第15話 先輩、わかりません
一人きりの夜の書庫で、オレはそびえる書棚とタイマンを張っていました。
どっしりと構える巨大な影。これに臆することなく立ち向かえれば、何かが変わる――なんてこと、ないですかね? やっぱりムリですかね。
書棚の陰にたたずむ天使の幻影は、今も鮮明に思い描けます。
もしもこの棚から本が降ってきたら、オレは身を挺してかばうのに。形のないものからは、どうやって守れば良いのでしょう……。
何の答えも見えないまま、ため息ばかりが出てきます。薄暗い書庫の中は、心なしか湿度が上がってきたような。
湿気は本の大敵です。こんな時には書庫の守護天使様が颯爽と現れて、霧を払ってくださったらなあ――なんて甘い妄想も、たまにはしてみるものですね。
気配に入り口を振り向くと、そこに望んだとおりの人物がいらっしゃったのです。
え? 『たまに』じゃない? まあ、それはひとまず置いておいて。
オレは今日、エイミリア先輩にお会いしたら絶対に言おうと決めていた言葉がありました。
予定外のシチュエーションにもかかわらず、繰り返し脳内再生していたそれは、反射的に口をついて出ていました。
「えっ、あっ、おかえりなさい!」
「え? ああ……」
先輩はちょっと驚かれたようですが、それからふわりと微笑んで、
「ただいま」
はうぅっ! このためにオレの一日があったといっても過言ではありません!
今日は、説明会の第一弾出張組が帰ってくる日だったんです。本当は、みなさんが機材の積み下ろしをしているところへ颯爽と現れて「いやあ、今日はたまたま遅くまで残ってたんですよー」的な雰囲気を
さっきのセリフも、そこで登場するはずだったんです。ああ、痛恨のミス!
「もしかして、もう片付け終わっちゃいました?」
「あ、うん。一応。……え? もしかして……」
「えっ!? あ、いや……っ」
そっか、今の言い方だと、そのために待ってました感丸出しですよね? ああ、どうしよう。いえ、たまたまですよハハハハハ、みたいな?
でも先輩も、はっきりそうとお聞きになったわけじゃないし。それ言うと自意識過剰的なやつになっちゃいますよね? えっと、じゃあ……。
えい、もう、誤魔化すしかない!
「それであの……、先輩は? まだ、お仕事ですか?」
「あ、ううん。書庫の電気が点いてるの、外から見えたから。もしかしてと思って……あ」
先輩はそこで急に黙り込んでしまわれました。
もしかして……? もしかして消し忘れかもしれないと思って、わざわざ確認に来てくださったのでしょうか。ああ、天使!
「えと……、探してる本あるなら、良かったら手伝うよ?」
あ、そのへんの詳細設定は、何も考えてなかったです! しかもココ、またしても幻惑魔術のコーナーでした。
ああ先輩、オレは貴女に惑わされっぱなしです。
結局、上手い言い訳は出てこなくて。出張から戻られたばかりの先輩を、夜遅くにこれ以上お引止めするわけにもいかず。微妙な空気のまま、それぞれの日常へ帰ることになりました。
ところが翌日になると、職場には不穏なウワサがたち込めていたのです。
その日は出張組が持ち帰ったお菓子と話に引き寄せられたのか、昼休みの休憩室は普段の倍以上の人口密度でした(まあ、オレもその一人ですけど)。
「えーっ! 出張先でそういうことするってどうなの!? 仕事でしょ?」
「ホント、何しに行ってるのって感じ」
土産のお菓子はすぐになくなったけれど、土産話は何番煎じでも美味しいようで。朝からチラホラと耳にしていた話が、ここでもまた繰り返されています。
特にQ小隊は今回の出張に含まれていなかったので、カーリア先輩らは出張メンバーを見かけるたびに引き込んで、詳細な情報を求めています。
そうしていつの間にか休憩室には、出張メンバーのうち4人が集合し、他大勢に囲まれて報告会となっていました。
正式な報告会は、後日ちゃんと部隊ミーティングで設けられるらしいんですけど。お察しの通り、本日の主題はそういう場では出せないような内容です。結局みんなが食いつくのって、こういう話題なんですよね。
「え、ナニナニ? 何の話っすか? あ、カルロス先輩? あの人、説明会のときなんかやらかしたんすよね?」
遅れてやってきたファーガウスが話を掘り返すと、
「うん、カルロスさんが、出張先の学校でナンパしてたってハナシ」
「えぇー、ナンパどころじゃあ、なぁいですよぉー」
思わせぶりに語尾を絞る、アリアンナ先輩。さっきアイリーン先輩が話している途中での参入だったので、効果的な発言タイミングを計っていたようです。
そしてじゅうぶんに注目を集めたところで一言、
「お持ち帰りしちゃった、って……」
「え、どゆこと!?」
「そこの学生さん、宿泊先に連れ込んでたんだって」
なおも勿体をつけるアリアンナ先輩に構わず、代わりにさっさと答えたのはアンセラ先輩でした。今朝F小隊で話していた時はそんなこと言っていなかったけれど、何かしら情報をつかんでいたのでしょう。
