前髪から滴った水がソンジェの眉尻を伝い、頬骨を滑り落ちて唇を濡らす。

大きな体躯をきゅうと縮こまらせて、ぶるぶる震えながら、ソンジェは生まれて初めての、池の水のあじわいというものを、記憶に刻み込んでいた。

「これが池の味か・・・」

 もちろん美味くなどない。全くもって得難い経験をしてしまったと苦々しい気持ちで顔を拭うが、濡れた手の甲で拭っても、残念ながら池の水を塗り直す事にしかならない。

その横をエリは、地獄の底から這い上がって来たような顔で、こちらも青い唇で裏道を下っている。片手はソンジェの肩の上に、もう片方の手は網の柄を持ち、杖のようにカツン、カツン、とアスファルトに突きながら、ひょこひょこと歩く。

「う〜〜〜、寒いしびしょ濡れだし、最っ悪」

「・・・まったくな」

低い声で唸るソンジェに睨めつけられると、エリはそっぽをむいて

「はいはい、私が悪いって言いたいんでしょ」

と軽く応える。

がぽっ、ぐぼっと、一歩また一歩と踏み出すたび靴の中の水が気持ちの悪い音を立てる。

ずぶ濡れ具合がうどんの比じゃ無い。滴る水がアスファルトに染みを描いていく。まるで歩くナメクジだ。




 2人仲良く冷たい芸池から這い上がったあと、それでもソンジェは急いで演劇演習場に向かおうとした。音源データが今日は手に入らなくても、せめて補助には入ろうと思ったのだ。さあ行こうとコンクリートの壁に手をかけ、ふと後ろを振り返ると、エリが突っ立ったまま動かない。

「おい、行かないのか?」

どうかしたのかと手を差し出すと気まずそうに顔をしかめながら

「足・・・くじいたかも」

と言う。医務室にでも行くか?と聞けば、芸池からなら駐車場裏の寮に住む友達の所の方が近いから歩くと。


あっそ。アラッソ

と言ってさっさと立ち去れるほど薄情なソンジェならよかった。

ところが生憎、紳士だ。


ソンジェはエリのそばに寄ると、片腕をサッとエリの膝裏に差し込んで軽々と掬い上げた。

「ひゃ!!えっ、ちょっと、なにす・・」

おのずと傾ぐ背中をもう片方の腕で受け止めると、ぐっと胸元に抱き抱える。


突然横抱きにされたエリは、慌てて抗議するが、ソンジェは全く意に介さない。

ダンボール箱でも持ち運んでいるかのように淡々とガードレール下まで歩くと、エリをアスファルトの上に持ち上げ、そっと下ろした。

「その足じゃこの壁登れないだろ」

 確かに、コンクリートブロックで固められた壁は足がかりになるところが無い。でも、それにしたって、いきなりお姫様だっこは無い!というエリの困惑は他所に、ソンジェの思考は極めてシンプルだ。『こいつ立てない、段差ある、時間無い、かかえる、上に持ち上げる』、以上である。


 エリが呆れて何も言えぬまま、ずぶ濡れの重たい作業着を引きずってヨロヨロと体を起こそうとしている間に、ソンジェはエリの落とした網と、脱げ落ちたスリッポンの片割れも拾って、すばやく道路に登ってきた。その軽々とした身のこなしが、いちいち様になっている。

「その駐車場裏の寮まで行くと言うなら手を貸す。行こう。」

なんだこいつは、貴族か何かか?さっきは二食で勝手にうどんを被った挙句にキレて怒鳴って来たくせに、今度はカエルを獲る邪魔をして、騎士ナイトごっこだ?

