王女殿下の懐刀

天谷あきの

第一章 寒月

第1話 籠の中身

 ジョアンヌ・ジル・モルト夫人が準備した籠の中には、見るからに硬くぱさぱさした黒いパンの切れ端と干からびたチーズのかけらが入っていた。

 切り分けられた果物の切り口も干からび、茶色く変色している。レタスが添えられて然るべき場所に鎮座しているのは果物の皮。季節が違ったら、きっと蠅がたかっていただろう。ゴミ捨て場から拾ってきたものを詰めたようにしか見えない。料理長がこれを用意しろと命じたのだろうか。王女のために? 今まで一度も、こんなことはなかったのに。

 

 問題の籠を開けたのはわたくしの侍女、マルゴだ。マルゴは目を見開いて硬直している。わたくしも二の句が継げなかった。ジル・モルト夫人は勝ち誇ったようにこちらを見ていた。とげとげしい居丈高な声音で彼女は言った。


「ジャクリーヌ女王陛下が身罷られてからまだ半年足らず。中喪式も過ぎておりません。必要以上の贅沢は、国民の理解を得られますまい」


 なんという言い草――目の前が真っ赤になるほど腹が立った。わたくしが頼んだのは、暖かな窓辺でピクニックのように楽しめるサンドイッチや果物だ。それのどこが“必要以上の贅沢”だというのだろう!


 我が敬愛する王女殿下、マリアンヌ様は、いまだに執務に没頭していて、事態に気づいておられない。わたくしは呼吸を整えた。ジャクリーヌ女王陛下を亡くした悲しみに浸る暇もなく、その執務のほぼすべてを肩代わりするべく日々奮闘なさっている王女殿下に、これ以上の心痛を負わせるのは忍びない。なのにモルト夫人は厚顔にも、勝ち誇ったような声を投げかける。

 

「殿下、昼食のお時間で――」

「あなたのお心づくしは確かに受け取りました」わたくしは急いで遮った。「昼食の準備をありがとう。お下がりいただいて結構よ」

「わたくしはマリアンヌ様の女官でございます。あなた様からねぎらいのお言葉をいただく筋合いはございません」


 モルト夫人は挑戦的に言った。あなたの命令など聞くものか、と言う、彼女の内心が透けて見えるようだった。


 確かにわたくしはまだ、王宮から正式に何らかの役職に任命されたわけではない。マリアンヌ様も、喪が明けるまでわたくしを相談役などの地位に推挙することはできないから、今のわたくしの立場は、ただマリアンヌ様の友人だというだけだ。お部屋は与えられているが、お手当はいただいていない。


 けれど、王宮の中でわたくしを蔑ろにする存在なんて今までひとりもいなかった。当然だ。身罷られた女王陛下の唯一無二の親友で右腕であった女官総監は、わたくしの実のお母様だ。


「そう」わたくしは微笑んで見せた。「ではそこで、そのままお待ちいただくしかないわね。マリアンヌ様はお仕事がお忙しくて、一段落するまで我に返られないのが常ですもの、まさか有能なる女官ともあろうあなたが、お忙しいマリアンヌ様の集中をわざわざ乱すようなことはなさらないでしょうから」


 モルト夫人は負けずにつんと鼻を逸らした。


「もうお食事のお時間です。お時間どおりにお食事を摂られなければ殿下のお体に障ります」

「マリアンヌ様がお仕事をなさりながら召し上がれるように、籠に詰めてくれるようお願いしたのよ。執務の進め具合に口を挟むなんて、わたくし絶対にできないわ。あなたもそうでしょう?」


 そう言うと夫人は、憎々しげにわたくしを睨んだ。

 わたくしは、思案した。ここでモルト夫人を表立って叱責するのが得策だとは思えなかった。モルト夫人はこの籠の中身を知っていてわざわざマリアンヌ様に見せようとしている。明らかな宣戦布告だ。オーフェルベックの後ろ盾があるという理由だけでわが身を守れると高を括るほど無能ではないだろう。何らかの対処をしているだろうし、それを知らぬまま感情に任せて彼女を叱責しては、罠に首を突っ込む羽目になりかねない。


「マルゴ」できるだけ低い声で囁いた。「セバスチャンに使いを出して。今日と明日と、お願いすると」

「かしこまりました、姫様」


 マルゴは深々と一礼して文机へ向かった。わたくしは次に、アンリエットに囁く。


「アンリエット、申し訳ないけれど、わたくしのお部屋のクローゼットの中に入っている、白い箱を持って来ていただけないかしら。鍵はこちらに」


 本来、王女の侍女に召使いのような使いをさせるべきではない。それは分かっているけれど、非常事態だ。致し方ない。アンリエットも心よく頷いてくれた。鍵を受け取って、一礼して下がっていく。


 わたくしはモルト夫人に視線を戻した。モルト夫人はさすがにこれ以上、マリアンヌ様の邪魔をすることができず、じっとわたくしを睨んでいる。なんと暗く憎しみのこもった瞳だろう。わたくしは少し、ぞっとした。王女の友人に、こんなあからさまな敵意の視線を向けてくる。あまつさえ手ひどい嫌がらせを仕掛けてくるような人間が、王女殿下のお側近くに入り込んでいる。今回の件は絶対に見過ごせない。


