8 第二章 エリ  



 くああっ、と大口開けながら昼も間近に出勤してくるテヒョンを、勤怠管理のおばちゃんは大きな子供だと思っている。

「はいこれ、あんたのゼミの鍵ね。なぁによ、また寝てないの?」

くいっくいっと、ぶあつい黒縁のメガネを押し上げながらレンズ越しにテヒョンの顔を検分し、カウンター越しに差し出された絵具の染み付いた大きな手に、チャリっと音を立て、実習室の鍵を落とした。

「ちがうよー、寝過ぎて辛いの!美貌に睡眠は欠かせないからね。じゃ、がんばってくるね!」

「今日はあまり遅くならないようにね」

おばちゃんは帳簿に時間を書きこみながら、ずりおちたメガネをもう一度押し上げ、美術棟に向かうテヒョンの後ろ姿を見送る。


 テヒョンの1日はそんな風にゆっくりと始まる。担当の授業がある日はそこに合わせて入らなければならないけれど、美術学科は午後の実習を主とする先生が多い。昼前に実習室の鍵を開けておけば一般教養をサボった学生が次々と暇つぶしにやってくる。漫画雑誌の最新話の話などをしながらコーヒーマシーンに豆と水をセットし、朝の一杯を淹れ(といってももうすぐ昼だけど)、タバコに火をつけて、ゆっくりと1日の動きを確認するのが日課だ。

唇に加えたフィルターをくいっくいっと動かすと立ちのぼる煙がゆらぐ。考え事をしている時のテヒョンの癖だ。


 日課といえば、通学チングフレンドのソンジェが、今日はバス停に現れなかった。

 連絡無しに俺を置いていく薄情な奴じゃないけど、何か急用でもあったんだろうか。今日は金曜だから、舞台芸術の実習も追い込みで忙しいのかもしれん。昨日の今日だし、それでなくてもキム教授の補助はただでさえ大変そうだしと、テヒョンはぐるぐる考えつつ、移動電話をチラリと見るがソンジェからの連絡は無い。そのうち学内でひょっこり会えるかなと、煙を細く吹き出す。1日1回はソンジェをからかわないと、テヒョンはつまらない。



 と、黄昏ていると早速エリがやってきた。

「あ、テヒョンさん、もう来てたんですか」

「チョンエリッシ、おはよー。早いじゃん」

「早くないです。もう昼ですよ。私は2限から来てますからね。コーヒーちょっと貰いますよ」

 口早に告げるとテヒョンの返事を待たずにエリはマグカップにコーヒーを注ぐ。


「それにしても昨日は大変だったね〜。」

 これはタイムリーな人物が来たぞと、テヒョンはぱたぱた駆け寄り、うきうきと話しかけた。

「何で知ってるんですか?」

 エリは勝手知ったる風で、研究室の冷蔵庫を開けるとミルクを出して注ぎ、コーヒーを白く濁らせていく。

「俺あの後すぐ通りかかったんだもん、二食でさ。おっちゃんから聞いたんだ。」

「そうですか。不慮の事故ですよ」

 エリはつとめて冷たく答える。

 昨日は風呂を借りた後、ミンギュに散々、怒られた。いやというほど説教を喰らった。落ち着け、噛みつくなと。どちらが悪いわけではないのだ、あれは不運な事故で、互いに済んだことだから、とにかく、もう噛みつくな、他人から何があったのかと聞かれたら「不慮の事故だ」とオウム返しだ、あとカエルを食おうとするなと言い含められた。ミンギュがあまりに言うものだから、エリも今日はロボットになって誰に何を言われても「フリョノ・ジコダ」と返答してきたのであった。


しかしこの副手はお構いなしだ。

「俺も見たかったわー。あのソンジェが女の子に声を荒げるところとか、舞台の上で以外見られないぞ。うどん掛けられたくらいであいつが怒るなんてなー。」

 くっくっくと、喉の奥で笑いを噛み殺しながらテヒョンも自分のマグを出すと、砂糖をざらざらと入れてからコーヒーを注いだ。その砂糖の、気持ち悪くなりそうな量にエリは顔をおもいっきり顰める。この線の細い副手は、いつも砂糖を食っている。

 うどんを掛けてしまったアジョッシ、キム・ソンジェは有名な人なだけでなく、自分の専攻科目の副手、お喋りなハン・テヒョンの友人でもあったらしい。

 ただのフリョノジコだけど。これを反芻しながらも、昨日の恩人ソンジェアジョッシのご友人ならば、すこしだけ庇うことも言っておいてやろうと口を開く。

 

「まあ・・・あのひと、二食の時はやたら怒ってましたけどね。・・・池に落ちた時は紳士的でしたよ」

「ん?」

「え?」

「・・・」


数秒の沈黙があり、目を見開いたテヒョンが聞き返した。


「池って、なにそれ」

「昨日の夕方池に落ちたんです」

「チョンエリッシが?まさかソンジェも?」

「・・・はい。」


 あ、やばい。エリは、失敗したと思った。目の前のテヒョンの瞳が、キラキラと輝き出したからだ。


「えええぇ・・・あいつ池に落ちたの!? でもまた、なんで・・・」

 

 これは良いことを聞いてしまった。

 何があったのソンジェ!

