おっちゃんはいつも元気だ。

「ひやし肉たぬきうどん2丁あがったよー!」

 がやがやと喧騒が渦を巻く二食でもおっちゃんの声はよく通る。春だというのに陽気は初夏のようで、二食では気の早い冷やしメニューが始まっている。


「キム教授、僕、取ってきますね。」


 席の向かい側に座るキムリナ教授に一言告げてソンジェはおっちゃんのもとへ向かうべく立ち上がる。大咲おおさか芸大には何箇所か飲食できる施設があり、ここは敷地内でも最も奥に位置する第二食堂。通称『二食』だ。演習が奥の劇場であると、自然とここで食事を取ることになる。他学科の学生も昼飯時になると大挙して押しかけるのでいつも満席だ。

 ソンジェは高い上背を小さくかがめ、椅子と椅子の間を縫って「失礼・・・」「ああ、失礼・・・」と声をかけながらカウンターへと向かう。


「おい、にいちゃん。キム教授キョスニムのうどんはこっちだ。卵の入っていない天かすを今揚げて入れたからな!熱々だから気をつけてくれって、伝えてくれな。こっちはおっちゃんが漬けたカクテキだ。味見してくれ!バチン!」


 おっちゃんは太い指でじゅわじゅわと音を立てる『冷やし』たぬきうどんを指差す。バチン!はウインクだ。これも教授に伝えねばならないのだろうか。


「わかりました。いつもありがとうございます、特別な配慮を頂いて・・・。」


「なに、キム教授キョスニムのためだから!卵アレルギーなんて大変だよ〜。」


 おっちゃんは大きな体をくねくねさせて、心配している様子を表現しだす。


「普段のお食事でも苦労されているんだろう。ここでくらいは安心して力の出るもの食べてもらいじゃねえか。さ!冷める前に持ってってくれ!」


 会釈をしてソンジェはトレーを運ぶ。おっちゃんが舞台芸術学科教授のキムリナにベタ惚れでいつも特別メニューばかり提供していると、そこら中から噂話が聞こえてはくるが、キム教授は卵アレルギーなのだから事情を知っているおっちゃんが配慮食を用意するのは私情ではなく、料理人としての思い遣り、職人根性なのではないかと思っている。

 ・・・そう、ソンジェには恋愛経験というものが乏しい。おっちゃんがいちいち新鮮な天かすを揚げるのは完全なるエコ贔屓であり、誰の目にもくっきりと、おっちゃんの桃色恋心が見える。食堂のおばちゃん達も、もちろん生暖かい目で見守っている。気付いていないのはソンジェだけだ。


「それがね、ソンジェッシ。さっきの会議で提案する予定だった楽曲のメモリをなくしちゃって」


 キムリナは気怠げに麺を一本ずつ口に運び始めた。


「えっ!それって学部生の公演で使う、もう振り付けが始まっているものですよね?」


「そうなのよ。もぐもぐ。イ・スギョン先生が有名振付師に構成をお願いした特別なものだったから〜、もぐもぐ怒られちゃったわ」


「そ、それは・・・当然かとは思いますが・・・。で、結局見つかったのですか?」


「ううん?見つかってないわよ。困ったわ〜って思って。もぐもぐ」


 ソンジェは頭を抱えたくなる。

 なぜこの人はこれから学生が使うものを今すぐ探しに行かずに、のんびりとうどんを啜っているのだろう。イ・スギョン先生が自分に、キム教授の補助についてくれと言った理由が分かった気がする。ああしかし、いくらイ・スギョン先生の指示でも逃げたい。


「データのバックアップはありますよね?」


「それが無いの。あのUSBを渡されただけだから〜。小さいポーチに入れておいたんだけど、これくらいの」


 とキムリナは人差し指でマッチ箱くらいの形を空中になぞる。


「私のイヤリングも入ってるから、困ったなーって」


 これを聞いてソンジェは察する。間違いない、この人はUSBを無くしたことよりも、自分のイヤリングを案じているのだ。


「ではこの後自分も周りに落ちていないか気をつけては見ますが・・・。せめて、どこか心当たりはありませんか。」


 ンー・・・。とキムリナは顎に人差し指を当てて、考えるポーズを取る。若々しく美人な、現在も女優もこなす教授ではあるが、どうにも仕草がレトロである。


「教員駐車場から芸池の脇を通る時、カバンを落としちゃってー。中身は飛び出なかったんだけど、もしかしたら何かのはずみで落ちちゃったのかも。」


「わかりました。自分この後6限の補助まで時間あるので探しに行ってきますよ」


 と、ソンジェは立ち上がろうとした。すると


「・・・あなた、私がまだ終わっていないのにここに置いていく気?」


 とキムリナは上目遣いで、そこへまだ座っておけと遠回しに命令をする。要は、自分の気が済むまで付き合えと。ソンジェは飛び出しそうになる巨大なため息を必死で飲み込み、再び椅子に腰掛けた。


