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オレンジ色の門灯の照らす小綺麗なドアの前に、エリは立っていた。
嬉志駅に程近いマンションの8階。副手のテヒョンに言われた住所は確かにここだ。
無駄な面倒を頼まれたものだとため息が出る。
キリよく描けたところでエリは、急いで行ってくれとの仰せに従った。作業着のまま着替えもせず大学を出て、芸バスに乗って駅前の薬局へ向かったのだった。
1日も終わりに近づくと痛み止めが切れ、湿布もすっかりぬるくなっていて、昨日捻った足首に鈍痛が戻って来ている。足取りがぎこちなくなっていることにエリは自分でも気がついていた。
私も早く帰って、湿布し直さなきゃと薬局の自動ドアの前に立つ。
そこでふと目に入った
『営業時間のご案内10時〜24時まで』
「 ・・・っ はぁぁぁぁぁぁぁ!?」
うっかり怒声が出た。
あの副手め、薬局の閉店に間に合わないだなんて嘘じゃないか!24時まで営業なら、実習室を閉めてからスキップで薬局に向かっても余裕で間に合うわ!なんで私がこの痛い足を引きずって、お使いをしないといけないの!!!とエリは眦を釣り上げた。
でも、一呼吸置く。
一呼吸して、短い前髪を撫で付け目を閉じる。
私は噛みつかない。
明日はカツカレー。
薬局に寄るだけでカツカレー。
僅かな親切でカツカレー。
そう、言い聞かせていると、不思議と陽気な気分になってくる。大丈夫。わたしは噛みつかない。良い大人。風邪で困ってる人を助けるなら良いことではないか。
そんな具合に自己暗示を掛けつつ、ひょこひょこと足を引きずってスーパーと薬局を梯子し、適当な食材と風邪でも食べられそうなものも見繕って来たのだった。
ピーンポーン・・・・
エリは呼び鈴を鳴らす。なんとなく居心地が悪い気がして、袋を下げた手の後ろに隠れるような気持ちでドアの前で姿勢を正した。
が、10秒経ち20秒経っても、ドアが開く気配がない。
「ドアの向こうで鳴ってるし、呼び鈴は壊れてないよね」
もう一度呼び鈴を押す。
ピーンポーン・・・
「トイレかなぁ」
ピーンポーン。
「まさか風呂?」
ピーンポーン。
「寝てんのかな」
ピーンポーン。
「出かけてたらちょっとムカついちゃうわ」
ピーンポーン・・・ぴぽぴぽぴぽぴぽぴぽぴーんぽーん
ちょっと面白くなって来たエリが、とうとう連打し始めた時だった。
ガチャリ
ドアがゆっくりと、薄く開く。
「テヒョン・・・連打はやめろとあれほど・・・」
顔を覗かせたソンジェの目が、ドアの外に立つエリを映し、湿り気を帯びた睫毛が驚きに瞬いた。日頃整えてある髪が乱れ、前髪が目の前に散っている。
「君は・・・あれ、テヒョンは、ごほっごほっ」
咳き込むソンジェの顔は赤く上気し、目が潤んでいる。これはどっからどう見ても熱がある。息も荒い。
さっきまで、なんで自分が来なければならないのかと憤慨していたエリだったが、こんなに酷いのなら一刻でも早く来れる自分が頼まれて良かったなと瞬時に考えを改めた。
「テヒョンさんから頼まれました。急ぎで薬が必要だって。」
「そうか・・・」
「とりあえずドアを閉めて入りましょう。ここは寒いですから」
エリはするりとドアの内側に入りソンジェを奥に押しやった。
「え。廊下がある。」
まあ広いアパートだ。どう見ても学生用ではない。きれいに磨かれた無垢材のフローリング。柔らかなフロアランプの光がふんわり広がる廊下に面して幾つかドアがある。
エリは踵を踏んで突っかけていた絵具付きの靴を乱暴に脱ぎ捨て、ヒョコヒョコと入った。
「ゼリーとかフルーツ、冷蔵庫入れます。キッチンは・・・ここですね。あ、横になってて下さい。水と薬と軽くお腹に入れる物持って行きます。長居はしませんからご心配無く」
頭がぐわんぐわんしているソンジェにはエリの動きは最早つむじ風。あ、レディの荷物を持たなきゃ?と日頃の習慣が頭を掠めるが、口を挟む余地もない。風はあっという間に目の前を通り過ぎてしまった。
