1 第一章 掃き溜めに鶴、大芸にソンジェ
大阪から来るのなら、環状線でも御道筋線でもお好きな方で阿辺野駅まで来ればいい。金鉄電車に乗り換えて川内長野行きに乗り、近鉄嬉志駅を降りたら学生の波に飲まれよう。この駅で降りるのは大半が大芸生だから、より大勢が流れる方へと混じっていけば自動的にバス乗り場に到着。そのまま待っていれば大芸行きの専用バス、通称芸バスに乗れる。
のどかな田んぼの中を揺られること10分、こんもりとしげる桜の山の下、広々と開けたロータリーに着く。桜色の山の合間からは白い建物の角がちらほらと姿を見せている。手前が管理棟、横が図書館、美術館、建築学科棟・・・と、広大な土地に23号館まで立つ芸大の大校舎群だ。
なんの嫌がらせか、学生用の芸バスは山をのぼる坂を上までは行ってくれず、坂下で止まる。
他の学生たちが降りるのと同時にソンジェも吐き出される。タラップを降りて視線を上げるとまあ見事な桜並木だ。
春は桜色のアーケード、それが散るとみずみずしい萌黄が顔を覗かせ、瞬く間に青々と繁っていく。
靴の先にきらきら揺れる木漏れ日をひとつひとつ踏みながら、やや前傾姿勢になって校舎に向かって登る。
息が少し、上がる。みんなが口を揃えて億劫だと文句を垂れるこの坂だが、ソンジェは嫌いではなかった。
ここは
近隣住人からは芸大と呼ばれる事もあるが、数ある芸術大学のなかで『芸大』というと、上野にある、国立の日本の芸術大学最高峰、東京芸大を指す。大咲の芸術大学は片田舎の私大である。
ソンジェは大咲芸術大学の舞台芸術学科大学院に通う院生だ。大咲芸大は広く安い土地にものを言わせた広大な敷地に、ありとあらゆる学科を詰め込んでいる。美術、工芸、デザイン、建築、情報、映像、写真、音楽、舞台芸術。これらが更に細分化される。工芸だったら、金属工芸、染色、陶芸、木工。美術だったら具象画、抽象画、立体・日本画、芸術計画、版画、と言った具合だ。
芸大生は見た目で何学科か判別がつく場合が多い。音楽学科の楽器を専攻する学生は清潔な衣服で楽器を抱えているし、デザイン学科はメガネまで洒落ている。油画の学生は汚れたツナギでバスに乗っていたり、頭に絵具がついていたり。わかりやすく表現すると、小汚いというやつだ。
舞台芸術の学生は見た目どころか歩き方まで違ったりする。みなそれぞれ個性的という点においてはずば抜けている、というか世間からずれているというか。
その波いる個性の中でも、ソンジェは容姿が際立っていた。きらりと人の目を引いた。混み合うバスの中で肩が当たるとソンジェは「失礼」と会釈をする。それだけなのに。
伏せられた、ピンと真っ直ぐのまつげ。綺麗な鼻梁の下に続く薄い唇から紡がれる、同学年の男子よりも低く、静かに響く、落ち着いた声。俯く首筋は存外に太く男性的で、そこに綺麗に切りそろえられた襟足が見える。
そんな一瞬一瞬がまるで切り取られた映画のワンシーンのように、まぶたに焼きつく。
吊革を掴む長い指から、骨張った手首への完璧な造形に気付いてしまうと、心臓が跳ねる。老若男女を問わず、人はソンジェの佇まいに惹かれてしまうのであった。
ソンジェは悩みなどない人生を送ってきた。
幼い頃から学業で困ったことはなかったし習い事もピアノ、水泳、ジャズダンス、華道。どれもそれなりに楽しかった。学生時代は人望も厚く、友人にも恵まれた。実家は東京に居を構える財閥だから金に困るなど想像だにした事もない。
背も高い方だし顔だって悪くない方だ。しかしながらそれを鼻にかける事もなく穏やかで比較的常識的な人格に成長したな俺。と思っている。
ただひとつ誤算があったとすれば、中学生の頃、母に連れられて見に行った小さな舞台だろうか。地下の薄暗いマイナー劇場だったけれど初めて見た役者の熱をソンジェは真っ向から浴びた。その鮮烈さに目が眩んだまま、舞台裏で『エンシュツカ』と話した。
エンシュツカはイ・スギョンと名乗り、いつでも遊びに来るといいと言ってソンジェの髪をやさしくなでた。その時から、自分もあそこに立ってみたいなという想いにポッと火が灯った。
もちろん役者になるだなんて、一族が許す筈がなかった。
ソンジェはたくさんの習い事をしてきたし舞台もコンサートもスポーツも自由にしていたけれど、それはあくまでも教養を身に付けるためのものであり、その道を極める未来は許されていなかったのだ。
ある日、あの売れない役者たちを率いていた『エンシュツカ』イ・スギョンがテレビドラマの脚本を書いて有名になり、大学で舞台芸術の授業をするようになっていたことを知る。
ソンジェは唯一理解を示してくれていた母に、懇願する。
いや、あれは懇願ではなかった。切な思いをひた隠しにした、交渉だった。
あくまで趣味なんだと。
経済学の学位は先に取得する。アメリカにもきちんと留学する。
でもその後、4年間の猶予が欲しいんだと。4年間自分の好きな先生のもとで、あくまで趣味として、舞台芸術を楽しむ。
