第一章 熱帯

1、疫病 (1)

 十四歳のトゥーイは小柄な少女だった。


 浅黒い肌は、熱帯に位置するこの地域では普通の色だ。狩りの邪魔にならないよう首元で切った濃い焦げ茶色の髪も、この地では珍しくない。膝丈の紫色の腰布を幅広の腰帯で留め、上衣うわぎはチョンプーの村の女特有の、濃紫の生地に白の刺繍ししゅうが入ったものを着ていた。


 トゥーイは『クリス』と呼ばれるやや波打った短刀を鞘ごと腰帯に差し、猟の時に使うぼろぼろの背負い袋を肩に掛けた。茶色い豚革の背負い袋には口の所に革紐が通してあり、絞って伸びた紐を背や肩に掛けられるようになっている。


 袋の中には、水牛の角の薬入れ、フタバガキの樹液を浸み込ませた携帯用の松明たいまつの束、火打袋、などが入っていた。火打袋には火打石と火打金、油紙で包んだ火口ほくち(乾燥したチガヤの葉を砕いたもの)が入っている。


 薬入れには怪我の時に使うチドメグサが数枚入っていた。いつもは痛み止めの薬も常備しているが、今はない。だから、採りに行くのだ。



「姉ちゃ、人虎じんこが出るよ」



 弟のノイが、不安そうにトゥーイを見上げる。ノイはまだ五歳。歳の離れた末っ子を両親が大事に育てたせいか、おとなしくて気弱なところがある。美しかった母に似て、顔立ちが可愛らしい。トゥーイは母の美貌を受け継がず、目立たない顔に父譲りの鼻と口元が頑固そうだった。



「大丈夫、もし出たら姉ちゃがやっつけてやるよ」



 そう言って、トゥーイは小屋の壁のあしの隙間に隠した弓を手に取った。同じように隠しておいた細い矢筒を肩に掛ける。


 弓が必要なるとは思わなかったが、念のためだ。


 この何年か、人食い虎に襲われる村人が増えた。それを大人が子供をしつけるのに利用し、「人虎じんこが出る」と言うのだ。子供には、おとぎ話の人虎じんこの方が人食い虎より怖いらしい。



「トゥーイ……」



 土間にむしろを敷いただけの粗末な寝床に横たわった兄のコティが、かすれた声で呼んだ。三つ年上の兄は、がっちりした顎と口元に目と鼻は丸くて、性格そのものの真面目で優しそうな顔をしている。


 トゥーイは兄の枕元に膝を着き、竹にあしを一本繋いだ簡素な「吸い飲み」を口元に近づけた。


 兄がそうしたい、と察したわけではなく、何かせずにはいられなかっただけだ。


 コティは水を飲み、一息つくと、何か言いたげに唇を動かした。耳を寄せると、


「……おれを置いていけ。このままここにいたら、おまえとノイまで呪いにかかっちまう。おまえは狩りが上手だ。おまえなら山に逃げても生きていける。ノイを連れて行け……」



(このままコティを見捨てて、ノイと逃げれば……)



 何度も思ったことだ。兄はもう助からない。チョンプーの村人の多くが〈水蛟みずちの呪い〉にかかったが、治った人の話は聞いたことがない。



「……おれはこの村が好きだった。山で獣に食われるより、ここで死んだ方がマシだ」



 兄の言葉に、かえって心が引き戻される。


 コティは年齢以上に体が大きく、猟に行く父に代わって家の田畑で働いた。父はコティが猟師に不向きと思ったのか、かなり早い時期からトゥーイだけを猟に伴った。


 代々半農半猟のトゥーイの家は田畑が狭い。田畑の収穫だけでは暮らしていけないため、猟で捕まえた野豚や鴨などを売って、何とか暮らしが成り立った。田畑を守る者と猟に行く者、両方が必要だった。


 コティが内心は猟に行きたかったことを、トゥーイは知っていた。トゥーイを羨ましく思っていたことを。だが、兄は何も言わなかった。



(置いていけるわけないよ……)



 横たわったコティの両足と両手は、呪いのしるしである青黒い六角形の模様に覆われていた。蜜蜂の巣穴のような形に肉の線が浮き上がり、線の内側が変色している。指先や足先に近づくほど変色は濃く、先端では石のように固まって表面が少し光っていた。


 足先や手先から始まった変質は徐々に胴体へと進み、やがて痛みに耐えられなくなるか、内臓が侵されて死ぬのだ。


 家を出る直前の母は、薬を飲んでも痛みを抑えきれなくなっていた。


 母はどうなっただろう?



(きっと、もう生きてはいない)



 兄の痛みは、まだ痛み止めで抑えられる。早く薬を補充しなければ。

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