序章 (2)

 黒い生地に包まれた腕の先から、尖った棒のような奇妙な金色の剣が伸び、スーリャ王子の眼前を横切った。


 キシャッ、キシャン!


 二枚の三日月型の小さな刃を紐で繋げた投擲とうてきが、刃のれる音を立てて、アシュタルテの剣先に絡みつく。



「ティン!」



 アシュタルテは背後に王子の悲痛な声を聞いた。投擲とうてきを首に巻き付けたままティンが崩れ落ちる。三日月刃が、首を半分切り裂いていた。


 王子を守ることを優先したため、ティンには声を掛けることしかできなかった。

 アシュタルテは剣を振り上げると、剣先に絡んだ投擲とうてきを頭上に飛ばした。


 ぎゃあ!


 暗闇から、短い槍を投げつつ兵士が降ってくる。その左目から頬にかけて、投擲とうてきの刃が深く食い込んでいたが、残った右目は殺意を失っていない。


 アシュタルテは身体をひねって短槍をかわすと、槍の軌道をさかのぼるように右手の剣を突き上げた。


 細い剣の先端が兵士の眉間に突き刺さり、すぐに引き抜かれた。


 地面に突き立った槍には縄が結わえてあり、縄の端は落ちてきた兵士の手の中にあった。


 死体の手を踏んで開かせ縄を奪い取ると、アシュタルテはすぐさま暗闇に短槍を投げ込んだ。


 低い悲鳴が聞こえた。アシュタルテが縄を引くと、闇の中から胸に槍の突き立った別の兵士が引きずり出された。致命傷だが死んではいない。口から血の泡を溢れさせながらも、振り上げたその手から三日月刃の投擲とうてきが放たれた。


 投擲とうてきは王子を狙ったものかもしれないが、大きく逸れて行列の後方へ飛んだ。アシュタルテのいる場所からは遠い。



「ソー!」


「おう!」



  革の兵服の上に鎖帷子かたびらを重ねた大柄な男が、片刃の長剣『タルワール』を峰に返して投擲とうてきを叩き落とした。


 男が駆け寄ってくる。くっきりとした眉と鼻筋の通った高い鼻。口髭は切り揃えられていたが、そろそろ手入れが必要な頃だ。



「殺したか……」



 ソー・パヤヴィットは、アシュタルテがたおした兵士を見下ろして言った。腰だけの革の兵装に亜麻の上衣うわぎ。守護兵とは意匠が異なるが同じ兵装だ。



「彼らは死を恐れていなかった。殺さなければ止められない」



 アシュタルテの答えにソーがうなずく。内乱ゆえ敵も自国の兵士だったが、情けをかける余裕はなかった。


 奇襲のため兵を集める時間もなく、スーリャ王子の脱出に付き従うことができたのは王子直属の守護兵と侍女たちぐらい。その中でソー・パヤヴィットは唯一の将軍位だった。ほとんどの将軍は各部隊と共に国境防衛に展開しており、ソーだけがスーリャとの面談のために登城していたのだ。


 ソーはスーリャの幼少時から武術指南を務め、一番の側近であり友人でもあった。だからこそスーリャの庶兄のラチャイは、二人を共に亡き者とするため、この日を反乱の決行日に選んだのだろう。


 ソーはスーリャの横にひざまづいた。


 スーリャは、横たわった守護兵ティンの首の傷から溢れる血を、両手で必死に押さえこもうとしていた。睫毛まつげの長い美しい顔は、痛みに耐えるように歪んでいた。



「太子、もう……」



 侍女のマニーが王子の手を取り、自分の腰巻の裾で血をぬぐった。マニーの目には涙があった。ティンは連絡係として王子やその周辺の者と接する機会が多かった。



「わたしのせいだ……」



 スーリャの言葉に、ソーがため息をつく。



「ラチャイ王子の野心を知りながら、あなたは処分をためらった。一人を殺せなかったばかりに、何百人死ぬことやら……」


「将軍! 言い過ぎです!」



 マニーがソーの言葉をさえぎる。侍女とはいえ、マニーは家柄も高く武芸にも秀で、王子の護衛の一端を担っていた。


 ソーがスーリャの肩を抱いて立たせる。



「引き返しましょう。敵は前から来た。ガルアンの谷の出口は既に敵に押さえられている」


「国王から聞き出したか……」



 地下迷路の抜け方は複雑で簡単には伝えられない。だが、出口だけなら可能だ。

 スーリャはティンの遺体を一瞥し、首を振った。



「城を脱出する時にも大勢死なせてしまった。これ以上犠牲を出したくない。……わたしはアガルタへ向かう」


「アガルタ? 伝説では……?」


「伝説ではない。ラヴァの王家は元々アガルタから来たのだ」


「早く行け! 足音がする。一小隊はいそうだ」



 アシュタルテの声に、問いを重ねようとしたソーは我に返った。



「急ぎましょう!」



 行列を先導するため、その末尾に移動しようとしたソーとスーリャだが、すぐに足を止めて振り返った。


 アシュタルテは洞窟の真ん中にたたずみ、背を向けたままだ。



「わたしはここに残る」


「わたしを見捨てるのか……!」



 小さく叫んで、それ以上言葉にならないスーリャに代わってソーが言った。



「太子のそばにいろ。それがおまえの役目だ」


「わかっている。だが、このままでは迷路に逃げ込む前に追いつかれる」


「では、おれが残る。太子を守って先に行け」


「おまえが残っても無駄だ」


「なんだと?」



 ソーの顔が強張る。アシュタルテがようやく振り返った。



「追手が百人だとしよう。わたしなら、ここで九十人殺せる。逃した十人が行列に追いついても、おまえと守護兵が何とかするだろう。だが、おまえがここに残っても、せいぜい十人倒してから殺される。わたしは残った九十人とスーリャのそばで戦うはめになる」


「ばかにするな! 二十人は倒せる!」



 憮然とした表情のソーだが、目は笑っていた。



「ダイクがいれば別の方法も考えられたが、今はこれしかない」



 ダイクは王城で最も強いと言われた守護兵だったが、最近ピマーガの国境警備に異動させられた。国境が不穏なためだったが、今考えれば反乱の根回しの一つだったのだ。



「すまない、アシュタルテ。おまえが契約を破るはずがないのに……」



 スーリャが頭を下げる。



「後で追いつく」



 アシュタルテは前を向いた。


 コォォォォオオーー……。


 奇妙な高い音が洞窟に鳴り響いた。小さい音だが、決して聞き逃すことのできない音色をしていた。


 侍女たちが不安にざわついている。


「案ずるな、あれは水蛟みずちの鳴き声だ! 地底の川に水蛟みずちが来ている。きっとアガルタへの道を指し示してくれよう!」


 行列の人々に聞こえるよう、スーリャは声を張り上げた。

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