5
ソンジェは天の川通りを探すのを諦めて、校舎群の背面を通る裏道の方に抜け出た。いつもだったら通路に面した陶芸科の、
裏道を歩きながら、もしかしたら誰かがもう収得して学生課に預けているかもしれない、教員駐車場まで行って無かったら聞きにいかなければならないな、と心に留める。
裏道の、勾配のきつい坂を下っていると、山を駆け上ってくる風がソンジェの頬を撫でる。風の行く末を追うように、ずっと下を向きっぱなしだった視線を空に向ける。すると覆いかぶさった樹木の間から透けて見える晴れた空と、もうすぐ暮れゆくのであろう色がつき始めた雲が見える。
ソンジェは僅かに上気した唇から、ふうっ、と息を吐いて目を細めた。
「この辺りか・・・?キム教授がカバンを落としたのは」
ソンジェは裏道の横にある池の横で、腰に手を当て、あたりを見回す。芸大の池、通称「芸池」だ。
芸池はそれなりに深く大きく、裏道に面しているところ以外は鬱蒼と茂る水生植物や灌木に水面を浸している。枯れ草の間から、わずかに雑草の新芽が顔を覗かせている。
(ここでメモリを落としたとしたら・・・。運良く道の端に転がっていたら運がいい。運悪く道のど真ん中に残って車に轢かれていたらもうお終いだ。いや、もう一つの可能性として、池の方に落ちたことも考えられるな・・・)
ソンジェはがしがしと後ろ頭を掻きながら、様々なケースを思い浮かべ探し回る。
しかし道の端には無い。道の真ん中で轢かれ平たくなったポーチも、幸い見当たらない。
ならば・・・と向き直った芸池。
裏道と池とを隔てるガードレールの下を、ぐっと身を乗り出して覗き込んでみる。
裏道の地表から1mほど下の地面まで続く、コンクリートタイルで固められた斜面には、引っかかっているポーチらしきものは見つからないが、池を囲む下の草むらの中に落ちているかもしれない。ソンジェはここも探さなければならないのかと、うんざりする。それでもキム教授が芸池横でカバンを落としたというのなら、可能性の一つとしてここも確認せねばならない。
ガードレールをつかんだ手にぐっと力を入れて地を蹴ると、ソンジェはそれを軽々と飛び越え、サクッと音を立て草の上の降り立った。
『シーーーッ!しずかに!』
途端に、ソンジェに向かって鋭く囁き声が飛んできた。
なんでこんなところから声が・・・
とギョッとして振り向いたソンジュの目に飛び込んできたのは、灌木の中に潜む、先ほどソンジェと遣り合ったばかりの学生、チョン・エリの、こちらを睨み付ける姿であった。
「・・・なんでこんなところに」
『シー!!』
口元に人差し指を当て、眉間のシワをより深くし、音を出すなと眼力で命令を飛ばしてきた。その真剣な彼女の手は、長い柄のついた網を握りしめている。ソンジェはこのようなものを持ち歩く大人と出会ったことがない。
「・・・それで何をするんだ?」
ソンジェは訊いた。
『静かにしてってば!カエルが逃げちゃう』
ヒソヒソ声が秒で返ってくる。
『・・・カエルなんか獲ってどうするんだ、絵でも描くのか』
ソンジェもエリに合わせて声のトーンを落とした。
『食べるに決まってるでしょ』
き、きまっている?ソンジェの顔に驚きとも嫌悪とも取れる複雑な表情が浮かぶ。
カエルは食べられる生き物かもしれないが、本気でこの汚い澱んだ芸池で獲った生き物を食う気なのか。だいたい、生きているカエルをどう腹に納める気なんだ。
まあ、芸大には変な奴がいるな・・・、とソンジェは自分を無理矢理納得させた。エリの目は真剣に水面を見つめており、その視線の先を追えば、池の浅瀬に呑気なカエルの目と鼻が浮かんでいるのを視界に捉えることができた。
『そ、そうか。がんばれ』
エリが何を食べようと、自分の関与することでは無い。もう二食でのことも頭の外に追いやった。今は教授の落とし物を探さねばならない。ソンジェが短くエールを送り足元に視線を移そうとしたその時だった。
エリはカエルに向かって一気に飛び出し、網を伸ばした。
その足元に潜んでいた葛が、エリが突っかけて履いていたスリッポンを絡め捉える。
スリッポンは脱げ、バランスを崩したエリは池の水に向かって正面から倒れていく。
それらの様子が全て、ソンジェの目の前に、スローモーションで流れていた。
見えたが最後、ソンジェの体は意図することなく並外れた速度で反応した。
それはソンジェが女性を大切にしなさいと教育を受けてきたからとかではない。
ソンジェの本能が、体を突き動かした。素早く一歩を踏み出し力強く腕を広げると、その腕の硬さとは相反して柔らかく、池の中に突っ込みかけたエリをトスっと、抱きとめる。
エリが池に落ちる前の、すんでのところで間に合った。
ソンジェは大きく、安堵の息を吐いた。
「ふう、危なかった。おい、池に落ちるところだったじゃないか。なにを考えているんだ!」
ソンジェの片足はエリを支えるために池の水に中に浸かってしまっている。しかし人が顔から池に落ちなくてよかった、と胸を撫で下ろす。春先の池の水はまだまだ冷たく、濡れた足首から冷たさが這い上がってきているのだ。これの中にダイブする羽目にならなくてよかった。
視線を下ろすとエリのつむじが見える。細い、耳の後ろの線。ソンジェの腕の中にすっぽりと入るエリの体はゴワゴワの作業着に包まれているが、抱きとめた背中はぼふっと空気が抜けるほどぶかぶかで、その下の体は驚くほど華奢だ。
なんだか触れてはいけない物のような気がして、ソンジェは背中に回した腕を緩める。
「・・・だ、大丈夫か。足は、怪我はしなかったか?」
すると、パッと顔が上がる。真っ赤な顔に、キッと目を吊り上げてエリは叫んだ。
「だ・・・誰が助けてなんて頼んだのよ!!カエル逃げちゃったじゃない!」
『どんっ!』
エリはソンジュの胸の前に縮こまらせていた腕を思い切り突き出した。
その細い腕のどこにそんな力がというほど。
「ちょっ・・・」
ゆっくりとソンジュの体は背中から池の方に傾いた。
反射的に、目の前にあるエリの手首を掴む。溺れるものは藁をも掴むアレだ。
目には暮れゆく空と、慌てたようなエリの顔が映る。
俺なんでこんな目に遭ってるんだろう。
ソンジュは大きな水しぶきを立てて池の中にエリを道連れにして落ちた。
「もう、音データ間に合わへん・・・」と思いながら。
「きゃああああああああ!!!!!」という断末魔と、
『ずばっしゃーーーーーん』という大きな水音が、春も麗かな芸池に響いた。
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