”存在でいることは義務だと。いくら目先のたくらみに夢中であっても、自分を傷つけるような真似をすべきではないと。淑女にとって巻き毛の美しさは重要なのだから、あなたがしようとしたことは、顔に傷を付ける行為に等しいのだと。
ぐうの音も出なかった。わたくしはマリアンヌ様の名に誓って、二度と同じ過ちは繰り返しませんと宣誓する羽目になった。
まあそれでも、この冒険を止められなかったことと、ブライアン様とマリアンヌ様の全面的な協力を得られたことはありがたい。
*
一度ランベール公爵家のタウンハウスに寄った後、わたくしとマルゴは首尾良く王宮の西門に辿り着いた。空は良く晴れていて、路上は綺麗に雪かきをされており、また召使いの靴を履いていることもあり、歩くのに支障は全くなかった。
衛兵に公爵家から調達してきたものを見せ、つつがなく西門を通る。セバスチャンは呆れていたが、協力を約束してくれた。セバスチャン配下の料理婦の制服を借りることもできたし、身分証代わりの手紙も入手できた。本当にセバスチャンは頼りになる。
王宮の料理長は確か、アンリという名前だった。
アンリの顔は知っている。ジャクリーヌ様がご存命だった頃、晩餐会や豪奢なお食事会が催される度に素晴らしい腕を振るい、ジャクリーヌ様が彼を呼んでよくお褒めの言葉を伝えていた。その時に一度か二度、会ったことがある。わたくしからお食事への賛辞を伝えるときは、マルゴ付きの何人かの召使いを通すのが常だったから、最近は見ていないが、たったの何ヶ月かでそれほど人相が変わるものでもないだろう。
わたくしは、今回の計略の成功をぜんぜん疑わなかった。
だって、お褒めの言葉を賜ったときのアンリの誇らしげな笑顔には、ジャクリーヌ様への崇拝と尊敬の念が溢れ出ているように思えたからだ。それに彼の腕は素晴らしい。晩餐会のときだけじゃなく、普段の食事も本当に美味しい。マリアンヌ様のことを思ってあんなに美味しいお料理を作れる人間に、悪い人はいないと思うから。
マルゴと一緒に西門からの道を歩いて行く。王宮は本当に広い。本来なら馬車で移動する距離だが、今日は仕方がないのでてくてく歩く。雪をかぶった王宮はうっとりするほど綺麗だ。
それにしても、召使い用の踵の低い靴って歩きやすいのねえ。舞踏会で履かなければならないあの呪わしい靴など履いていたら、途中でくじけたに違いない。
靴のお陰でようやく、王宮の建物が見えて来た。何もかも弁えたマルゴが、モルト夫人やそのおつきに見つからないよう、厨房の裏手に誘導してくれている。
と。
どこからともなくざわめきが聞こえてくることに気づいた。
なんだか王宮全体が、浮き足立っている。――ように思える。
マルゴは足を止め、顔を上げ、空気の匂いを嗅ぐようにした。そのきりりとした美貌が、少し困ったようにしかめられる。
「変ですわね。何か騒ぎが起こっているようですわ」
わたくしもマルゴに倣って空を見上げた。お日様は、まだ低い位置にある。
遠駆けは朝早く出かけるのが常だ。だいぶ歩いたから時間は経っているが、今はまだ、普段ならば朝食を取っているくらいの時間だろう。今日はマリアンヌ様もわたくしも出かけているし、もちろん重要なお客様など滞在していないのだから、王宮はのんびりと寛いでいるのではないだろうか。そう思っていたのに、この慌てた空気はどうしたことだろう。浮ついていると言うよりは、慌てふためいている様子だ。ジャクリーヌ様がお倒れになったあの日を思い出してぞくりとした。さっき元気満々なマリアンヌ様と別れたばかりでなかったら、マリアンヌ様が倒れてしまわれたのではないかと思うほど。
「……」
「――」
「……」
言葉の内容までは聞こえないものの、誰か大勢の人たちが何か大声で言い交わしているのが聞こえてくる。雪をかぶった木立を抜け、王宮の裏手が見えたとき、マルゴがわたくしを止めた。
「見てまいりますわ。ここでお待ち下さいませ」
そのまま周囲を確かめて足早に厨房の方へ歩いて行く。わたくしは襟巻きを外した。汗をかくほどではないが、ずっと歩いてきたので少し身体が火照っている。どこかで座って一休みできたら良いのだけれど、“たくらみ”に付き合ってくれているマルゴがわたくしのために様子を見に行ってくれているというのに、自分だけ休むなんて論外だ。スカートの裾をなおし、真っ白な前掛けの紐をほどいて縛りなおしたとき、囁くような声が聞こえた。
「ざわめきの理由を知りたいですか」
なんだか笑みを含んだような、楽しそうな、からかうような、高い子供の声だった。