 マリアンヌ様が名実ともに即位されるまで、あと半年ちょっと。マリアンヌ様はもちろん、ご自分で、このまま女王の座にお座りになる決意を固めていらっしゃる。婚約者であるブライアン・オークウッド様も、その決意を支持してくださっている。

 けれどオーフェルベック公爵はそれを支持するつもりはない。それはだいぶ前からわかっていたことだけれど、まさか、こんな手を使ってくるだなんて。


 わたくしは、モルト夫人を眺めながら心に決めた。

 マリアンヌ様は、諸外国や貴族のお歴々と渡り合うために、日々奮闘していらっしゃる。

 それならば。せめて日常の平穏だけは、わたくしが守って差し上げなければ。お母様がずっと、ジャクリーヌ女王陛下を支えてこられたように。



   *

   


 アンリエットが持って来てくれた箱の中身は、わたくしたちの大好きなチョコレートと、色とりどりの焼き菓子だ。


 わたくしの実家、ランベール公爵家のタウンハウスは、王宮からほど近い一等地に建っている。わたくしのお父様は現在宰相の地位にあるので、王宮にもお部屋があり、月の半分は王宮にいらっしゃる。わたくしにはめっぽう甘いお父様は、チョコレートや色とりどりのお菓子などを折に触れ差し入れてくださるのだ。


 あまり食べると太ってしまうので、おととい届いたものはまだ手を付けずにおいたのだが、そうしておいて助かった。セバスチャンからの救援物資が届くまで、マリアンヌ様にはこれを召し上がっていただこう。


 籠は幸い、きちんと編まれた王女に相応しい優雅なものだった。アンリエットはモルト夫人の視線を遮るように立ち、彼女から見えないように中身をナプキンにくるんで片付け、代わりに持って来たチョコレートやお菓子を芸術的に詰めてくれた。セバスチャンへの手紙を召使に預けて戻って来たマルゴがお茶の支度を済ませる頃、折良く、マリアンヌ様の書いていらっしゃるお手紙が書き上がった。わたくしはこほんと咳払いをする。


「マリアンヌ様、お茶が入りましてよ。ひと休みなさいませんか?」

「あら」


 マリアンヌ様はぱちぱちと瞬きをした。長い睫に縁取られた碧色の瞳が、わたくしを見る。


「もうそんな時間? ごめんなさいね、待たせてしまったかしら」

「いいえ、ちっとも。でもほら、ご覧になって。美味しそうな食べ物が届きましたのよ。モルト夫人が手配してくださったの」


 籠の中を覗いて、マリアンヌ様は顔を綻ばせた。ああ、まるで大輪の薔薇が綻ぶような笑顔だった! 本当に、なんて素敵な人なのだろう。ふたつしか年が違わないなんて信じられない。うっとり見とれたわたくしには気づかず、マリアンヌ様は嬉しげに、モルト夫人を見た。


「ご苦労様、モルト夫人。とても美味しそうだわ!」

「……お気に召しましたようで。私も嬉しゅうございますわ」

「良かったら一緒にいかが? ここへいらして、おかけになったら?」

「いえ、せっかくのお誘いではございますが、いろいろと立て込んでございますものですから」

「そう? それでは引き留めては良くないわね。いつもいろいろとお心配りいただいて、本当にどうもありがとう。お下がりいただいて結構よ」

「失礼いたします」


 モルト夫人は一礼して、引き下がった。そのうつむけた顔からは、何の表情も読み取れなかった。籠の中身をマリアンヌ様が喜んだことで面食らっているだろうに。

 マリアンヌ様はわたくしを見て、嬉しそうに微笑まれた。


「今日はどうしたのかしら、こんなに甘い物ばかり」

「最近、お仕事に根を詰めすぎていらっしゃいますもの。せめてお好きなものを召し上がっていただきたいという、料理長の心遣いではないかしら」


 そう言うと、マリアンヌ様は嬉しそうにはにかんだ。ああもう、なんて麗しいのだろう。こんなところでそんなに麗しさを振りまいて、いったいどうするおつもりなのか。尊すぎる。


 ――早く喪が明けるといいな。


 そう、思わずにはいられない。ブライアン・オークウッド様との婚約の儀が今から楽しみで楽しみでしょうがない。喪服でお化粧もせずにこの麗しさなら、婚礼衣装など着たらいったいどうなってしまうのだろう。いや、それより前に戴冠式だ。戴冠式でお召しになるガウンとドレスのデザインは、既に発注してあるはずだ。王都一の腕と名高いベルニエ女史の腕にかかったら、王女殿下の麗しさはいやが上にも高められてしまうだろう。ああ、困るわ。楽しみだわ。


 わたくしたちはそこでひとしきり、午後のお茶を楽しんだ。サンドイッチもテリーヌもサラダもなかったが、まあ、マリアンヌ様が喜んでくださったので良しとする。

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