第31話

 カイルは、吸い寄せられるように純白の扉の前に立った。


「しっかり選んだんだ。開けろよ」


 震える手で、ドアノブを掴む。

 本当に開けてもいいのだろうか。

 扉を開けたら一体、どうなるのか。

 不安が襲い掛かる。

 けれど決めたのだ。

 なら、開けるしかない―――


「お兄ちゃん、ダメだよ」


 ふいに聞こえるはずのない声が、耳朶を打った。

 懐かしい、聞き間違えるはずがない弟の声。

 慌ててカイルは振り返った。

 何もかもが、あの日のまま。

 眠りについた日から変わらない姿でシエルがそこに立っていた。


「そいつの言うこと、聞いちゃダメだよ」


 帰ろう、とシエルの手がカイルの手を掴む。


「お兄ちゃんのことは僕が守ってる。あのお兄ちゃんは、お兄ちゃんなんかじゃないよ」


 引っ張られ、カイルはドアノブから手を放す。


「本当に、シエルなのか……? だってお前は、」


 今も眠ったままなのに。

 どうしてこんな所にいるのだろうか。

 弟に手を引っ張られるまま、扉からどんどん離れていく。


「待てよっ! お前、扉を開けないと損すんぞ! シエル、邪魔しないでくれよ」

「ダメだよ。お兄ちゃんじゃないのに、言うことなんか聞けないもん。お兄ちゃんは、帰らなきゃいけない所が、やらないといけないことがあるんだから」


 もう一人のカイルが、カイルの手を掴もうとしたその時だった。

 何かが、もう一人のカイルの手を弾いた。

 薄い透明の膜のような……バリアだ。

 その背後から、三匹の黒い蝶が、闇に溶けてもう一人のカイルに襲い掛かった。

 悲鳴を上げてカイルの姿が遠くへ消える。

 ただ一人、カイルだけがその瞬間に挙げた声を聞いた。

 諦めない、と。



 目を開けると、心配そうなヤトといつもの飄々とした表情の紫月がカイルの顔を覗き込んでいた。


「……し、しょう……?」

「よかった。間に合ったみたいだね」


 寿命が縮んだよ、とヤトはカイルに呟く。


「本当に厄介な相手だね」


 紫月は、手のひらに黒い蝶を載せて言った。

 あれは一体何だったのか。


「紫月さんは、分かっていたのかい?」

「そりゃあ“鬼”……キミ達でいう所のゴーストの一つならボク達もよく知っているからね。西も東も関係ないさ。薄々気付いてはいたけれど……やれやれ、一体どこからどうやって入り込んだのやら」


 さて、と紫月は立ち上がる。


「義理姉さまに報告しておかないとね」


 持ってきた酒瓶を掴み、盃に入っていた分を一気に飲み干すと袖の中に盃を片付けて紫月は出ていく。

 そして、一度だけ振り返る。


「気を付けたまえ。きっとまたさっきの“鬼”はキミを狙ってどこかから手を出してくるだろうから」


 後に残されたヤトとカイルは、大きく息を吐く。


「なぁ、師匠」

「とりあえず無事でよかったよ」

「オレ、自分がすげー嫌いだ」


 静かに、カイルは言葉を紡いだ。

 弟を守ることができなかった自分。

 弟が眠ったことで育ててくれた義理の両親を傷付けた自分。

 杖が封印されただけで何もできない自分。


「それでもよ、杖がなくてもオレ、魔術使えんのか?」

「使えるさ。キミの努力次第でね。さ、とりあえず……」

「とりあえず?」

「お着替えしましょうね~」


 自分でそれくらいできる! と言いたかったが、カイルは自分の体がうまく動かないことに気付いた。

 まるで金縛りにあった後のような、とてつもない疲労感と筋肉痛。


「ちょ! 本当、しばらく休んだら自分でできるから!」

「汗びっしょりで風邪でも引いたら困るだろ? あ、バカだから引かないか」


 笑いながらヤトはカイルの服を脱がす。


「パンツまで!」

「いいからいいから。私も汚いものは見たくないけれど、師匠として仕方がないから介護をしてあげようという老婆心だよ」


 と、その時だった。

 失礼します、と一言かけて障子が開くと、大河だった。

 大河は一瞬、目を疑った。

 ほぼ全裸のカイル。

 弟子のパンツを脱がそうとしているヤト。


「……。失礼しました。夕食はいらないんですね。パパ上に言って祭と二人で食べてもらうよう言っておきます。何も見てないんで。思う存分、プロレスを楽しんでください」

「待て! 大河! これは誤解だ! 師匠とあんなことやこんなことをしてたわけでも、これからする予定もねェから! お前の母親が好みそうなネタなことじゃないから!」

「じゃあ私は先にご飯をいただこうかな。カイル、自分でできると豪語したんだから、頑張って着替えてね」


 ひらひらと手を振って、ヤトはそそくさとカイルの部屋から出て行った。

 残された大河と目が合うが、すぐに大河の方がカイルから目を逸らした。


「本当誤解だって! オレもすぐ飯食べに行くから!」


 痛む全身を必死に動かし、もたもたとしながら何とか服を着るカイル。

 大河の後を追いながらカイルは息を吐く。

 先程の夢のようなものには、どういう意味があるのだろう。

 カイルはただ悩む。

 結局、食後もヤトに杖なしでも魔術が出来るようにとカイルはひたすら練習させられたのであった。

 全身が痛いのに。

 精神的にも揺らいでいるというのに。


「本当に、出来んのかよ……。ていうか何でシエルが? それにあいつは一体何なんだよ」


 分からないことだらけだ。

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