第4話 作戦会議

 セバスチャンの救援物資は、わたくしを慰めてくれた。

 キッシュやタルト、大好きな香草入りのパテと、白いパン。大きなソーセージは、マルゴがひと口大に切り分けてくれた。チーズとスパイスの風味が薫香と混ざり合い、なんとも美味しい。蕩けるようになめらかな白カビのチーズに、硬くてしょっぱい黄色のチーズ。そう言ったものをマルゴとふたりで分け合っている内に、少し落ち着いてきた。同時に、モルト夫人がなぜマリアンヌ様に籠を見せたがったのか、その気持ちも分かるような気がしてきた。美味しい食べ物を、心を込めて、こちらのことを思いながら準備してくれる存在は、これほどに心を慰めてくれる。それならば悪意の塊そのもののようなあの籠の中身は、さぞかしマリアンヌ様のお心を傷つけたことだろう。


 同じことを考えていたのだろうか、マルゴが小さな声で囁いた。


「姫様。立ち向かわなければなりませんわ。姫様が王宮から追い出されて、その代わりをモルト夫人と、あの女と同類の者たちが勤めるようになったなら、マリアンヌ殿下の安寧の地はなくなってしまいます」

「そうね」


 それについては同感だ。わたくしとて、座してこのまま見過ごす気は毛頭ない。ただね、受けた衝撃が少しばかり大きすぎたので、大好きな食べ物を食べながら気力を取り戻しているところなのよ。あばずれなんて、目で読んだことはあっても耳で聞いたの初めてよ。それがわたくしに向けられた侮蔑の言葉だなんて!

 紅茶には蜂蜜を入れてもらった。甘くて温まる。あの冷たい壁のせいか、それともあの暴言のせいか、かなり体が冷えていたらしい。


 少しばかり打ちのめされているという自覚がある。わたくしは生まれてこの方、誰かからの悪意をまともにぶつけられるという経験をしたことがなかった。社交界にもとうに出ているのだが、マルゴが好むようなお話や物語とは違って、正面切って罵られたり、階段から突き落とされたりといったことは一切起こらなかった。王女殿下と仲の良い公爵家の娘に喧嘩を売る度胸のある令嬢はいなかった、ということなのだろう。


 モルト夫人は恐らく、保身を考えてはいない。既に嫁いでいるし、わたくしとマリアンヌ様の不興を買って家名に泥がついたって、怖くもなんともないのだろう。わたくしの悪評をばらまき、ここから追い出すことさえできたら、高笑いをしながら退いて、オーフェルベック領に素敵な邸宅を用意してもらい、悠々自適の余生を送るつもりなのだろう。――それっておかしいわね、と、少し落ち着いて考えられるようになってきた。いったいなぜ、あんな不愉快で根も葉もない悪評をばらまかれたわたくしが、傷つかなければならないのかしら。ばらまいた側は平気で楽しく悠々自適の余生を送るなんて、どう考えてもおかしい。理不尽だわ。


 そろそろマリアンヌ様のお食事も終わる頃だ。と――こんこん、とノックの音がした。「ノーラでございます」先ほどわたくしに衣装を貸してくれた召使いの、透き通った声がした。「お入り」とマルゴが声をかける。


