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 フラフラだったのに、よく全部食べた。あの冷蔵庫だもん、おなかすいてたんだろう。食欲あるなら大丈夫かな。

 エリは無事に任務を終え、そんなことをつらつら考えながら再びキッチンに立っていた。

 任務というのは、食べ物と薬をソンジェの家に届け、様子を見て適時処置することである。

 エリは熱のあるソンジェにきちんと解熱剤を届け与えただけでなく食べ物を準備し、食事介助もした。なんといっても床に転がっていたソンジェを拾って布団の上に届けたのは功績がでかい。明日カツカレーにありつくには十分すぎる働きだ。いいや、交渉次第でパピコもつけてもらえるかもしれない。



 おかゆを食べ終えて薬を飲むと、少し落ち着いたようだった。

 もう一度横になる前に、汗をかいたパジャマを新しいものに変えたほうがいいとソンジェに提案し、流れでうっかり着替えを手伝おうとしたところ、寝室から放り出された。

 さっきまであんなにヘロヘロだったのに、おかゆを食べた途端元気になったらしい。割と単純なアジョッシである。



 そんなわけで、ソンジェがお着替え中の間、台所を片付けていたのである。

 片付けると言っても、インスタントのおかゆのカップと小さなスプーンと薬の包みを捨てて、ネギを切ったハサミを洗うくらいのものなのだけど。

 じゃーっと水でハサミの刃を洗いながら、エリは周りを見渡す。おしゃれなカウンターキッチンだ。カウンターの向こうは電気がついてないからよく見えないけれど、すっきりした広いリビングがバルコニーへと一続きになっているようだ。

 ふむ。エリは一考する。

 無駄なものが無いのは機能的でいいかもしれないけど、殺風景すぎない?

 きょろきょろ見回して、ガラス戸棚に収まっているグラスを見つける。

「この細いのがいいかな〜、試験管ぽくて」

 エリはひとつ選び出すと水を少し注ぎ、ネギの残りを挿してスタイリッシュなカウンターの上に置いた。注がれたばかりの水の小さな気泡がネキの根っこに張り付いてキラっと光る。

「ここなら昼間の光も入るかな・・・。こうしておけば次食べるときに少し伸びててお得だもんね。」

 冷蔵庫にワインとチーズと空気しか入っていない人間が、はたしてネギを大切に使うかどうかは甚だ疑問だが。

 



「アジョッシー、お着替え終わった?」

 エリはドアの前に立って声を掛けた。

「私そろそろお腹空いたんで帰りますよ〜。」

 ウンとかスンとか言うかな?と少し待ってみるが、部屋の中で何かが動く音は聞こえない。

 お着替え終わって寝たかな。もう限界だったもんね、とエリはカバンを肩に掛けなおした。帰る前にもう一度顔色を見ておきたかったなと思う。でも薬は飲んだし、寝ているならそれはそれでいい。

「冷蔵庫の中見てね。果物は悪くなる前にたべて。おだいじに」

 ドアはしっかり閉まっているから聞こえているかは分からないけれど。 

 物言わぬドアに向かって一言告げて、エリはヒョコヒョコと玄関に向かった。




 エリは心底ほっとしていた。一時は救急車かと思った。

 反動で今こんなにほっとするということは、相当張り詰めていたということだ。倒れているソンジェを見た時の、体の芯が震えるほどの緊張は、できることならばもう2度と味わいたくない。

 そうして張っていた気が緩むと、今さら思い出したかのように足の痛みが舞い戻ってくる。ズキン、ズキンと、エリの心臓が拍を打つのに合わせて正確に痛みを訴えてくる。生きている、幸せの痛覚だ。

「いつっっ・・・。」

 玄関の壁に手をついて寄り掛かりながら、靴を片方突っかけた。もう片方は、と視線を巡らせると、広い玄関の端っこにまでふっとんで、寂しげにすり減った靴底を見せて転がっている。さっき乱暴に脱ぎ捨てたせいだ。ひんやり冷たい土間に降りて、つま先でちょいちょいとつついて靴をひっくり返す。

