2023年4月13日

 

 る日の教室で、わたしはぼんやりとしている。さっきまで聞いていたはずの数学の授業の内容はすでに頭外へ出払っており、いま、わたしの脳内では、昨日観た映画のワンシーンだとか前の休み時間に目撃したネットニュースの文言だとかいうさほど大事でもない事柄がひたすらにぐるぐるしていた。本日受けるべき授業はすべて終了の状態にあり、現在、わたしが取るべき行動は、教壇きょうだんに立っている担任のヘミング老人(かの小説家ヘミングウェイ氏みたいな顔立ちのおじさま。わたしが勝手にそう認知にんちをしている。小説は書かない)が、生徒へくばるプリントどもを抜け目なく確実に手に入れて、帰りの挨拶あいさつ無難ぶなんにし、虚無きょむとなり帰路きろにつくことである。

「はい。えーではみなさんね。いまからプリントをくばりますからね。なのでね。みなさんはプリントをね。きちんとぜんぶ家の中へね。持って帰ってくださいね。忘れたらいけませんからね。気をつけてくださいね。ええ」

 ヘミング老人がその、特徴的とくちょうてきな、間延まのびした低い声音こわねで、わたしたちに喧伝けんでんをする。これによりプリント配りは開始され、われわれはプリント受け取り人となる。受け取るプリントは本日五枚。これらは絶対に抜かりなく、すべてを受け取らねばならない。でなければ待つのは死、である。わからぬがかならず死が訪れる。―――そんな気がする。

 わたしはプリントを受け取る。一枚目のプリントは藁半紙わらばんし製の給食お知らせ。カレーが五週連続続く。二枚目のプリントは保護者ほごしゃだより。PTA会長逮捕。三枚目のプリントはやたら大きい、駅ナカやコンビニの壁にでもってあるだろう非常に紙質のよいポスター。書かれている内容は、子供には理解不能のなにか。大人だけが読めるなにか。文字。絵。性。哀愁。四枚目は校長の自慢だより。校長として自慢話じまんばなしを一万字書かねばならないのに自慢することがもうなくなり苦悩する校長の夢久文体的語り(書簡形態)。五枚目は、ただの紙。以上でも以下でもなくただの紙。どこからどうみても紙なるもの、とされるであろう紙でないもの。―――これで五枚。無事にプリントを受け取ったわたしは、それらをかばんへと仕舞い込む。「ありがとうございました。さようなら」―――諸々の所作を済ませる。

 わたしと、わたし他多数の生徒たちは、ヘミング老人が教室を去るまで深々ふかぶかと頭を下げ続けた。これでようやく自由がくる。教室は自由の魔境と化し若人わこうどは自由を強姦ごうかんしだす。それらはいわゆる狂乱きょうらんだとか、破壊だとか、性的暴挙にでるとかいう、動作性のものではなく、ただひたすらにぐでぐでと、怠惰たいだあがめるものだった。

 怠惰たいだけい悪魔あくまのサバトが意味もなく蔓延はびこる教室の中、自由の身となった無垢むくなるわたしは、二つ後ろの席に座る女子のことが何故か異様に気になりはじめる。なぜだろう、なぜだろうと、帰路きろにつこうとするわたしが意味もなく「なぜだろう」ばかり思っていると、その女の子はすっくと立って、わたしの前へとやってくる。長髪の、色白の根暗ねくらそうな女子は、その手になにか重そうな、鉄の器を抱えていた。鉄器はうつわというより三角さんかくすいめいた形をしており、それを水でもすくうみたいに、丁寧に両手でかかえていた。

「これ、ていこつ」―――からん、と。女子の声とともに、器の中でなにかが震えた。ほねだった。血の付いた尾てい骨だった。だったというか、尾てい骨らしい。らしい―――としかえないのは、わたしが人間の尾てい骨を目撃したことがないからだ。だからいま、恐らくわたしは、尾てい骨観賞の処女性しょじょせいを、目の前に立つ色白の女子にささげたことになるのだろう。などとことを思うわたしは、そのあとすぐに、「ああそうかいま、このわたしの、尾てい骨をとる刑が確定したのか」という、謎の確信へといたった。