変な奴だ。無駄に見た目が良いのに池の周りをうろついているのも怪しい。

関わらずに、さっさと行こう。

エリは足に力を入れ立ち上がろうとするがその途端、バランスを崩す。

「いっ・・・・」

足首の痛みにおもわず声が漏れる。

ソンジェは一跨ぎでガードレールを越えると、まだアスファルトの上にしゃがみ込んだままのエリに手を差し出した。

「悪いが時間が無いんだ。行くなら今、立ってくれ。」

 この手につかまって立つかどうか、エリは少し戸惑う。

 でも寒いし、足は痛いし、びしょ濡れだ。それにこいつに悪意は無さそうだ。鼻持ちならないが。


ありがとコマヲ・・・」

ちいさく口の中で礼を呟き、ソンジュの手を取った。




********************




心地よいはずの春風が、濡れた衣服からどんどん体温を奪っていってしまう。

首の後ろにこみ上げる寒気に、奥歯が鳴りそうになる。

「名前は?」

不意に聞かれてソンジェはエリの方を向く。

「キム・ソンジェだ。」

ブロロロロと音を立てて、軽トラが狭い道を走ってくる。ソンジェは立ち止まり、腕を広げ、エリを庇うかのように車側から遠ざけながら訊き返す。

「君は?」

「チョン・エリ」

「学科は?」

「美術」

「俺は舞台芸術だ」

「ぽいね」

「?」

「いや、こっちの話」

エリはニヤ、と笑った。

「ねえ芸池で何したかったの?舞台芸術の人は芸池に用無いでしょ。」

「探し物をしていてな、教授があの辺りで落とした物を探してたんだ」

ふーん、とエリは軽く応える。

「アジョッシは副手?それとも院生?学部生にしてはちょっと老けてるし」

ふ、ふけてる!?と抗議したい気持ちはなんとか抑えた。

「院生だよ。今年で卒業だ」

「じゃあ今は論文書いたり、就活とか、採用試験とか、舞台だったらオーディションとかで忙しそうね」


「・・・」


 ただの世間話。でもソンジェは返す言葉に詰まってしまう。

 これらのどれも、ソンジェはしていない。

 院生ともなると舞台稽古は後輩指導の方にどうしても時間が割かれてしまう。論文はもう書き上がってしまったし、就職先なんて生まれた時から決まっている。


ソンジェは舞台の上で、自在に表現する才能と、誰の目をも引きつける稀有な魅力を持っている。そんなソンジェの静かな輝きを目敏く見つけた数多の劇団や芸能事務所たちは、オーディションを受けに来ないかと幾度も誘ってきたが、それらを全て断り続けてきたせいで、もう今となっては、どこからも案内が来ない。そんな状態だから、せめてキム教授の補助にと、事情を知るイ・スギョン先生の采配があった。

その末が教授の落し物探しと、池に落ちた自分だ。


 この何年間かで見送っていった数々の同級生たちは、鼻息荒く履歴書を書き散らし、劇団オーディションや就職先に飛び込んでいった。みな、大変だ、面倒だと文句を言いながらもキラキラと楽しそうで、ソンジェも一度その流れに乗っかって、オーディションを受けにいったことがある。すると受付で門前払いされた。


 同級生たちが建物の中に消えたあと、憐憫の眼差しを隠そうともしない主催者から、オーディションを受けさせないようにという父親の圧力があったことを、そっと聞かされたのはそれなりにショックだった。ここまでするのかと。


ソンジェはもう、何をしたら良いのかわからない。


ソンジェの目の前には、自分の自由が死んでいくのをただただ見つめるだけの、虚しい一年が横たわっているのだった。


黙ってしまったソンジェを横目でチラッと見たエリは「ま、顔天才でも、悩みくらいあるよね」とちいさく口にした。






学生用駐車場横の舗装されていない農道を辿って、途中から田んぼを隔てる畔を歩いていくと、古い建物の裏にたどり着いた。そこで何を思ったか、エリは屈んで小石をじゃらりと掴むと二階の窓の一つに向かって投げる。

小石は窓ガラスに当たり、カツン、と音を立てる。

「おい、一体何を」

ソンジェは慌ててエリを止めようとするが、カツン!また一つ投げながらエリは言う。

「住人呼び出しよ、呼び出し。おーい!ミンギュ!!ミギュナー!!・・・いててて」

エリがよろめくのでソンジェは慌ててまた肩を貸すが、耳元でミンギュミンギュと喚かれるので頭がキンキンする。

するとカラカラと窓が開き、男が顔を出した。

「おいこらチョンエリ!窓に物をぶつけるのはやめろとあれほど・・・・っと、どうした・・・」


 どこかで見たことがあるなこの顔は、とソンジェは引っ掛かりを感じる。

男はというと、エリの隣で、エリの体を支えるずぶ濡れのソンジェと、そのソンジェの肩に腕を回したエリを交互に見ながら、顔に現れる困惑を隠さない。

エリよ、さっきその男にうどんを掛けて、揉めたばかりではないか。なぜずぶ濡れで肩を借りているんだ。なぜだ。目がそう言っている。

「池に落ちちゃったのー、寒くて足が痛い!」

エリは声を張り上げる。

「そっちいく」

 男は短く返事すると素早く窓を閉めた。

 閉まった窓を見つめながらソンジェは、ふう、と息をつく。

「彼が家まで送ってくれるのか?」

「ん、着替えと風呂を借りようと思って。男子寮だから風呂場の入り口に見張り立っててもらわないといけないんだけどね。アジョッシもお風呂借りてく?」

「いや、俺は大学に戻らないと」

「その有り様で⁉︎」

「後輩の着替えでもかりるよ」

まさか本っ当に自分を送る為だけに、ここまでわざわざ歩いてきたのかと、エリは目を丸くする。さすが、恥ずかしげもなく、問答無用でお姫様抱っこする奴なだけある。さっきは貴族かよとか思ってごめん、ほんとの紳士だったわと肩を竦めた。


と、二言三言交わす間に、男が走ってきた。

「チョンエリ!」

「ミギュナー、肩貸して」

エリはソンジェの肩から腕を離し、手をふりふりと振る。

「いいけど、ってうわ!つめた!」

ドサっと遠慮なく男の肩に置かれたエリのずぶ濡れ作業着が、容赦無くTシャツの背中を濡らす。

「あ、ごめん。」

「もういいよ、時すでに遅しだわ・・・。あの、今日二食で会いましたよね?」

ソンジェは不意に真剣な眼差しを向けられて、怯む。

ああ、そうだった。こいつは昼に、二食に現れたやつだ。ミンギュ、そう、カン・ミンギュだ。

「ああ、さっき偶然居合わせてな。池に落ちた時、足を痛めたようだったから送ってきたんだ。」

ソンジェは気を取り直して、当たり障りのない返答をした。

「そうですか、またもやエリが迷惑をお掛けしたのでしょう・・・。お手を煩わせました。」

ミンギュはエリの体を揺らさないように、器用に頭を下げた。

それを見たソンジェの胸を、なんでいつもこの男が謝るんだ、母親のつもりか、と少し意地の悪い思いがざらつかせる。


「いや、大丈夫だ。では、大学に戻るのでこれで失礼する。」

とソンジェが踵を返すとエリの声が後ろから

「アジョッシー!コマヲヨー!」

と飛んできた。

田んぼの畔を大学に向かって走りながら、ソンジェは叫び返す


「アジョッシはやめろ!」

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