 もう片方の靴を突っかけながら、エリはまた、ソンジェのことを思った。今夜しっかり寝て明日また大学に行けるくらい回復したらいいな、と。

 大学ではあんなに気取ってるくせに、家には食べ物もスプーンも無いし、床で寝てるし、変だけど。でもアジョッシおじさんは、いや、ソンジェッシソンジェさんは、一生懸命な人だ。




 エリがドアノブに手を掛けた時だった。

 肩に熱っぽいものが触れ、それはエリを掴んで力強く引き戻した。

 エリは振り返る。

 そこには荒い息でエリの肩を掴むソンジェが立っていた。

「ちょ、どこにいたのよ・・・声かけたけど」

「着替えてたんだ、クローゼットで」

「クローゼット?収納の中で着替えるって・・・」

 エリは押し入れの中で寝起きするドラえもんを瞬時に連想した。押し入れの中で着替える・・やはりソンジェは変なアジョッシか。

「どこででもいいから、こまめに着替えてね。あと、ちゃんと食べて。」

「わかった」

「ネギ、お水に挿してあるから、細かく切ってインスタントと合わせて使うように。あとは・・・」

 ふと足元に目をやると、ソンジェが裸足で冷たい大理石の土間に下り立っているではないか。

 エリの眉間はまたもや般若の渓谷を刻み、反射的に口が開いてしまう。

 反射的なのだ。この口は。

「ねえ、学習能力無いの?熱出してるのに、裸足でこんな寒いところうろうろしてていいと思ってるの!?こんどは救急車呼ばなきゃならなくなるでしょ、はやく!はやく布団に入って!ほんと馬鹿じゃないの!?

 

 ・・・・あ。」



 口から飛び出てしまった言葉がもう戻らないのを悟った後で、エリは、しまった、またやってしまった、と思った。

 言葉を失い後ずさったエリの背中に、冷たいドアが当たる。

 せっかく今日は噛みつかない、いい大人でいようと思ってたのに。それに、こんな事態だったけど、何だか楽しかったのに。

 いつも、一度言葉が走り出すと止まらなくなり、エリはエスカレートしてしまう。

 ああ、これではいつもと一緒ではないか。

 エリはソンジェからの罵声を覚悟し、鞄のベルトを握りしめた。




 それなのに、ソンジェは柔らかく微笑んだ。


「うん。チョンエリッシもひねった足おだいじに、ってだけ言おうと思って」

 

 低い、かすれた声がエリの鼓膜を震わす。

 ソンジェは片手をエリの背後のドアに突いて、高熱にふらつく体を支えていた。その体勢のまま首を傾げ、半ばエリに覆いかぶさるような形でエリの顔を覗き込む。

 この子はさっきまで笑っていたのに、今度は泣きそうな顔で怒鳴っている。なんでだ、ああ、裸足が体に悪いと言って怒っているのか、俺のために。



コマヲ。ありがとう



 それは何の飾りもない、ソンジェの心からの感謝だった。

 来てくれたことと、痛いほど伝わってくるエリの心配する心に、感謝を伝えたかった。

 優しくも真剣なソンジェの、熱に潤んだまなざしにエリはたじろぎ、まるで助けでも求めるかのように後ろ手にドアノブを掴んだ。




 その時だった。

 エリの背後で、ガチャ、と音がし、まだノブを回していないはずのドアが、外に向かって開いた。

 エリとソンジェが体重を預けているドアが。


 エリは行き場を失った自分の荷重が後ろに倒れ行くのを感じながら、吐息の近さにデジャヴを覚えた。エリッシ、と短く叫んだソンジェの声が耳を掠める。

 








 ****************************







 エレベーターが静かに開く。そこに乗り込みながら、最後に来たのはいつだったかと考える。

 そう、あれはクリスマスの時だったから、もう何ヶ月も前だ。

 それ以降は私もソンジェもなんだかんだ忙しくて、会っても外で食事をするとかで。こんなに来ていなかったのだもの。びっくりさせても怒られないでしょと、スジンは手にした紙袋の中のワインを確かめる。きっと喜ぶはず。ソンジェがいつも好きで飲む、なかなか手に入らないシャトーほにゃほにゃのうんたらかんたらだ。