これはダメだ、とにかく横にならねば、という一念でソンジェは壁にもたれ掛かって、ふうふうと荒く肩を上下させながら寝室へと向かった。
エリは台所に立ってひとりごちる。
「こりゃ嘘つき副手が急がせるわけだわ。」
冷蔵庫を開けるも、中にはペットボトルの水とワインとチーズしか入っていない。
あんな立派な体格なのに、日頃何を食べているんだろう。
エリは湯沸かし器に水を入れてスイッチを押し、沸くまでの間に手早くドアポケットにスポーツ飲料を差し込み、冷気しか入っていない野菜室に果物を納めた。
さて、次は食べる物だ。インスタントのお粥の封をビリっと破き、トポトポと沸いたお湯を注ぐ。
「えっと・・・1分かきまぜる、か。スプーンどこだ」
手近な引き出しを2つ3つ開けてみるがハサミ一本しか見つからない。白で統一されたインテリアのアクセントカラーになっているウォールナットの取手だが、一体幾つこの取手を引いたらスプーンに会えるのか。このキッチンは収納多すぎだ。
この収納を全て探せるほど、エリは辛抱強くなかった。
「スプーン無いじゃん!!」
仕方がない。
エリはゼリー用についていたプラスチックの小さなデザートスプーンを開けてちまちまとお粥を混ぜる。
「こんな広い家に住んでるのにスプーンすら無いなんて」
目の前のシンクといい蛇口といい、きれいに磨き上げられていて水垢ひとつ見当たらない。さっき湯沸かし器に水を入れた時にこぼれ落ちた数滴がエリを見上げていた。
「よし、いいかな。」
薬の箱をポケットに突っ込み片手に水のペットボトルを、もう片方の手にはインスタント粥のカップを持つ。買ってきてあったネギも、さっき見つけたハサミでちゃちゃっと小口に切って散らしたから彩もいい。ふっふっふ、まったく、私は気が利いているな。真ん中にはゼリー用のミニスプーンが突き刺さっているがそれは仕方がない。デカすぎるこの家のキッチンが悪いのだ。
「おーい、
キッチンから廊下に出た時だった。エリの顔色が変わる。
「
エリは廊下にうつ伏せで倒れているソンジェに駆け寄った。
手に持ったものをひとまず床に置き、ソンジェの背中に手を当てる。
じっとりと、湿気がパジャマ越しにエリの手を濡らす。背中は上下しているので息はある。
「ソンジェッシ!」
こういう時、頭は揺らさない方が良いんだったかな。心の動揺とは裏腹に、エリは妙に冷静に考える。
エリはソンジェを揺らさないよう気を付けつつ、頬をペチペチと打ち、意識に呼びかけるように、明瞭に大声で名前を呼ぶ。
首筋に手をやると、肌に触れる前から、ソンジェの体の熱気がエリの指に届く。ひどい熱だ。
「ソンジェッシ!ちょっと、大丈夫!?」
まさかこんなに消耗しているなんて。救急車を呼んだほうがいいのだろうか。
汗ばんだソンジェの首筋からエリの指に伝わる早鐘のような脈はエリの焦燥感を煽った。
*************************
「ソンジェッシ!!・・・・ソンジェッシ!!」
3度目の呼びかけと、激しいペチペチでソンジェは目を薄く開けた。
「ん・・・う・・・」
「あ!ソンジェッシ!よかった、大丈夫!?」
「あれ、ここは」
「ココアは買ってきてないよ!なんで廊下に転がってんの」
「そうじゃな、」
「救急車呼ぶ?」
「いや・・・
ソンジェは大きく息を吸い、呼吸を整えようとする。吐く息が細かく震えた。
「ベッドまで行きたい・・・」
呟いてソンジェは体を起こそうとするが腕に力が入らない。
とりあえず会話ができるなら大丈夫かな?と、エリは少し安堵した。熱で少し昏倒しただけか。でも廊下に寝かせておくわけにはいかない。
「転がって。」
「え」
「その体勢じゃ起こせないでしょ、背中を下にしてくださいって言ってんの」
「いや助けは要らない、立てる」
「生まれたての小鹿かってくらいブルブル震えてるくせに、なにを言ってんの!救急車呼ぶか仰向けになるかのどっちかにして!」
