10
21号館の戸締りと消灯を確認し終えて、テヒョンは研究室を出た。
今日も疲れた。まあまあがんばった日だった。友達の役にも立った。
夜の校舎の落とす影は夜そのものよりも、いっそう暗い。敷地内に所々点いている非常灯が階段や出入り口を薄暗く照らす。
向かいの建物の暗い階段から、人影が降り出て来た。
遠くからでも分かる、見知ったその姿に、テヒョンは思わず声をかける。
「パク・スジンッシ!」
人影は、テヒョンの声に一瞬立ち止まった。
「あら、ハン・テヒョンッシ。今終わったの?」
高い、柔らかな声が、静かな校舎の壁に反響する。声の主はゆっくりとテヒョンの立つ外灯の下にやって来て姿を現す。
トレンチコートを羽織った肩にバイオリンのケースを掛け、長い髪をストールの下に仕舞い納めている。白い肌が、宵闇の空気に冴々と月のような輝きを放つ。
「おつかれさま。副手は大変ね。」
テヒョンはついいつもの癖でタバコを出そうとした手を、あわててポケットに突っ込み戻す。
「んん、まあ・・・。いつもこのくらいの時間だけど」
テヒョンは言葉少なに応え、スジンの歩幅に合わせてペースを落とし歩き出した。
「今日はまだ寒いわねー。私コート着て来たのに、風が冷たいわ。」
と、スジンはトレンチコートの襟をかき集めた。アーモンド型の大きな目を縁取るまつ毛が悲しげに瞬き、瞳が潤んで艶めく。いや、実際には潤んでなどいないのかもしれないが、スジンの指先の動き一つさえもテヒョンをどきまぎさせ、これ以上見ていたら心臓がどうにかなってしまいそうで、パッと視線を足元に落とす。
「そうだね、あったかくなるのはこれからかな・・・。」
交互に前に出る爪先をみつめながら、テヒョンはなんともぼやけた返事をした。返事をしてすぐ後悔する。何かもっと面白いことは言えなかったのかと。
「遅くなるから冷えるのね。」
テヒョンは、
「私、今日室内楽の合わせがあったから。普段はもう家にいる時間なのにね。あーあ、急いで帰らなきゃ」
スジンはテヒョンに向かって、肩をすくめて見せた。
「スジンッシ、駐車場まで送ろうか?う、裏道がもう暗いだろ?」
テヒョンがかすれる声で聞くと、スジンはやさしく微笑んで首を振る。
「ううん。だいじょうぶ。守衛さん立っててくれてるし。テヒョンこそはやく鍵を返しに行かなきゃ怒られちゃうよ。」
「そうだね、勤怠管理の
テヒョンはつま先を見つめたまま笑った。スジンの目を見て話したいのに、どうしてもテヒョンは自分の履き古したスニーカーの先に逃げてしまう。
「ソンジェにもしばらく会ってないから、そろそろ連絡しなきゃ。」
ソンジェ、という単語に、テヒョンはわずかにピクリと肩を揺らす。それにスジンは気づかない。
「あの人、あなたとばかり一緒に居るじゃない。あなたが良い人だから、ソンジェを取られちゃうのよね。妬けるわ。」
スジンは可愛らしく、くすくすと笑った。
日頃あんなにも饒舌なテヒョンなのに、相槌すらもままならない。何か気の利いたことを、何か、楽しませる話を、と必死で考えるテヒョンの横で、チャリ・・・とスジンは鞄から車の鍵を出して手に取る。ソンジェのと同じ、BMWほにゃほにゃ。鍵に外灯の光が反射してきらきらと揺れた。
「じゃあ、私あっちだから。またね!」
スジンは裏道へと下る通路を指差し、暗い校舎群の間に消えていった。
「じゃ、また。」
スジンの姿が見えなくなるまで見送ってやっと、テヒョンはちいさく呟いた。
軽やかに翻ったトレンチコートの白さが、夜に滲んだ。
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