 

 手の中の鍵がチャリ、と音を立てる。これは、スジンがいつでもソンジェの家に入ってもいいという、確約だ。

 8階で降り、ソンジェの家の鍵穴に鍵を差し込むと戸がカチャリと開く。普段なら。


 今日は違った。

「きゃ・・・!」

 スジンは飛び退いた。

 鍵を開けノブを倒した途端、内側からドアが勢いよく開き、人が、スジンの足元に雪崩出てきたのだった。


 いったいどういうことだろう、とスジンは我が目を疑いながら、倒れている2人を見下ろす。

 なぜかパジャマ姿のソンジェが、見知らぬ女性を抱きしめて転がっているのだ。



「いつっっっ・・・」

 エリがお尻を押さえながら目を開ける。するとそこには太い首と襟元が見えた。

ケンチャナだいじょうぶか?」

 エリを腕の中に抱えたままソンジェは声を掛ける。

 エリは自分の耳が一瞬で熱くなったのに気づいた。

 こんなに密着していると、低い声は体を通して響いてきて困る。昨日は突き飛ばしてしまったけど、今日はなぜか体が強張ってしまって動かない。ソンジェの体に収まってしまう自分の体は、こんなにも小さかったのかと思い知らされる。

「わ、私は大丈夫だけど、ソンジェッシは、肩とか、」

 エリはいいながらソンジェの顔を見返す。どこか痛めていないか、顔色から読み取ろうとするかのように。倒れ込んだ時、とっさに自分の体が先に硬い床に当たるように庇ってくれたようだった。

「ああ、大丈夫だ。エリッシはど・・・」



「ねえ、これ、どういうこと?」



 ソンジェの言葉を遮って降ってきた声の方をソンジェとエリは同時に見遣る。

 ソンジェの婚約者のスジンが、ソンジェと、ソンジェの腕の中のエリとを、睥睨へいげいしていた。



「スジン・・・」




 魂でも抜けたか、ソンジェは小さく呟いただけで動く気配がない。その呆然とした顔を、エリはチラリと見て何かを察する。ソンジェの腕を勢いよく押し除け、エリは元気良く立ち上がった。

「ソンジェッシの知り合いですか?私、テヒョンさんに頼まれた荷物を届けに来ました。」

「・・・ああ、テヒョンッシの」

 スジンは解けた髪を耳に掛けながら幾度か瞬きし、エリを見る。絵具がついた、ガソリンスタンドの人がよく着てる作業着に、素材が何なのかも分からない使い古した鞄。化粧もろくにしていない、大芸によくいる感じの学生だ。

 テヒョンは美術の副手だし、彼女がなにか頼まれて来ていても不思議ではない。


 エリはスジンの検分するような視線を居心地悪く感じながらも、ぱたぱたと軽く膝の辺りをはたき、平静を装って言う。

「いやー、帰ろうとしたところでわたし玄関でつまづいちゃって!ソンジェさんにぶつかったところドアが開いて!まあーなんという酷い偶然というか!」

 な、なんという酷い棒読みだ。ソンジェは頭痛が悪化した気がした。

「ごめんなさいね、私がいきなり開けたものだから。」

スジンは手の中の鍵をカチャカチャと鳴らしてみせ、言葉を続ける。

「じゃ、用は済んだのね?」

 スジンはにっこり微笑んでエリに言う。

 エリもニコニコと満面の笑みを顔に貼り付けている。

「はーい用は済んだんでー。では、ソンジェさんお大事にー」

 エリは早口で捲し立てると、誰かのおへんじ等が飛んで来る前にエレベーターに向かった。

 これはまずい。エリでもわかる。弱っているソンジェアジョッシソンジェおじさんを残していくのは気が引けるが、自分は1秒でも早く去るべきだし、何より命が惜しい。


「ソンジェッシ、久しぶりね。」

 先ほどエリを庇った時の機敏な動きとは打って変わって、のろのろと起き上がるソンジェに、スジンの声が降ってくる。

ソンジェはエレベーターに飛び乗ったエリをまさしく『脱兎』だ、と思った。









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