「何もそんなに怒らなくても」
エリの
「廊下で寝てるからでしょ!何のために私が来てると思ってるの?ちゃんと治すための努力というものを、ちったぁ見せなさいよ!!」
この小さな獣の剣幕にソンジェは口から出かかった言葉を飲み込んだ。
ソンジェだって何も好き好んでわざわざ廊下で寝ていたわけではない。寝室に行こうとしたところに体の限界がきて動けなくなり昏倒したのだ。正直、今も動ける気がしない。
それでもエリの圧に押され、大人しくよろよろと転がり、仰向けになる。わずかな動きでも頭が割れそうに痛い。呼吸が荒くなる。うう、しんどい。しかもなぜか怒られている。
「よし。じゃあ立つよ。」
エリはソンジェの両膝を持ち上げて直角に曲げ、足の甲の上に立った。
「はい、手かして」
「え、なんで俺の足の上に」
「良いから。手」
パジャマで廊下に転がるソンジェの足の甲の上にエリが乗り、屈み込んでいる・・・。一体何が起きているんだと動揺する。この女のすることは徹頭徹尾、意味がわからない。しかし混乱しつつも、促されるまま、ソンジェはおずおずと両手をエリに向かって差し出す。
その手をエリはすばやく捕まえ、ソンジェの手首をしっかり握った。
「いい?今から体を一気に引っ張り上げるからね。アジョッシは重いんだから、ちゃんと集中して立ち上がって。はい、私の手首握って。一瞬だから頑張って。」
言うがいなや、エリは体を後ろに傾けながらソンジェの腕を引っ張り立ち上がった。
すると、ソンジェの体も引っ張られてフワッと起きあがる。
そこにすばやく、エリはソンジェの腕の下に体を滑り込ませ、胴にしっかり手を回し、倒れないように体を支えた。
「ほーら、立てたでしょ!」
エリは得意げにソンジェを見上げた。
「こういうの得意なの、わたし」
ひひっと楽しげな笑い声を弾ませ、黒目がちな目を輝かせている。
おや、先ほどの獣はどこにいったのだ?
さっきとは打って変わって、可愛く微笑んでいる。
エリの表情がくるくると変わる様子を、ソンジェは熱でぼんやりする頭で、万華鏡のようだと思った。
「まあ、アジョッシでかいからつっかえ棒になるには短いかもだけど、ベッドまではね。贅沢言わなでがんばって移動して。あ、あとわたしの服絵具ついてるから、パジャマ絵具つくかもしれないけど。
エリはソンジェの体側に自分の横っ腹を添えて力強く固定し、肩の上に被さる腕を担いだ。エリ自身もびっこを引きながら、少しづつ廊下を進む。
「ベッドはどこ?」
「寝室は左の二つ目のドアだ」
「まったく、でかい家の弊害ね・・・ベッドまでもこんなに遠い」
「ふ・・・本当だな」
頭は痛いし呼吸するだけでもしんどいのに、ソンジェも何だかおかしくなって笑ってしまった。
ぼふっと音を立ててソンジェがベッドに腰かけると、エリはすかさずインスタント粥を持って来た。
「さ、これ先に少し食べて。少しで良いから。そしたら薬ね。」
「・・・わかった」
ソンジェは顔に掛かる前髪を掻き揚げ、汗ばんだ額を軽く拭うと、差し出されたカップを受け取った。
すると、その真ん中に小さな匙が突き立っている。
妙な絵面である。
ソンジェが小さなスプーンを人差し指と親指で摘み上げて眺めていると、
「なに。どうしたの?あー、食べるのもしんどいか。かして。」
何かを早合点したエリがソンジェの手からスプーンとカップを奪い
「はい、あーん」
1掬いを小さなスプーンに乗せて差し出して来た。
ソンジェの顔に、前髪がパラリと一筋落ちる。
待て、なぜ俺が『あーん』せねばならんのだ。
朦朧とするソンジェの視線が泳ぐ。
そもそも何故、この小さなスプーンなのだ、いろいろ突っ込みたいのに、唇から漏れるのは荒い息だけだ。
ああ、この女は本気だ。本気で俺にあーんしろと迫っている。
ソンジェの目が潤む。
追い詰められた獲物のように。
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