「え!? ウソ、それはあたしも聞いてない! それヤバくない?」
「トーリスくん、何か知ってんじゃないの?」
カストロス先輩とよくつるんでいるトーリス先輩に、カーリア先輩が訊ねます。
「いやあー、俺、宿が別だったし、あの後どうなったかまでは、知らないんっすよね」
まあ、トーリス先輩は知っていたら黙っていられない性格だと思うので、これはたぶん事実でしょう。ていうか『あの後』ってことは、やっぱり関与していたんですね。
「なあんだ。オレてっきり、ミリア先輩となんかあったのかと思ってたすよー」
まるでそれを期待していたかのような、ファーガウスの口ぶりです。
「だってあの二人が一緒に出張とか、絶対なんか起きそうじゃないすか」
「いや、学生相手だったらそっちのほうが問題でしょ」
まあ、オレ的にはエイミリア先輩相手のほうが大問題ですけど。
「えー、でもあの二人って、何かありそうじゃないすか?」
そういえばファーガウス、最初からそんなこと言ってましたね。一度思い込んだら、何でもあやしく見えてしまうというか。第一印象というのは、変えにくいものらしいです。
でも実際、エイミリア先輩とカストロス先輩に関しては、謎めいていることもあってか度々ウワサに上がるんです。どちらかといえば
人のウワサも……あれ、何日でしたっけ?
そんなウワサの賞味期限なんてとっくに通り越しているのか、エイミリア先輩と同期で付き合いの長いアイリーン先輩とカーリア先輩は、もう慣れた様子です。
「いや、あそこはなんていうか、もはや何も起きないでしょ」
「なんか、じゃれ合ってる感じだよねー。カルロスさん去年までずっとK小隊で、エイミと一緒だったじゃん?」
「それにあの二人、出身校も一緒だしね」
「え、そうだったんですか?」
「時期は被ってないけどね。それもあってか、なんか1年目の頃からよく絡んでるよね」
「えー、それますますアヤシイじゃないすか!」
「いやあ、俺もそう思うんっすよね。エイミィさんって、なんだかんだでカルロスさんには甘くないっすか? 俺、羨ましいっす!」
なおも食い下がるファーガウスに、トーリス先輩まで同調します。親カルロス派だからか、あるいは単にそのほうが面白いとか思っているのか。
ところでこういう、先輩とか後輩とか入り乱れてるときって、敬語との切り替え難しくありません? 先輩に話していたら、途中で割り込んできた同期にまで敬語使いそうになったりとか。
まあ、オレは基本聞き専なんですけどね。
「でもカストロス先輩って、けっこう女グセとか悪いんですよね? 前に部隊内でも問題起こしたって……」
以前もそんなことを言っていたハンナさんが、その情報源らしいカーリア先輩に向けて確認をとります。
「ああ、なんかね、チューターで受け持った魔道士が女の人だったんだけど、その人にセクハラで訴えられたらしいよ。うちらが入る前の話だけどさ」
「しかもその頃カルロスさん、新婚だったって」
「うっわ、何それ。サイテーじゃないですか!」
「え、カストロス先輩って、そういう人だったんですか? 全然知らなかった……」
「オレも。うわー、どんどんイメージ崩れてくわ」
いや、オレも、そこまでだとは。10年目くらいの大先輩だけど、よくご飯に連れて行ってくれたりとか、気さくで面倒見のいいお兄さんみたいに思っていました。まあ、ちょっと軽率な発言が多い感じはしてましたけど。
「一部では、けっこう有名だよ。事務の女の子とかにも声かけてるらしいし。……あ、その奥さんも、もともと任務中に関わった一般人とかじゃなかったっけ?」
「えっ、それって規則違反じゃないんですか?」
「でもあの人って、救助も治癒もわかりやすいくらい若い女の人優先だよね」
「まあ、救助は滅多にやってないけどね」
そう言って笑い合う先輩たち。次々と明かされるカストロス先輩の暴露話に、後輩たちの中ではイメージの崩壊が止まりません。
「でも奥さんって気強い感じの人らしいし、カルロスさんのタイプじゃないよね。ほら、あの人って大人しめの子が好きじゃん?」
「エイミィさんみたいな!?」
ここへきてオレはようやく、トーリス先輩の得意技がわかりました。『余計な発言』というやつですね。
「だから浮気くり返すんですかねえ? それでよく奥さんとケンカになるって言ってた。そんなんだったら結婚しなきゃよかったのに」
「前に本人から聞いたんですけど、全然そんなつもりなかったのに、子供出来たから仕方なくだった、って言ってましたよ」
「何それ、ヒドッ!」
「子供かわいそう」
「え? 待って。じゃあもしかして、そのセクハラのときって奥さん妊娠中ですか!?」
本人不在の中、盛大なブーイングが起こります。
「えーっ! ダメ! ミィ様にそんなヒト、絶対ダメえっ!」
必死に訴えるアリアンナ先輩ですが……その顔、面白がってません?