 テヒョンは驚きと笑いが堪えきれない。わくわくも好奇心も抑えられない。今すぐ電話をかけたいしソンジェの部屋の呼び鈴を鳴らしづつけたい。

「し、しかも、池に落ちても紳士的って・・・ぶふふふふ!!!」

テヒョンはこみ上げる笑いにもはや泣きそうになっている。こんなに会いたいのに、なぜあいつは今大学に来ていないのだ。

 我慢できずにソワソワと移動電話を手に取るテヒョンを横目に、エリは研究室の保管庫から自分のキャンバスを引っ張り出すと素早く研究室から逃げ出した。

 これ以上ここにいたら間違い無く面倒なことなる。




 美術の実習の時間では、早くやって来て絵筆を握るものもあれば、チラッと顔を出したきり屋上で本を読んでる者もある。日がなキャンバスを睨んでいる者もあるし、たんまり描き込んだ後にこわばった体を伸ばして、他のゼミ生とと話しながら息抜きしたり。お互い関わり合いながら、それぞれ自由に制作を進める。


 エリはキャンバスの前で仁王立ちになり、画面を睨み付けていた。

 しばらく睨んで、意を決したかのように絵筆を握り、鷹のように狙いを定めてキャンバスに近づく。が、筆先は宙空を彷徨ったままだ。筆の先は結局どこにも着地させぬまま数回呼吸すると、エリは少し距離をとってまた画面を見つめる。

 この繰り返しだ。一進一退、一気に進むときもあれば、進めたものが一度に消えてしまう時もある。


 次の一手を決めかねたエリは、休憩でもするかと後ろに数歩下がる。するとエリの背中がトスっと、いつの間にか後ろに立っていたテヒョンにぶつかった。

「あ、来てたんですか」

「もふもふもふ。巡回中だよ。まーた良い絵描いてるな・・・。」

 テヒョンは急いでエンゼルパイを口の中に押し込むと、画面に顔を近づけ、ディテールを眺める。

 そして目を細めて、心の底からの、感嘆の声を小さく漏らす。この子の絵にある特別なものは、学生に添う立場としては金の卵を得るが如き心躍るものであるが、同じ絵描きとしては目の眩むほど羨ましい、まごうことなき才能の輝きだ。

 しかしテヒョンの褒め言葉は、がしゃがしゃと筆を洗うエリの耳には届いていない。


 良い子なんだけどな。とテヒョンは思う。ゼミで、エリが誰かと楽しげにしているところを、およそ見掛けない。エリは優秀な学生である。一回生の時から入学金と学費を免除されていて、講義もきちんと取り、絵も教授たちの注目を集めている。

 しかしながらこの歯に衣着せぬ物言いとそれを生み出す性格、そして才能が、妬みと嫌悪を呼んでしまうせいで、周りにエリと深く付き合うものがいない。優秀が故の孤独。何者も住うことのできない領域に、首を高くもたげて佇む、稀有な鳥だ。

 エリの描いている絵が故意に汚されたり、破かれたりする事件も起き、エリの絵だけは研究室の保管庫に仕舞うことになってしまった。これも他の学生は気に入らない。

 テヒョンは、同じゼミ生が遠くからエリに向かって呪詛を吐くのを度々耳にしている。

 ある学生はエリのギャラリーを紹介しろと詰め寄り、言い争いの挙句にエリの顔に筆洗油を掛けた。テヒョンは目が開けられないエリを連れて眼科に付き添った。幸いにも眼球洗浄だけで済んで、視力にも別状はなかったが、加害者側の学生はしばらくして、退学していった。

 妬みは恐ろしい。

 身を滅ぼしてしまう。

 副手という立場があるから、テヒョンはエリと軽口が叩ける。自分が学生だったら、エリは眩しすぎて近寄れなかっただろう。近づいたが最後、嫉妬に焼かれたにちがいない。





 休憩に入りそうなエリの雰囲気を察してテヒョンは小声で話しかける。

「で、大丈夫だったの?池に落ちた後。昨日寒かったでしょ」

 話し掛けながらテヒョンはポケットから新しいエンゼルパイを取り出し、ピリピリと袋を開けた。

 この副手はどうしても事の顛末が知りたいらしい。まあでも言って何が問題になるでもないので、エリは素直に答えることにした。

「あー、私は友達チングのとこに行って着替え借りました。ソンジェさんは

池から友達の家まで私を送ってくれましたよ。足をくじいちゃって歩けなくて。」

 そもそも何で池に落ちたんだよ!と詳しく突っ込みたい点ではあるけれど。

「あいつはマジで紳士だよな。もぐもぐ」

と、当たり障りない返事でエリの小咄を引き出す。

「ほんとに。普通の大学生じゃないですよね、こう、腕でスイっと私を腕で、腕でですよ、抱えたんですよ。普通そんなことします?舞台芸術の人は普段演劇でやってるから普通なのかな・・・」