 ていこつをとるけいは、取ることが決定をしたその瞬間、尾てい骨取り場へ連れてゆかれ、麻酔もなしに切開をして、糸鋸いとのこで丁寧に尾てい骨を切断することになる刑である。これは誰にでもありうるもので、この世には、尾てい骨をとられた人間とそうでない人間が、常時、混在しているのだ。これらは人間が猿だったころの記憶を切除する所作である。尾てい骨を切除しないと善性を証明することができない人間がいる。とるべきときにおこつをとらねば、対象は人間を許されない。善になれない。そう、解釈されている。何千年も変わらずに。

 人間にんげん盲腸もうちょうみたいなものをとるかとらないかの二択で以降の性質が決まるなんてどういうことなのだよ人間。どうなっているのよ人間などと、変に冷静だったわたしは状況に対しうだうだ思う。が、うだうだしても、そうなのだから仕方がない。わたしは尾てい骨切除が必要な人間。取らなければならない人間。そういう存在だったのだと、ただ、判明しただけだ。とはいえものすごく狼狽うろたえた。「そんな恐ろしい刑が自分に確定するなんて」と、どうにか刑を逃れたいと思った。以降の人生に確証と保証が付与されるのが、嫌だと思った。しゃべりかけられたことを無視して逃げ出そう、と思ったが、目の前の女子の、伸びすぎた前髪の隙間からわたしをのぞきみる表情が、それはもう覚悟の決まった三白眼さんぱくがんをしていたため、「これはどうしたって逃れられない」と、わたしはさとるしかなかった。

もうわけない。野暮用やぼようが」―――けれどわたしは逃げ出した。その場からの脱出を試みた。試み、身体をくるりとそむけ、教室の出口へと駆け出したが、うまくはゆかない。「どこへゆこうというのかね」―――ムスカ大佐じみた台詞せりふを発声する、ヘミング老人。教室から出て行ったはずなのに、気付けばわたしの目の前にいる。脱しようとする扉の前で「ええ。ええ」とれている。

「彼女はね。覚悟をもって尾てい骨の切除にいどまれたのですよ。彼女のお父様は、尾てい骨をとる刑をつくった最初の人間の末裔まつえいなのです。そのお血筋ちすじにありながら、彼女は尾てい骨をとられたのです。———さあ、あなたもしめしなさい。尾てい骨をとりなさい。善人ぜんにんになるのです。善性ぜんせい確定かくていさせるのです。尾てい骨を取りなさい。尾てい骨を取られなさい」―――ニタニタふるえ、わたしにった。

 わたしはなぞ焦燥しょうそうのなか、ああやられる、とだけ思った。思って助けを求めたくなった。が、味方はいない。わたしの周囲に存在するのはわたしと同じ目にうか、わずにすむであろう若人わこうどどもだ。彼らは云わば、いつかそうなるわたしであり、そうはならないわたしだった。いまは不定の状態なのに、どうして確定したわたし一人の逃亡を助けねばならないのか。そんなことをしでかして、尾てい骨をとるハメになったらどうしてくれようというのか。———きっとそのような心理が、クラスの面々の海馬かいばの中をめぐったに違いない。いや。しかし。———そもそも。尾てい骨を取るか取らないかは、産まれた時点で決まっている。判っている。だのにどうしてそうした罪、物理的原罪を、誕生の時点で取らないのか。受肉じゅにく間もない赤ちゃんの身体が原罪除去に耐えられない、からだろうか。それとも。原罪とともに育ったから、耐えられる身体になったのだろうか。わからない。わからない。―――わたしはふける。

 しかし、なんにせ運はきた。いま、わたしにできることは、わたしが善人になるまでの終わりをぼんやり観測することだ。ヘミング老人の統率とうそつと、わたしを拘束こうそくする生徒どもと、三角さんかくすいの、鉄の器を抱えた黒髪の女子のみちびきにより、わたしの身体は、屋上の尾てい骨取り場へと、ゆっくり運ばれていった。そうして臀部でんぶ切開せっかいいたみ、糸鋸いとのこによる尾てい骨への激痛をいよいよ感じはじめたところで、わたしの意識は、静かに暗闇へと落ちてゆく。

 

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