ぴゅう。濡れた首筋を風が吹き抜けて、ソンジェは反射的にぶるっと身をすくめた。外の空気は混乱していた頭を少しだけすっきりさせてくれる。

 外に出て気付く。いくら春になって暖かくなったからと言っても、日陰に入れば寒いなと。ふとした瞬間に冷めた出汁の匂いが鼻をかすめてソンジェを物悲しい気分にさせる。なんだか髪もベタついてきた気がする。探すのはシャワーをあびてからにするか・・・。ひとりごちて、ソンジェは力なく総合体育館へ向かった。ここにはシャワー室があり、個人ロッカーには常に稽古着の着替えを置いてあるのだ。


 出汁のしみたジャケットを脱ぎ、肌に張り付いたTシャツを苦労してはぎ取る。頭がTシャツから抜けると、うどんやネギだけでなく、薬味のしょうがまで髪から落ちた。こんなものまでくっつけて歩いていたのか。

 シャワー室に入り、後ろ手に閉めた戸にタオルを引っ掛け、勢いよく出てきた熱いシャワーの下に立つ。

 水は頭全体に行き渡ってしまった出汁を押し出すと、耳の後ろを、首筋を、鎖骨の隆起を越えて、体表を流れ伝ってタイルを打つ。するとたちまち足元にうどん出汁が流れ出てきて、うすく色を作り、しかしそれも後から来る水に押し流され次第に透明になる。そうして水の流れるのをしばらくぼうっと眺めながら、ソンジェは今さっき起きたことを反芻していた。


 何故俺は、あんな態度を取ったのだろう。彼女は悪くないじゃないか。

 そもそも彼女のおかげで教授の無駄話から自由になれたのだ。

 感謝しこそすれ、あんな理不尽に怒鳴るなど。

 


 壁についた手に体重を預けて足元を流れていく水に問うても、当然答えなど返ってはこない。

 ソンジェは目を固く閉じ、水の跳ね返る音を聞きながら、深呼吸した。

 キム教授が無くしたデータを探しに行かなければ。ソンジェはさっき起きたことの動揺を頭の隅に追い遣るかのように、乱暴に頭を洗った。

 バスタオルに顔を埋めるといつもの柔軟剤の香りがソンジェを心なしか落ち着かせた。



 *********



 タオルを腰に巻きつけてシャワーから出ると更衣室にテヒョンがいた。


「ほーらお前、カバン忘れてたぞ」

「ああ、すまん。キム教授から預かってきてくれたのか?」

「いや、たまたま二食を通りかかったらおっちゃんに渡されて」

「そうか、ありがとう」

 ソンジェは食堂に忘れてきてしまっていた鞄を受け取った。大したものは入ってはいないが。

 キム教授がデータを紛失したことに憤る資格、俺には無いな・・・ソンジェは自嘲気味に小さなため息をついた。先ほどはみっともなく取り乱してしまった。散らかしたままにしてきてしまったし、あとで二食にも謝りに行かねばなるまい、差し入れを持って。

 

 ソンジェはロッカーを開けて稽古着の着替えを取り出しいそいそと身につけ始めたが、衣服というものは濡れた肌の上では無駄に抵抗する。それもそのはず、髪からはまだぽたぽたと水が垂れてソンジェの肩や胸を一滴また一滴と引き続き濡らしに掛かっている。それどころか足元もだいぶ濡れている。

 ・・・さてはこいつ、ちゃんと拭いてこなかったな?おまえは子供か!とテヒョンは心の中でつっこむ。

 こいつどうしたんだ。


「まてまて、頭くらいしっかり拭けって」

 Tシャツが背中にへばりついてもたもたと着られないソンジェを見かねて、テヒョンは拾い上げたタオルでソンジェの頭を包むと乱暴にわしわしとかきまわした。手を動かしながら口を開く。

「なあ、なにがあったんだ?おまえが声を荒げたところなんて初めて見たってキム教授が言ってたぞ」

 テヒョンは、されるがままになっているソンジェは、でかい犬みたいだなーと、関係ないことも考えている。

「・・・・・・・・・。」

「まあ、話したかったらでいいけどさ。揉めた相手はデザイン学科のカン・ミンギュだったっけ?あの有名な」

「・・・いや、ちがう。美術の子だと思う。ツナギ着てた」

 ぱっ!と勢いよくまるで手品師のようにタオルを取っ払うと、テヒョンはソンジェの顔をまじまじと、まるで何かを読み取ろうとするかのように見つめた。

「・・・なにお前、女の子にうどんぶっかけられたの?それで怒ってるの?めーずらし。」

「珍しいって・・・どういうことだ」

 テヒョンの手から乱暴にタオルをふんだくるとまだ濡れたままの腹と腕を拭う。しかしもう遅い、Tシャツは肩と胸の水気を吸ってすっかりまだらに湿ってしまった。ソンジェの口が拗ねた子供のように尖る。それをテヒョンは目の端で捉え、これはいよいよ珍しいぞと驚いた。

「いや、いつものおまえだったらさ、女の子が顔面にパイをぶつけてきたってさ、顔じゅう生クリームで真っ白ピエロのまんまでも『失礼・・・どこかあなたのお召し物に汚れが飛んではいませんか』って優秀なバトラーみてーに言いそうじゃん。」

 なるほど、そう言われてみればそうかもしれない。・・・っていうかコイツ俺のことそんな風に見てたのか、器用に真似までするなんてとソンジェは心の中で毒づきながら手早く衣服を身につけていった。

 普段テヒョンがどんなに軽口を叩いても、「はっはっは・・・そんなことは言うもんじゃないよ」だの、「持ち帰って検討してみよう」だの、ソンジェは大人な受けごたえばかりで、自分の感情はあまり見せない。素の心を出さない。舞台では他人の心情をとても上手に表現できるのに。


「俺にもよくわからん・・・」ぼそっと呟いた声は、テヒョンに向けたものなのか自身に向けたものだったのか。

 パタン、とロッカーが軽い音を立てて閉まった。



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