「そういえば、うちらが入隊した時、女の先輩に呼び出されて忠告されたんだよね、あの人には気を付けるようにって。あれって、シルヴィア先輩だっけ?」
「ああ、あったねぇ。まあミリアはあの性格だからさ、サラッと受け流しちゃってるけど」
「ですよねー。ていうかカルロスさんのほうが先輩なのに、ときどき『えっ?』って思うくらいキツイこと言ったりしません?」
「それくらい言っても、聞かないからじゃないですか」
トーリス先輩の言葉を、速攻で斬り捨てたのはアンセラ先輩でした。日頃の
それでもきょとんとしているトーリス先輩に、お姉さま方の冷たい視線が向けられます。ですよねー。
「トーリス、胸に手を当てて考えてごらん」
「えっ、俺? いやぁー、どの胸に当てましょう」
いや、そういうとこですから!
案の定、非難ごうごうです。
でも……。トーリス先輩はいつも、こうやって大勢の中でいじられているけど。
人の少ない書庫や昼休みの部屋で、カストロス先輩につきまとわれていたエイミリア先輩……。あれは「じゃれ合ってる」というのでしょうか。セクハラまがい、というよりたぶんアウトな言葉の数々、本当に「受け流している」のでしょうか。
もしかしたら、二人きりの時にはもっといろいろ言われているのかもしれない……そう考えると、オレは……。
でもオレに、何ができるのでしょう。結局答えは見つからないままです。
「でもさあ、あの人って、できないくせにけっこうオラオラなとこあるじゃん? そこに引っかかっちゃう女の子とかいるんだろうねぇー」
「いや、オレなんか、すげー先輩だって思ってましたもん!」
「あの人、下にはいい顔するもんね。あんまり知らない若手とか学生からすれば、できそうな雰囲気に見えちゃうんでしょ」
「シルヴィア先輩とか、カルロス先輩のことめちゃくちゃ嫌ってますもんね」
「そりゃあ、あんな同期がいたら、相当苦労させられてるでしょ」
「へえー。シルヴィア先輩にも、嫌いな人いるんすね!? すげえ優しい先輩だと思ってました」
オレもその点はファーガウスに同感です。シルヴィア先輩は、一部の隊員から『Q小隊のお母さん』と呼ばれているくらい、温厚で面倒見の良い方で。けれど同じくQ小隊のカーリア先輩とハンナさんは、意味深な笑みを交わします。
「Q小隊でカストロス先輩の話が出たときとか、もう、すごいよ?」
「その時だけ人が変わるよね」
そうして話がすっかりカストロス先輩の悪口大会になっていた頃、休憩室にエイミリア先輩が来られました。
あ、なんか、後ろめたい。いや、違うんです。オレは陰口とかウワサ話を楽しんでいたわけじゃなくて……いや、同じことですよね。
進歩のないオレ。
エイミリア先輩はそんなオレの背後をすり抜けて、もっと健全な話題を広げていた奥のテーブルまで行ってしまわれました。
「レン、あとで時間あるときに機材の引継ぎしたいんだけど」
「おぅ、今いいけど?」
レンスラート先輩が軽く応じたところへ、こっちのテーブルからトーリス先輩がまたしても要らんことを言います。さっきからニヤけ顔で待機していたから、嫌な予感はしていたんですよね。
「ね、ね、エイミィさん。カルロスさんのこと、どう思ってるんすか?」
「え、カス?」
「そうそう、そのカストロスさん! なんかお二人、いい感じじゃないっすか」
いい感じってどんな感じですか。全然良くないですし!
ほら、エイミリア先輩だって、困ったお顔で……、
「だから、カスはカスでしょ。あの人まともな魔術できないし、魔道士としてはクズ。人間としてはゴミみたいなものじゃない。でもゴミは資源として再生できるけど、あの人、ここ辞めたら他に拾ってくれるようなとこないでしょ。だから、何もなくなった後の残りカスってとこじゃない?」
うわあ、ボロッカスですね! もっといっちゃいましょう、先輩!
「うわ……なんか、虫けらみたいっすね」
「え、それはちょっと、失礼でしょ」
「あっ! すんません! さすがにそれはないっすよね、カルロスさん、大先輩ですもんね。失礼しました!」
失言をあわてて撤回するトーリス先輩でしたが、エイミリア先輩の意図したところは違ったようで。
「虫は土中の
それだけ言うと、レンスラート先輩を引き連れて、颯爽と部屋をあとにされます。ああ、やっぱりカッコイイです、先輩。
そんなお二人のうしろ姿を見送りながら、隣でトーリス先輩がぽつりとつぶやきました。
「あの二人も、仲いいよなぁ」
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