1、疫病 (3)

 半月が出ている。


 トゥーイ達の住むチョンプーの村は、彪蝋ヒャウラ国一の高山カラカボの西の麓にあった。


 トゥーイはカラカボ山の裾野の森を足早に抜け、それから山道に入った。


 歩き始めは月明かりがあったので松明たいまつは使わなかったが、すぐに木々の枝が頭上に覆い重なり暗くなったので、背負い袋から松明たいまつと火打袋を出した。


 火打金で火打石を打ち、火口ほくちに火花を飛ばす。緋色の種火がいた火口ほくちに付け木をあてると、小さな炎が上がった。それを松明たいまつに移す。フタバガキの樹液が浸み込んだ松明たいまつは、すぐに燃えた。


 夜に山に入るのは初めてではない。父に連れられ、夜行性の麝香じゃこう猫の狩りに何度か行ったことがある。


 麝香じゃこう猫の肉は不味まずく、皮も安値でしか売れなかったが、麝香じゃこう腺という性器のそばの器官を切り取ったものが高く売れた。首都の多扶蝋タプラから時折やってくる商人が買っていくのだ。


 香水に使うらしいが、生々しい糞の臭いのするそれが、どうして香水になるのかはわからなかった。乾燥しすぎると値が下がるので、その商人が来る時期を見計らって狩りをしていた。


 山奥まで獲物を追い、野営になることもあった。無口な父だったが、野営で火を囲んだ時だけは、ぼつぼつと話をしてくれた。ほとんどが猟に関する話だったが。


 夜の山は怖い。一人で入ると特に怖い。だがそう思っていると、ますます怖くなってしまう。怖ければ何も考えずに、ただ「警戒」する。父からそう教わった。


 しばらく羊歯しだの多い山道を進むと、水音が聞こえた。


 この先に川があるのだ。カラカボ山の頂には火口に雨水の貯まったクプトゥ湖があり、そこから溢れた水がチョンプーまで流れている。


 やがて谷川が現れた。


 苔の張り付いた岩の谷はさほど深くはないが、水量は多く、歩いて渡るのは難しい。夕方には必ず雨が降るので、夜の水量は特に多い。水音は轟轟ごうごうと激しかった。


 だが、村からまだ遠くないこの場所には橋が架かっている。ラタンかずらを編み繋げた吊り橋は、一人分の横幅しかない。


 トゥーイは左右の吊縄をつかんで片足だけグッと踏み出し、吊り橋を揺らして強度を確かめた。それから橋を渡り始める。


 何度も使ったことのある橋なので不安はないが、気を抜くことはできない。床板はまばらで隙間が大きく、足を滑らせればそのまま川に落ちてしまうだろう。


 橋の半ばに来た時、水音に重なって、奇妙な高い音が聞こえた。


 コォォォォオオーー。


 水音は耳をろうするほどなのに、その音は易々と耳に届いた。



(鳥?)



 だが、こんな鳥の鳴き声は聞いたことがない。


 目を落とすと、川面に何かいた。飛沫を飛ばす濁流の波間に、何かがうねっている。



(大きい……!)



 人の体ほどの太い胴体なのに、ウナギのように細長い。巨体をくねらせて、川を下っていく。


 月に照らされ、その生き物は半ば白く、半ば透明に光って見えた。月桃げっとうに似た、冷たく甘辛いような匂いがスーッと鼻に抜けた。



「あれが、水蛟みずち……!」



 山頂のクプトゥ湖に棲むと言われる水蛟みずちのことは、父から聞いたことがあった。父でさえ、一度しか見たことがないと言っていた。その時聞いた姿と、よく似ている。


 トゥーイは吊り橋の上で弓を構えた。



(呪いは水蛟みずちのせいだ! あいつさえいなければ……!)



 放たれた矢は、中途半端な手ごたえで白い巨体に刺さった。


 水蛟みずちの鳴き声が止む。それだけだ。


 突き刺さった矢は吸い込まれるように、水蛟みずちの体の中に沈んで行った。はっきり見えないが、おそらく血も出ていない。


 村にはびこる疫病が、なぜ〈水蛟みずちの呪い〉と呼ばれるのか。トゥーイはその理由を知らない。皆がそう呼んでいるから、自分もそう呼んでいるだけだ。


 あの巨体を弓で殺せる気がしないし、殺して兄の呪いが消えるとも思えなかった。白く透けた水蛟みずちは美しいような、おぞましいような姿で、トゥーイは思わず射ってしまったことを後悔した。



水蛟みずちは神様の使いだと、父は言っていたのに……)



 トゥーイは橋の上から、下っていく水蛟みずちを見送った。



(どこへ行くのだろう?)



 川はこの先枝分かれして、チョンプーの村やガルアンの谷に流れて行く。

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