「失礼しました。では食事が済み次第、探しに行きます。」


 その言葉にキムリナは、満足げににっこりと、口紅を引いた真っ赤な口角を上げた。


「そう!よかった。それじゃあ食後のコーヒーを頼んできてくれるかしら。私これからまだ演習の指導も、打ち合わせもあって・・・ああなんでこんなに忙しいのかしら。」


「分かりました。コーヒーですね。」


「それでね、今度の公演、イ・スギョン先生の新しい演出であなたにも舞台に立ってもらいたいと思っているのよね。でもそれを舞踏の〇〇教授ったら首を縦に振ってくれなくて。学部生の舞台だから院生はダメだって。でも私はあなたが舞台に立つ機会を増やしたいの!あなたが出るとなるとチケットは即捌けるし、テレビ局もつくんですもの・・・。」


 キムリナはもうおっちゃん特製のうどんを食べる気はないようだ。つついてはもちあげ、突いては横に寄せ、弄びながらひたすら喋る。その手元を冷めた目で眺めながらソンジェは、速く食ってくんねえかな、食わねえならもう片付けさせてくれ、と頭の中でテヒョン口調を真似た。

 学部生の舞台なのだから院生であるソンジェが無理矢理入る必要は無いしソンジェも出たいとは思ってもいないのにキムリナは未練がましい。


「ああ・・・ほんとチンチャ!! 本当にもったいない。あなたこそ、舞台の上で生きるべき者なのに。あと1年で舞台から去るだなんて。あなたのお父さまを何とか」


「・・っ!!キム教授!」

 バン!とソンジェは机に手を突き、椅子から腰を浮かせキムリナに向かって体を乗り出した。

 父のことを持ち出すのはやめていただきたい、と言葉が後に続くはずだった。

 ところがキムリナの口はソンジェが想像だにしなかった事態で、黙することになる。



 ばちゃあ!



 髪の間を冷たいものが伝わっていく。ぽたり、ぽたり。髪から滴が落ちテーブルに薄茶色の水溜りを作る。何が起きたか瞬時には読み込めない。

 目の前のキムリナは目を見開いて、口も半開きのままこちらを見ている。ああ、黙ってくれたなと、ソンジェは安堵する。

 カラン、カラカラ・・・と床が音を立てた。なんだ?ああ、皿か。拾おうと身をかがめると、するりと白いものが頭から滑り落ち、ぺちょ・・と力なく床に落ちる。なんだこれ。うどんか?なぜうどんが俺の頭から落ちるんだ。


「ちょっと、あんた・・・」

 怒気の篭ったうなり声が響いくる。

 この出汁の匂い、俺はもしや、ぶっかけうどんを、ぶっかけられたのか・・・?


「わたしのうどん!返してよ!」


 泣きそうな金切り声が二食に響き渡った。






 立ち上がって振り返ると、そこには小柄な女性が仁王立ちでソンジェを見上げていた。色とりどりの絵具が飛び散った作業着を着ているから美術学科の学生だろうか。

 長い髪を一つに束ねて背中に流している。短く切り揃った前髪の下の、すっと切れ長な目元は涼やかな印象を与えるが、その奥には怒りが燃えている。

 ソンジェはその火花のような剣幕に一瞬息を飲んだが改めて自分の有り様を一瞥する。

 なんとも酷い。


「失礼だが、僕のこの風体ふうていを見てもらえたら、なじられるいわれは無いと思うのだが」


 首筋から垂れたつゆが、背中をつーーーー、と伝い落ちて腰まで濡れていくのがわかる。濡れた服が張り付いて気持ちが悪い。ソンジェは言い返しながら頭のうどんを何本か払い落とし、前髪から頬へと滴り落ちる出汁を拭った。

「あんたのせいでしょ!もう今月のお金ないのに・・・」

目の前の女性は本気でうどんを残念がっているようで、今にも床に散らばった麺をかき集め始めそうな、悲しげな面持ちだ。

 しかしソンジェはソンジェで、奇妙なイレギュラーに心乱されていた。不運にも、今日のソンジェには頭からかぶるうどん、これを笑ってやり過ごす余裕が無かった。

「あなたは僕のせいだと主張しているが、どうしてかな。僕はこの席に座っていただけで頭からうどんをぶっかけられたわけですが。」

 我ながら慇懃な言い回しであるとは思う。ああでも肩にネギがついている。しまったな、稽古着だったらよかったな。今日は事務的サポートも兼ねていたからジャケットも着てきてしまった。しかもこれ、アメリカの友達が仕立ててくれたシルクのテーラードじゃないか。