「失礼いたします」


 ノーラはおっとりと言って、扉を閉めた。一冊の帳面を胸に抱えている。


「マルゴ様、先ほどの召使いの名は、フェリシテ・ラッツェルでしたわ。やはりオーフェルベック領の出身で、モルト夫人に幼い頃から仕えておりました」

「ありがとう」

「家政婦長から借りてまいりました。こちらを」


 そう言ってノーラが差し出した帳面は、どうやら使用人の名簿らしい。マルゴは礼を言って受け取った。いつの間にノーラに調査を命じたのだろう。ぜんぜん気がつかなかった。

 マルゴは早速帳面をぱらぱら捲り始めている。ノーラはわたくしを見て、


「姫様、わたくしも悔しゅうございます。……悔しゅうございますわ! 引っかいてやりたい!」


 憤懣やるかたないというように叫んだ。わたくしはなんだかホッとした。一緒に怒ってくれる仲間がいると言うことは、ありがたいものだ。


「王女殿下にお話しして、解雇していただくわけにはいかないのですか?」

「そうね、それができればねえ、良いのだけれど……モルト夫人を解雇したら、オーフェルベックがどんな報復に出るかわからないでしょ」

「それにあの様子では、家政婦長配下の召使いや使用人たちにも姫様の悪口を吹き込んでいるに違いありません。そんな矢先に解雇したら、姫様の悪評に一定の信憑性を与えてしまうことになりかねませんわ」


 マルゴが帳面をめくりながら言う。ノーラは「でも!」とまだぷんぷん怒っているが、わたくしのカップが空になっているのを見て、お代わりを用意しに行ってくれた。




 この部屋はわたくしの個室だ。まだ女官でもないし正式なお仕事をいただいているわけでもないのだが、マリアンヌ様の友人としてお部屋だけは与えられている。

 もともとはお母様が使っていた部屋だ。わたくしが使わせていただくようになってから、未婚の娘が使ってもおかしくないよう、壁紙を取りかえて、家具を少し入れ替えた。それから今わたくしが座っている絨毯だけは、かなり上等なものを入れてもらった。でも、基本的な間取りや建具はもとのままだ。ノーラが今紅茶の準備をしている茶棚も以前からのものだし、お湯を保温しておくための、魔石使用の焜炉もそのままだ。


 そして、マリアンヌ様のお部屋に通じる扉も以前のとおりだ。


 こんこここん、と扉が鳴る。この合図も、ジャクリーヌ女王陛下とお母様が使っていた合図をそのまま引き継いだ。「どうぞ」と声をかけると、扉が開く。開いたのはマリアンヌ様の侍女アンリエットで、こちらに丁重に一礼してから身をひき、マリアンヌ様を先に通した。すらりとしたマリアンヌ様は、薔薇と言うよりは芍薬のよう。今夜も可憐に微笑んでいる。ああ、癒やされる……。マリアンヌ様の笑顔は万病に効くんじゃないかしら。


「お加減はいかが? ――まあひどいわ、晩餐をキャンセルしてピクニックだなんて。わたくしも呼んでくれればいいのに」


 そう言いながら、マリアンヌ様はわたくしの隣にクッションを抱えて座った。わたくしもマリアンヌ様も、ふかふかの絨毯の上にじかに座って寝台や家具に凭れ、クッションを抱えてお喋りするのが好きなのだ。これはお母様の代には決して許していただけなかった習慣だ。モルト夫人が見たら金切り声を上げるに違いないが、マルゴもアンリエットも、召使いたちも、夕食後のくつろぎの時間・この部屋でだけ、という条件付きで、大目に見てくれている。そのため、この特別な絨毯は土足厳禁だ。召使いたちが毎日綺麗にブラシをかけ、晴れた日には日に当ててくれている。


 ノーラがすかさずマリアンヌ様とアンリエットの分もお茶を入れに行く。マルゴはセバスチャンの救援物資の中から、新たに軽くつまめるサクサクのクッキーと花弁の砂糖漬け(すみれと薔薇)を取り出して、マリアンヌ様とアンリエットに勧めた。わたくしはノーラがくれたばかりのカップを抱えて、マリアンヌ様に訊ねる。


「マリアンヌ様、夜のお食事はいかがでした?」

「美味しかったわ、いつもどおりよ。……アンリエットから聞いたわ。昼間の籠がすり替えられていたのですって?」

「……ええ」

「そうなのです。それはモルト夫人の企みでございました。その上姫様が“こんな不味いもの食べられない”と突き返しただなんて、料理女中に話したのです。おまけに、おまけにあばずれだの放埒だのと、事実無根の暴言を……!」