 エリは自分を抱えた時のソンジェの腕の動きを再現してみせた。それを見たテヒョンはうっかりエンゼルパイを吹き出しそうになる。もう面白くって仕方がない。これはまた舞台芸術学科に対するとんでもない思い込みが飛び出したものである。

「なに、まさかソンジェがお姫様抱っこしたの・・・?」

 笑いを噛み殺すのに必死なテヒョンが、真面目な顔でエリに問い掛けた時だった。





ぴぴぴぴぴぴ





 テヒョンのポケットが鳴った。

「お。だれだー?」

 呑気に引っ張り出した移動電話の画面を一目見たテヒョンの目が、きらっと喜びに輝く。

 ソンジェだ。

「あ、チョンエリッシ!ソンジェからだよ。」

と弾む声で一言告げて、テヒョンは電話に出る。


「ヨボセヨ?もぐもぐ。おいソンジェ、メールくらい・・・」

 勢いよく話し始めたテヒョンの大きな声が次第にトーンダウンしていく。

「うわまじでか、うん・・・うん・・・」

 テヒョンの声をエリは聞いているのかいないのか、すっかり冷たくなったマグを手に、壁際の薄汚れたソファに腰を下ろしたが、目はテヒョンを追っている。


「どうかしたんですか」

 テヒョンが通話を終えるとエリはテヒョンから視線を外し、空になったマグを床に置いた。それと入れ替えに、床に積んである小説をなんとなく、一冊手に取る。

「風邪ひいて動けないんだってさ。休むくらいだから酷そうだな。舞芸の方には連絡できてるのかどうか・・・。病院にも行ってなさそうだし、薬と食べ物は・・・まあ無いだろうな、後で買い物していってやるか」

 テヒョンは移動電話の画面をテチテチと触り真面目な顔で言う。日頃ふらふらと頼りない副手であるが、一瞬にして有能な人物に切り替わった。


 エリはすぐに思い至る。昨日寒い中、ふたりでずぶ濡れのままミンギュの寮まで歩いたことに。ぺらりぺらりと手の中の本を繰ってはみるけれど、文字の意味が頭に入ってきていない。もしかしたら、昨日歩かせてしまったから、風邪を引いたのかも?と、ぐるぐる考えが巡る。

 でも池に落ちたのは二人一緒だ。アジョッシも私のことなど構わず、どこへでもさっさと着替えにでも行けばよかったのに。ミンギュに着替えを借りたってよかったのに。ふん。一人で勝手に風邪など引いて哀れなことだ。

「そうですか、大変ですね」

 心のこもっていないお返事の手本のような、見事な棒読みでエリは声を返した。テヒョンは関心無さげに本をめくるエリに、ちらりと目を遣りしばし考える。

ソンジェは明らかに誰かの助けが必要だ。




「あ!!!」




突然テヒョンが上げた素っ頓狂な声に、エリの肩がびくっと跳ねた。

「テ、テヒョンさん、・・・どうしたんですか」

「チョンエリッシ!ちょっとお願いが。もぐもぐもぐ!」

 エリはなんだか嫌な予感がした。テヒョンの声が、喜色に弾んでいる。こんなの面倒なのに決まっている。そしてその予感は残念ながら、当たる。

「足、大丈夫?100メートルくらい歩ける?」

「あ、歩けますけど」

「ソンジェのところへお使いに行って欲しいんだけど」

「は?」

 テヒョンはこれ以上の名案はなかろうと、ニコニコだ。

 エリは手の中の本をパンっと勢い良く閉じ立ち上がる。

「何で私が」

 エリは出うる限りの低い声で答えてみるが、テヒョンには糠に釘だ。


「いや俺、今日帰り遅くなるんだよなー!実習終わって片付けして戸締り消灯してからだと薬局閉まっちゃうじゃん。ソンジェ、薬がなくて困ってるみたいなんだよ」

 どうだ。完璧な理由まである。これでは断れまい。

「いやですよ私も遅くまで」

 エリも粘るがテヒョンはエンゼルパイを飲み込み叫んだ。

「明日カツカレー奢るよ!」


 これが決め手だった。目を輝かせたエリがそこにいた。


「行きます」






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る