「あんたが動かした椅子が!私のトレーにあたったの!それでお皿があんたの上にひっくり返ったんじゃないこのデカブツ!」

「で、デカブツ?」

クロンそうよ!そのでかい図体で、ひと一倍空間を占領してるじゃない!どっからどう見てもアンタが悪いでしょう。ほらさっさと冷やし掛けうどん注文してきてよね。私の時間を無駄にした詫びに、キツネもつけて!」


 随分と厚かましいじゃないかこいつは。ソンジェの眉間にシワが寄る。いつものソンジェだったらたとえ相手が悪くとも、このような些末な出来事には自分がへりくだることでトラブルを避けたはずだ。なんといっても相手は女性だ。母からは厳しくレディーファーストを仕込まれてきた。今日だっていつものように女性を立てて、たかが一杯のうどん、さっさと弁償して去ればよかったのだ。

 ところが今日は頭の中で火花が散り、胸の奥で今までに感じたことのないものが湧き上がった。心臓がいつもよりうるさい。これが憤怒なのだろうか。

「デカブツとは言い草だな。君こそトレーをしっかり持っていなかったんじゃないのか。あーあー、このジャケットはクリーニングに出さなければならないんだが、次に担当の者が取りに来るのは・・・1週間も先だ!まさか僕に嬉志駅前のクリーニング屋に駆け込めというのか!」

「クリーニング屋にも行ったことがないの?とんだ世間知らずね。どんだけぼんやり生きてきてるのかしら。シャッキリしなさいよ!さあ、さっさとわたしのうどん取りに行ってきて!」

 2人の言い争いは次第にヒートアップし口調も荒々しくなる。

 だんだん周りの生徒たちの視線が集まり始めた。キムリナ教授はぽかーんと口を開けて固まってしまっている。こんなに感情を剥き出しにするソンジェの姿など見たことがなかったのだ。

「きっ、きっ、君は随分と罵り文句が流暢に出るようだが、謝る語彙は身につけてこなかったのか!」

「ああ〜普段はいっくらでも出ますとも!でも時と場合を弁えていますから?今って謝る時でしたっけ?ああ、ちがうわ〜〜〜。今はあほなずぶ濡れのアジョッシおっさんが、さっさとうどんを弁償してくれるように教えて差し上げないと!」

ア、アジョッシお、おっさん!?こんっ・・・・の・・っ」

 ソンジェの顔が耳まで真っ赤になった時だった。


「はーいはい、そこまでにしよう!どうしたチョン・エリ?ああ、こぼしちゃったんだね。おっちゃーん!うどん一杯作ってくれる〜?きつね2枚乗っけて!特急で!悪いね!」

 突然、軽やかに現れた男は厨房に向かって叫んだ。そしておっちゃんが了解と親指を立てるのを確認して、ソンジェに向き直る。

「すみません、こいつ口がすげえ悪いんですよ。おまけに腹減ってると喧嘩っ早くて。でもどうしたんですか、特に理由も無く人にうどんぶっかける奴じゃないんですけど」

 男はエリの前に立ち、ソンジェを真っ向から見据える。

「え?・・・あ、ああ・・・」

 突然現れた第三者に現実に引き戻されたソンジェは、氷水でも浴びたかのように、一気に我に返った。

 ・・・一体何を熱くなっていたのだ俺は。


「チョンエリッシ、猛犬じゃないんだから誰彼構わず噛みつくんじゃないの!」

 男はチョンエリを小突き、諫める。そんな様子が他人事のようにソンジェの目の前を流れていく。

 ここ最近、こんなに激しく気持ちを乱高下させたことなどあっただろうか。その落差で頭がぼうっとする。

 

「いや、・・・すまない」

 ソンジェは誰にともなく謝罪を口にした。目の奥が痛い。眉間を指で押さえ、頭を振ると、うどんがまた数本、ぺしょ、と落ちた。

 ここでソンジェは、急いで何か探しにいかなければならなかった事に思い至る。

 そうだ、やりあっている場合ではなかった。


「こちらが全面的に悪いんだ。悪いが食事代はこれで」

スッと、ソンジェは紙幣をテーブルに置いた。

「何を言っているの!?あんたが悪いんでしょ!・・・って、え?えぇ?」

 にっくき『うどんの敵』の態度がいきなりしおらしくなり、チョン・エリは動揺する。

「いえ、エリがご迷惑をお掛けしました、僕はデザイン学科のカン・ミンギュです。衣服の弁償など、問題があったらここにご連絡を・・・」

 ミンギュは前に出てこようとする猛犬エリを自分の後ろに押し遣り、礼儀正しく名乗った。できる男だ。しかしソンジュの視界はミンギュを捉えていない。差し出された名刺を受け取ることなく、魂を抜かれたかのようにふらっと、椅子から離れた。

「すまないが行かなければならないんだ。君、申し訳なかった。教授、ではまた。」


 短く告げたソンジュはまるで幽霊のようにふらふらと、二食を出て行った。

 肩にネギを乗せたまま。






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