 わたくしが制止する間もなく、マルゴはマリアンヌ様とアンリエットに先ほどのささやかな冒険の顛末をすっかり話してしまった。改めて繰り返されると、“高慢”だの“わがまま”だの“鼻持ちならない”だの“あばずれ”だのといった評価には、やはり堪えるものがある。


 聞き終えるとアンリエットの目は先ほどのマルゴのように据わっており、マリアンヌ様の目は、


 爛々と輝いていた。怖い。

 低い声で、マリアンヌ様が呟く。


「……わかったわ。明朝にはモルト夫人を運河に浮かべる手配を調えましょう」


 わたくしは慌てた。「お待ちください、マリアンヌ様」


「王女の食事に手を出したのよ。その気になれば毒も盛れるということ、宣戦布告と取られたっておかしくないだけのことをあちらはしたの。それだけならまだしもテレーズ、よりによってあなたに泥をかけるような真似! よくも、よくもこのわたくしの家で……!」


「恐れながら」とマルゴが言った。「既に姫様の悪評は、王宮の至る所にばらまかれているものかと存じます。以前から姫様を良く知っている者たちには何の影響もないでしょうけれど、姫様と直接関わることのない者たちには浸透してしまっている恐れがありますわ。そこにモルト夫人が運河に浮かぶようなことがあっては、口さがない者たちがどのような噂をするものか」


 アンリエットが頷いた。「確かに、その懸念はありますわね」


 マリアンヌ様は、むうっと唇を尖らせた。こんな時だというのに、わたくしはつい、顔を綻ばせずにはいられなかった。


 ここには、こんなにも、わたくしのために憤ってくれる仲間がいる。そう実感するだけで心の澱が消えていくようだ。


「マリアンヌ様、わたくしに、少し時間をいただけないでしょうか」


 そう言うと、マリアンヌ様は驚いたようだった。


「時間を?」

「ええ。おかげで取れそうな手を思いついたの。モルト夫人を運河に浮かべるのは、その首尾をご覧になってからにしていただけませんか。モルト夫人の後ろ盾はオーフェルベック公爵ですもの、なんらかの口実を与えるのは得策ではございませんでしょう。ね、お願いマリアンヌ様。わたくしに任せてくださらない?」


 マリアンヌ様は、まだ少し不服そうではあったが、しぶしぶ頷いてくださった。


「……いいわ。でも危険なことはしないのよ。使えるものはなんでも使うのよ、わたくしの名前だってなんだって使って。いい?」

「ええ、ありがとうございます。あの、早速ひとつ、お願いがありますの」


 わたくしはにっこり笑って声をひそめた。


「明日、ブライアン様とお出かけになるでしょう?」


 とたん、マリアンヌ様はぱっと頬を赤く染めた。ああ、なんて可愛らしいのかしら。ブライアン・オークウッド様はマリアンヌ様の婚約者だ。正式な呼称はルークラフト侯爵だが、オークウッド公爵家のご嫡男であり、いつか公爵家を継ぐことが決まっている。オークウッド公爵家は、わたくしの実家ランベール家とも代々仲が良く、現エステル王家の強力な支持者であり続けている家のひとつだ。


 ブライアン様にはわたくしも、まるで実の妹のように可愛がっていただいている。マリアンヌ様とは生まれた頃からの、両家が決めた婚約者だが、相思相愛で、本当に素敵なお二人だ。喪中だから観劇や演奏会には出かけられないけれど、マリアンヌ様が王宮の中で窒息してしまわないようにと、ひと月に一度ほど、お出かけの予定を入れてくださる。明日はここからほど近いエルベ山でスキーの予定だ。


「わたくしも同行させていただく予定ですけれど、その時ね……ちょっと……」


 わたくしはマリアンヌ様にひそひそと計画を説明した。さあ、上手くいくと良いのだけれど。

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