第30話

 辺り一面、漆黒の闇だった。

 暗く、重く……息がつまる。

 これは夢だ。

 とにかく、いつまでも膝を抱え込んでいても仕方がない。

 歩き出さないと。

 一歩、踏み出した瞬間に世界の景色が一気に変わった。


「ここは……」


 カイルは呟く。

 孤児院だ。

 昔、義理の両親に引き取られるまで弟と暮らしていた。

 いつからこの孤児院の世話になっていたかは覚えていないが、弟が生まれてしばらくしてからだったと思う。


「お兄ちゃん!」


 背中が、強張った。

 振り返った先に弟がいる。

 まだ今よりも幼い、弟。

 怖がりで、泣き虫で、いつでも自分の背中に隠れて出てこないけれど、勉強は自分よりも出来た。

 自分の目の前で立ち止まるかと思いきや、彼はカイルの横を通り抜けていった。

 つられてカイルが目で追いかけるとその視線の先にいたのはまだ幼い自分の姿だった。


「どういう、ことだよ……ここは……」


 師匠は、紫月は一体、自分をどうしようと思って、過去を見せるのか。


「あのね、僕たちを連れて行ってくれるって人が来てくれたんだよっ」


 あの日、弟は嬉しそうに話した。

 子供がいないから自分たちを育ててくれる、父親と母親が出来ると、それはもう嬉しそうだった。

 もちろん、自分だって嬉しかったことをよく覚えている。

 義理の両親は、本当にとても優しかったことも。

 出来たら褒めてくれるし、悪いことをすればちゃんと叱ってくれる、良い人達だった。

 彼らの間に子供が出来ても変わらずに愛情を注いでくれていたはずなのに、変わったのは義理の両親ではなく自分だった。

 あの時、近所で原因がよく分からない事件が頻発していたことを思い出す。

 弟がある日突然、眠ったまま起きなくなってしまった。

 カイルは視たのだ。

 彼に纏わりつく、黒い何かを。

 必死に弟を助けようとしていたのに、自分では何も出来なくて。

 悔しくて。

 結局、弟を保護してくれたのは魔術師―――師匠で。


「あぁ、そうだった……」


 魔術師になりたいと言い出したのは自分だった。

 義理の両親が止めるのも聞かずに。

 眠ったままの弟を一人、魔術協会なんかに預けてたまるかと。

 このままでは自分も、両親も、その子供も、自分では守れない。

 悔しい思いはもうしたくない。

 弟を自分の手で目覚めさせてやりたい。

 だからもっと、もっと強くなりたい。

 力が欲しい。

 そのためには、義理の両親の手を突っぱねることしかできなかった。


「無理だろ」


 笑いあっていたあの日の記憶が霧散し、一気にカイルは闇の中へと引きずり込まれた。

 ぞっと、背中に冷水を浴びせられたような感覚が走る。

 振り返った先にいたのは―――自分。


「無理だろ。テメーじゃ」


 もう一度、言い聞かせるように、しかし見下すような表情で自分が自分を見下ろしていた。


「杖も封印されて、何も出来ねェ。テメーに出来ることは、何もねェよ」


 そんなことはないはずだ。

 師匠が来たのだって、自分が杖なしでも魔術を使うことが出来るように修行―――という名前の拷問―――をするためだ。


「アイツは自分の手柄が欲しいだけだろ? 修行させておいて、大物を引きずり出させて自分で仕留めるつもりなんだよ」


 言い返す言葉もなくて、カイルは膝をついたまま黙り込む。


「自分以外信じられねェんだろ? 弟が眠った時だって、せっかく家族になって育ててくれた義理の両親を拒絶したもんな。オレは」


 その通りだ。

 どうにもできなかった怒りを、彼らにぶつけることしか出来なかった。

 結局、魔術協会に入った後に義理の両親とは縁を切ることにした。

 時折手紙が届いたけれども、中身を見ることなくただ引き出しに仕舞い込んだまま。


「何も出来ないテメーなんか、死んだ方がマシだろ?」


 そうすれば楽になると自分は言う。

 煩わしい日ノ国からも、魔術協会からも、眠ったままの弟からも解放される。


「天国でも、地獄でも、好きな扉を開けよ」


 目の前に突如現れた扉。

 一方は純白で、天使達の彫刻が施された扉。

 一方は漆黒で、悪魔達の彫刻が施された扉。

 ひらり、と黒い蝶が二匹踊り、それぞれの扉に触れた途端、パチンッと音を立てて弾けて消えた。


「一つだけ言っとくけどよ、テメーが選ぶのは白の扉だ。何で分かるかって? オレはお前だからな」


 さぁ、選べと自分が言う。

 カイルは扉を前に、ただ仰ぎ見た。



 酒を飲んでいた紫月が、突然、その盃を置いた。


「どうしたんだい?」

「……。やれやれ。ヤト、少し面倒なことになったみたいだよ。思ったよりも大きい魚が、引っかかったようだね」


 先程までのご機嫌な様子はなく、真面目で、真剣な表情。

 面倒事、ということだがどうやらカイルの身に何か起きたようだ。

 うっすらとカイルの周囲に、黒い煙のようなものが纏わりつき始める。

 これは―――とヤトは思い返す。

 カイルの弟、シエルと同じだと。


「っ、じゃあカイルは……」

「大丈夫。カレは戻ってくるさ」


 何故、それがわかるのだろうか。

 彼女はいつの間にか指先に黒い蝶を止まらせて弄んでいた。


「カレが自分の力で退けるのが早いか、ボクの手助けで退けるのが早いか」


 さて、どちらだろうね、と紫月は一転して面白いと言わんばかりの表情でカイルに向けてまた三匹、黒い蝶を放った。

 黒い蝶はカイルの中に吸い込まれて消える。


「ヤト。キミの力も借りよう。退魔は、キミ達魔術師の十八番だろう?」


 言われて、ヤトは頷く。

 カイルまでもシエルと同じことになっては困る。

 頼まれたのだ。

 彼らの義理の両親から、よろしくお願いします、と。

 ヤトはカイルの周囲にバリアを張ると、詠唱を始めた。

 無事に戻ってきますようにと願いを込めて。

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