第2話 謎の少年

 午後。


 マリアンヌ様は王宮の表側にある執務室へ赴かれた。午後からは事務官との打ち合わせが入っているのだそうだ。

 わたくしはぷりぷり腹を立てながら礼拝堂へ向かっていた。今更ながら、昼食の時のあのいまいましいモルト夫人への憤りがよみがえってきている。そもそもマリアンヌ様は王女であり、次期王位継承者である。敬意を払ってしかるべきだ。さらには、あんなにお優しくて聡明で、この国を治めるために日々奮闘なさっているお方だ。いったいどうしてあんな食べ物を用意するなんてことができたのだろう? 理解に苦しむ。この国の人間はみな、マリアンヌ・エステル様を崇めて崇拝してひれ伏すべき! 異論は認めません!


 礼拝堂はいつもながら静まり返っている。この季節、王宮のはずれにあるこの廊下はさすがに冷える。マルゴがショールをかけてくれた。ショールは灰色で、ふかふかで、とても暖かい。

 

「少々お待ちくださいませ」


 マルゴはそこにわたくしを残し、礼拝堂へ入って行った。異常がないかまずは一人で確認しに行くのは普段からのマルゴの日課だ。それが済むまで、わたくしもおとなしく扉の前で待っている。

 が、口の方はおとなしくしてはいられなかった。通路も礼拝堂もいつもどおり無人のようだし、胸にためた憤懣を打ち明ける機会を今か今かと待ち望んでいたのだから。


「マルゴ、あなたはどう思って? 信じられる? いったいどういうつもりなのかしら! よりによってマリアンヌ様にあんな仕打ちができるなんて、人間の所行とは思えないわ!」


 扉の中に向けてそう言うと、マルゴはこちらを振り返った。


「本当にそうですわね。わたくしは、姫様があの場でモルト夫人を打擲してくださるのではないかとだいぶ期待しておりました。あの方の増長ぶりは最近目に余りますもの」


 マルゴも憤懣をためていたらしい。わたくしは同意を得られたことで少し溜飲が下がり、ふうっと息をついた。


「打ちすえれば良かったと? ――そうね、そうできたらどんなによかったか」


 そうね、そうだった。その手があった。わたくしには扇もあるし、マルゴはこう見えて剣の達人だ。わたくしの扇をマルゴに渡せば、マルゴが喜んでしかるべき措置を施してくれたはずだし、ランベール公爵家の人間に打擲されたという噂が流れたら、モルト夫人は二度と社交界で顔を上げて歩けなくなっていたはずだ。あんな食べ物を王女へと差し出したあの女を、わたくしが打擲して王宮から叩き出したとて、直接的に咎められることはなかっただろう。


 しかし、後ろ盾がオーフェルベック公爵であると言う点が厄介だ。

 "王国の蛇"オーフェルベックはここ数代、凄惨な噂の絶えない家柄だ。"蛇"というあだ名の由来は、かの家を代々守ってきた巨大な守護獣にある。血縁にしか懐かない、獰猛で、恐ろしく巨大な蛇だ。公に逆らえば捕らえられ、その蛇の生餌にされてしまう。いつも飢え死にギリギリにまで腹を空かせていて、毎年のように使用人が犠牲になるという。


 そんな噂も頷けてしまうほど、現公爵閣下の放つ雰囲気は冷たい。

 自らの権力に固執し、貪欲で、ことあるごとにエステル家に横やりを入れ、王位を簒奪しようとしてきた。何をするかわからない恐ろしさがある。下手にモルト夫人をたたき出したりしたら、どんな報復をされることか。

 またその報復は、わたくしではなくマリアンヌ様に向かうであろうと言う点が更に厄介だ。マリアンヌ様にこれ以上の負担をおかけするわけにはいかないし、わたくしの軽率でオーフェルベックに介入される端緒を与えてしまいかねない。軽々しく打擲して済む話ではない。


 マルゴは見回りを再開しながら微笑んだ。


「よろしいのです、姫様は何かお考えがあって、丸くおさめられましたのでしょう? セバスチャンへも上手く書いておきました。姫様が王女殿下を喜ばせたいと仰せだと」

「ありがとう。済んだら声をかけるわ」

「はい」


 マルゴは礼拝堂を一周し、異常がないのを確かめ終え、魔石使用のストーブをつけてから、わたくしを中へ入れてくれた。ブウゥ……ン……ストーブが低くうなり始め、床から暖気が湧き上がってきてわたくしの冷えたくるぶしを撫でた。冷たい空気が、優しい暖気に染まっていく。

 マルゴは外へ出て、そっと扉を閉めた。ひとり残されたわたくしは礼拝堂を見回した。本当に、静まり返っている。


 王宮にいくつかある礼拝堂の中でも一番小さくてひと気のないここは、わたくしのお気に入りだ。王宮の敷地内を横切るせせらぎがすぐ隣にあり、その上に張り出すように出窓が切られている。お祈りを済ませてから、その出窓に歩み寄って手すりに凭れて腰を掛けた。木造りの腰掛も窓枠も、すでにほんのり温まっていた。少し窓を開けて、耳を澄ませた。外は雪に埋もれているが、せせらぎが凍り付くほどの温度ではなく、かすかな水音が響いてくる。冷たい空気が流れ込んできて暖気に混じる。