「そんな時期が人生にあったっていいじゃないかって思うんだよ。だって先生、もう歳だし、死んじゃってからじゃ遅いだろう? もちろん家業も少しは手伝い始めるさ。アボジの後を継いでいく準備だってして行かなきゃね?」
と、ソンジェはかわいく母にねだってみせたのだった。
そうやって得た束の間の自由だった。アメリカで経済学修士を取得したあと、エンシュツカが特別講師として招かれていた大咲芸術大学に入学した。23歳の時だった。ソンジェがやっと、自分がしたいことに、自由に打ち込んでいける日々の始まりを芸坂の木漏れ日は祝福した。期限付きでは、あったけれど。
「おい、ソンジェ!」
「んあ?」
「んあじゃねえよ。おまえまたファン増やしやがって・・・この狭いバスのなかに!お前に向かって投げられる!ハートビームが!ああっ、うざい!」
ソンジェの横で吊革に体重を預けていたテヒョンは体を起こすと、心底嫌そうな顔で片手をパタパタ振り動かし、しっしっと見えもしないハートを払う。まったく。この男ときたら無駄にファンを増やすのだ。しかも本人は普通に礼儀正しく過ごしているだけなので責めようもないからたちが悪い。
テヒョンは、俺だって見た目悪くないだろうになんでこいつばっか、と心の中で毒づく。友は辛い。
「そんなもの見えないよ。テヒョン、君は一体いつも何と戦っているんだ。」
「知るかい!そんなのわかってたら苦労せんわ!あーーー、鬱陶しい。そういえばお前さ、美術学科が舞芸の演出と大道具で共同制作するの聞いた?」
「ああ、イ・スギョン先生が実験的に取り組むって」
「絶対大変だよなー。学生の手を早く動かさせる練習にはなるだろうけど」
テヒョンは美術学科の油画で副手をしている。ソンジェとは同い年なので、学生よりも少し年上のオッパ同士、仲良くなったのだ。
「クライアントの要望に応えていく練習もしていくっていう狙いとは聞いているが、就活も卒制もあるのに、忙しくなるな。」
「学生の担う部分が、あまり大きくないことを祈るよ・・・。」
ガタガタと舗装の行き届いていない道を揺られながら、ソンジェは窓の外を眺める。
入学してから5年間、ソンジェはずっと車で通学していた。
アメリカでもずっと車だったし、帰国してからもお気に入りのBMWほにゃほにゃで通っていた。
ところが最近、テヒョンのバイクが壊れてしまった。
突然、望まぬバス通学になってしまったテヒョンはソンジェを「バスにも乗ったことがない⁉︎お前バス童貞なんだ‼︎かっわいー!」とからかい、焚きつけ、まんまとバス通学の道連れにしてしまったのだった。
ソンジェだって『バス童貞』とまで言われたら、乗らないわけにはいかない。
おかげでBMWもガレージの中ですっかり暇している。
しかしながらこの芸バスで揺られていると日頃接点のない他学科の学生の会話や仕草がよく見えて面白いな、とも思っている。
ソンジェは4年間の学部生活を終えた後、引退間近の先生を支えるからと家には事後報告し、無理やり大学院に進んだ。
残り一年。この一年が、ソンジェに残された最後の自由。
テヒョンは世間を見せてくれる貴重な友人だ。「このソンジェという奴は、俺がいなかったら、バスで通うことを思いつきもしなかったトンチキなんだぜ」と周りに言って回るのには閉口するが。
ふうっとソンジェは肩をすくめ、ため息をついた。
その横で、おまえそのため息だけで斜め後ろの女子の膝が砕けてるぞ?と、隣でテヒョンは呆れる。こいつは何もわかっちゃあいない。28年間バス童貞守ってたってだけでも面白すぎるのに日頃の言動が妙にじじくさくて笑えるのだ。こんなにモテるのに遊び散らかしたりしないでたまに来る演出家のじじいのケツを夢中で追い掛けてやがる。
テヒョンもソンジェに惹きつけられた1人なのに本人にその自覚はまったく無い。
プシュー・・・ ドアが開き、学生がおのおの立ち上がり始める。
ソンジェとテヒョンもドアの方に体を向ける。
すると、おや。
ドアの前に白い壁ができていて降りられない。
ああ、壁ではないな、絵を描くためのキャンバスか。でかいな。
「すみません、降りたいのですが・・・だいじょうぶですか?」
ソンジェは声をかける。すると食い気味にキャンバスが返事する。
「ごめん!その左上が吊革に引っかかってるの!外してくんない?」
「ああ、ここか・・・」
「そっと外してね!」
ソンジェは手を伸ばし引っ掛かりを外す。
「外れましたよ。」
「
自由になったキャンバスは短く礼を言うと、芸坂を駆け上がって行った。
「美術の子かな、大きな荷物で大変だ。」
「おまえ今の子の顔見なかったのか?可愛かったな〜!でもこんな狭いバスにあんなでかいもの載せて、可愛くなかったら文句の一つも言うところだ」
どういう判断基準だ。
「いいだろう別に、芸大のバスなんだから。」
はじめてキャンバスというものに触ったな、ざらっとしてて、結構ひんやりしてた。
うん、こういう小さな新しい経験は悪くないぞ。
ぼんやりとソンジェは白い四角を見送った。
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