「えっ」
わたくしは辺りを見回した。昨日礼拝堂で聞いたばかりの、あの“テオ”と名乗った少年の声だ。
「あなた、テオ?」
「ええ、そうです。こんなところでお目にかかるとは――それもそのような出で立ちをなさっているとは」
笑い声が混じった。わたくしはもう一度辺りを見回した。テオからはわたくしが見えているらしい。でも、わたくしの目には誰も見えない。お日様を浴びた雪の風景は眩しく、どこもかしこも輝いていて、テオはもしかして雪の妖精なのではないか、なんて一瞬思ってしまいそう。
「どこにいるの? 出ていらして」
「それはどうかご勘弁ください。貴女様にお目にかかれるような身分の者ではございません。……それにしても貴女はよくよく運の強いお方のようですね」
「そうね、運は悪くない方よ」三度辺りを見回した。「でも、どういう意味?」
「王宮がざわめいているでしょう。ロクサーヌ・デュシュマン公爵が、取り巻きのおふたりを連れて王女殿下を訊ねていらっしゃる。それがわかったんです。もちろん、来られるのは今日です」
「え――」
わたくしは額に手を当てた。信じられないことを聞いた。
テオの姿はどこにあるのか、木々に紛れてぜんぜん見えない。でも。
じわじわと理解が滲みてくる。事実が、胸に落ちてくる。マリアンヌ様のお留守に、お客様が来られる。――それもよりによって、デュシュマン公爵だなんて! あってはならないことだ!
ロクサーヌ・デュシュマン公爵は、マリアンヌ様の伯母様に当たる。ジャクリーヌ様のお兄様、先々代国王陛下の奥様であられた方だ。先々代は、若くして身罷られた。まだ世継ぎがいなかったために、妹であるジャクリーヌ様が後を継がれた。その際、ロクサーヌ様はひと悶着を起こされたのだが、最終的にはデュシュマン公爵に封じられることで納得された。
わたくしはよろめき、胸を押さえて喘いだ。息が巧くできない。
「嘘、嘘、だって――マリアンヌ様はスキーに行かれたわ! ま、まさかそんな。前触れ無しでいらっしゃるなんて!」
ロクサーヌ様は一筋縄ではいかないお方だと、今までにもよく聞いていた。ジャクリーヌ様の女官だったわたくしのお母様は、ロクサーヌ様を相手に精一杯の戦いをなさった。公然と敵対し、お互いの主張をかけて渡り合った相手だ。
でもわたくしはロクサーヌ様が嫌いじゃない。お母様のことを大嫌いだったはずだけれど、娘のわたくしにまでその悪感情をぶつけるようなことをなさらなかった。敬意を持って遇してくださった。なかなかできることじゃない。聡明で公平な方だと思っている。
けれど――まさか、前触れなしで王宮を訪れるだなんて。それもマリアンヌ様がスキーに行かれた隙を狙うようにして。それは、喪中にも関わらず遊びにうつつを抜かしていると、マリアンヌ様を叱責する端緒を掴むためなのだろうか。
でも、テオの穏やかな声が囁いた。
「前触れがなかったわけがないでしょう? 今は喪中だから簡略化されているけれど、通常時なら王宮と公爵家の執事や家政婦長同士が綿密に打ち合わせをすべきイベントですよ」
まるで、幼い子供をあやすような。優しい、労りに満ちた声だった。
「いくら簡略化されているとはいえ、王宮を公爵が訊ねるのに、知らせを出さないはずがない。デュシュマン公爵はそんなことをなさるような方ではありませんよ。――こちらでその知らせを、握りつぶした人間がいるんです」
テオの声はとても優しい。まるでわたくしが傷つくことを気の毒に思ってくれているような、そんな声だ。わたくしは唇を噛みしめて、顔を上げた。咳払いをひとつ。
「――そうね、もちろんそうだわ、ロクサーヌ様はそんな意地悪をなさるお方ではない。テオ、どうもありがとう。今は時間がないからこれで失礼するわ。よかったら後日、玄関から訪ねていらして」
返事を待つ暇もなく、スカートの裾をつまみ上げて歩き出す。冗談じゃない。――冗談じゃない! モルト夫人の底意地の悪さときたら以前から身の毛がよだつほどだったが、今回のこれは見過ごせない。王宮への、ひいてはマリアンヌ様への、はっきりとした造反行為だ。王宮の郵便管理を司る役職――非常に重要な部署にまで、オーフェルベックの魔手が伸びていると言うことだ!
青ざめたマルゴがこちらに戻ってくる。わたくしは走り出した。「姫様、」狼狽えた声を上げるマルゴに、わたくしは叫んだ。
「マルゴ! 戦闘準備よ!」
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