 お祈りのあとはここでせせらぎの音を聞きながら考え事をするのが日課だった。

 優しい水音とともに、心が鎮まっていく。


 お母様が亡くなられてしばらくは、ここでよく泣いたものだ。マリアンヌ様やマルゴに心配をかけるから、ひとりのときしか泣かないようにしていた。あれからもう二年になる。今わたくしは、あの時のマリアンヌ様と同じ十七歳になった。わたくしを慰めて支えてくださったあの時のマリアンヌ様のように、わたくしも今、少しはマリアンヌ様を支えられる存在になれているだろうか。


「それにしても」考えをまとめるために、口に出して考える。「魂胆は……何なのかしら」


 モルト夫人は生ゴミのようなものを籠に詰め、わざわざマリアンヌ様に見せようとしていた。

 窓枠に肘をついて、うーん、とうなる。


「マリアンヌ様に見せることが目的だった……? 蔑ろにされているということを、知らしめるために?」


 そう考えて、わたくしは首をひねった。

 これがオーフェルベックの差し金なのだとしたら、狡猾な"蛇"にしては、やり方が卑小に過ぎるのではないかしら?

 オーフェルベック公爵は、マリアンヌ様が王位を継承するのに反対している。公爵にも一応継承権はあるから、自分が継承したい心づもりでいるのだと、仮定してみる。


「そうだとしたら、年下で健康でお元気なマリアンヌ様は邪魔だわ。毒を盛るつもり――いえいえ、まさかそこまでは。夫人の後ろ盾が誰かということは周知の事実だもの。彼女が用意させた食べ物に毒が入っていたなんて、さすがにあからさますぎる。それなら……マリアンヌ様を怒らせて、夫人を追い出すことを期待した? それならば少しは……夫人が告げ口したら、内向きのことに口を挟めるようになる……ううん、どうしても、やり口が卑小だわ。せこい、というのかしら。男らしくない。何て言うんだったかしら、……“みみっちい”?」


 変な音がした。誰かが吹き出したような音だった。

 わたくしはぎょっとして座り直した。礼拝堂の中は無人だ。マルゴが確かめたのだから、それは確かのはず。


「誰?」

「……す、すみません、たいへん失礼いたしました」


 すぐに応えが返ってきて、わたくしは少しホッとした。細くて高い声だった。まるで少女のような。

 どうやら出窓の下から聞こえてくるようだ。窓から身を乗り出してみるが、真下は王宮の中を通るせせらぎだ。ただでさえ寒々しいこの季節に、こんな場所で。いったい、何をしているのだろう?

 

「ここにおります」出窓の少し下から、手袋をはめた指先だけが覗いてひらひらと動いた。「盗み聞きをするつもりはなかったのです。たいへん申し訳ありません。散歩に出たのですが、あまりにも寒くて……ご存じですか、ここの下はトンネルのようになっていまして、風をしのげるんです。そうしたらその、楽しいつぶやきが降ってきたものですから……」


 手袋をはめた指先は出窓から少し下に見えていて、せせらぎの距離から見ても、その誰かが上ってこられるような気遣いはなさそうだ。わたくしはもう少しホッとした。下にいるのは少女もしくは年若い子供であり、万一にも害される心配はない。


「あなたはどなた?」

「テオと申します」


 テオ? ならば、男の子だろうか? 口調は洗練されていて、指先しか見えない手袋も、なかなか仕立てがよさそうだった。少なくとも使用人や従僕のような存在ではなさそうだ。どなたか、王宮を訪ねてこられた貴族のご子息が、退屈して探検に出て、寒さをしのぐために休んでいた。そんなところだろうか。


「帰り道はおわかり? 誰か呼んで、案内させましょうか」

「いえ、どうかお気遣いなく。帰り道はわかりますから」

「でも、雪の日はいつもより迷いやすいと言うわ。寒いでしょうし、また雪が降り始めるかもしれないし」

「お気遣いありがとうございます。実はその、護衛が近くにいて、僕を探しているんです。あんまり煩いのでちょっとここに隠れていたんですけど、もし、お姫様のお手を煩わせたと知られたら……」


 少年は言葉を濁し、わたくしは思わず笑ってしまった。確かに、いたずら盛りの少年が雪に浮かれて護衛をまいて、ここに隠れるというのはありそうなことだ。今の段階ではよくあるいたずらで済むが、わたくしが介入したら、お小言では済まなくなる恐れがある。

 

「ではごきげんよう」


 言いながら、独り言をどれくらい聞かれただろう、と考えた。真下にいる子供は利発そうで、声の割に年を重ねていそうな気もする。固有名詞は出していなかったと思うけれど、子供が内容を推察できるようなことまで口に出していたかしら?


 やはりマルゴを呼んで、この子を見張るよう手配した方が良いかしら。

 窓を閉めようとした時、テオが囁くのがせせらぎに紛れて聞こえた。


「……ご自分が標的だとは、考えないのですか?」

「えっ?」


 もう一度窓を押し開く。どんなに身を乗り出しても、テオの姿は出窓の下になって見えない。ぴちゃん、と水音が跳ねた。まるでひとひらの雪片のように軽やかなテオの声が、笑みを含んで囁く。


「マリアンヌ・エステル王女殿下の、誰よりも心強い味方。ランベール宰相閣下の愛娘、麗しく聡明な右腕、テレーズ・ランベール姫。あなたが周囲からどのように囁かれているか、ご存じないのですか? オーフェルベックがもしも王女を孤立させ王位を簒奪するつもりなら、まずは右腕から排除する。そう、思われませんか」

「わたくしが、標的……?」

「あなたに足りないのは悪意と悪知恵です。誰もがあなたのように、自分以外の誰かを心から崇拝できるわけではないのですよ」


 声が、遠ざかっていく。待って、と言おうとして、わたくしは、その場に立ちすくんだ。

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