序章 (2)
黒い生地に包まれた腕の先から、尖った棒のような奇妙な金色の剣が伸び、スーリャ王子の眼前を横切った。
キシャッ、キシャン!
二枚の三日月型の小さな刃を紐で繋げた
「ティン!」
アシュタルテは背後に王子の悲痛な声を聞いた。
王子を守ることを優先したため、ティンには声を掛けることしかできなかった。
アシュタルテは剣を振り上げると、剣先に絡んだ
ぎゃあ!
暗闇から、短い槍を投げつつ兵士が降ってくる。その左目から頬にかけて、
アシュタルテは身体を
細い剣の先端が兵士の眉間に突き刺さり、すぐに引き抜かれた。
地面に突き立った槍には縄が結わえてあり、縄の端は落ちてきた兵士の手の中にあった。
死体の手を踏んで開かせ縄を奪い取ると、アシュタルテはすぐさま暗闇に短槍を投げ込んだ。
低い悲鳴が聞こえた。アシュタルテが縄を引くと、闇の中から胸に槍の突き立った別の兵士が引きずり出された。致命傷だが死んではいない。口から血の泡を溢れさせながらも、振り上げたその手から三日月刃の
「ソー!」
「おう!」
革の兵服の上に鎖
男が駆け寄ってくる。くっきりとした眉と鼻筋の通った高い鼻。口髭は切り揃えられていたが、そろそろ手入れが必要な頃だ。
「殺したか……」
ソー・パヤヴィットは、アシュタルテが
「彼らは死を恐れていなかった。殺さなければ止められない」
アシュタルテの答えにソーが
奇襲のため兵を集める時間もなく、スーリャ王子の脱出に付き従うことができたのは王子直属の守護兵と侍女たちぐらい。その中でソー・パヤヴィットは唯一の将軍位だった。ほとんどの将軍は各部隊と共に国境防衛に展開しており、ソーだけがスーリャとの面談のために登城していたのだ。
ソーはスーリャの幼少時から武術指南を務め、一番の側近であり友人でもあった。だからこそスーリャの庶兄のラチャイは、二人を共に亡き者とするため、この日を反乱の決行日に選んだのだろう。
ソーはスーリャの横に
スーリャは、横たわった守護兵ティンの首の傷から溢れる血を、両手で必死に押さえこもうとしていた。
「太子、もう……」
侍女のマニーが王子の手を取り、自分の腰巻の裾で血を
「わたしのせいだ……」
スーリャの言葉に、ソーがため息をつく。
「ラチャイ王子の野心を知りながら、あなたは処分をためらった。一人を殺せなかったばかりに、何百人死ぬことやら……」
「将軍! 言い過ぎです!」
マニーがソーの言葉を
ソーがスーリャの肩を抱いて立たせる。
「引き返しましょう。敵は前から来た。ガルアンの谷の出口は既に敵に押さえられている」
「国王から聞き出したか……」
地下迷路の抜け方は複雑で簡単には伝えられない。だが、出口だけなら可能だ。
スーリャはティンの遺体を一瞥し、首を振った。
「城を脱出する時にも大勢死なせてしまった。これ以上犠牲を出したくない。……わたしはアガルタへ向かう」
「アガルタ? 伝説では……?」
「伝説ではない。ラヴァの王家は元々アガルタから来たのだ」
「早く行け! 足音がする。一小隊はいそうだ」
アシュタルテの声に、問いを重ねようとしたソーは我に返った。
「急ぎましょう!」
行列を先導するため、その末尾に移動しようとしたソーとスーリャだが、すぐに足を止めて振り返った。
アシュタルテは洞窟の真ん中に
「わたしはここに残る」
「わたしを見捨てるのか……!」
小さく叫んで、それ以上言葉にならないスーリャに代わってソーが言った。
「太子のそばにいろ。それがおまえの役目だ」
「わかっている。だが、このままでは迷路に逃げ込む前に追いつかれる」
「では、おれが残る。太子を守って先に行け」
「おまえが残っても無駄だ」
「なんだと?」
ソーの顔が強張る。アシュタルテがようやく振り返った。
「追手が百人だとしよう。わたしなら、ここで九十人殺せる。逃した十人が行列に追いついても、おまえと守護兵が何とかするだろう。だが、おまえがここに残っても、せいぜい十人倒してから殺される。わたしは残った九十人とスーリャのそばで戦うはめになる」
「ばかにするな! 二十人は倒せる!」
憮然とした表情のソーだが、目は笑っていた。
「ダイクがいれば別の方法も考えられたが、今はこれしかない」
ダイクは王城で最も強いと言われた守護兵だったが、最近ピマーガの国境警備に異動させられた。国境が不穏なためだったが、今考えれば反乱の根回しの一つだったのだ。
「すまない、アシュタルテ。おまえが契約を破るはずがないのに……」
スーリャが頭を下げる。
「後で追いつく」
アシュタルテは前を向いた。
コォォォォオオーー……。
奇妙な高い音が洞窟に鳴り響いた。小さい音だが、決して聞き逃すことのできない音色をしていた。
侍女たちが不安にざわついている。
「案ずるな、あれは
行列の人々に聞こえるよう、スーリャは声を張り上げた。
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