ガラスの落ちるとき

ベラ氏

ガラスの落ちるとき

 残業を終えて家に帰ると、彼から一通のメッセージが入っていた。

「俺です。やっぱり転勤は確定っぽい……美里も一緒に来てもらえないかな。これからは夫婦なんだから、一緒に住んだ方がいいと思うんだよね」

 私は深くため息をついた。ほら、またあれだ。髪の毛の先に触るものがある。物心ついた頃からの付き合いでも、なかなか慣れないものだ――。


 「それ」が何なのかは、説明できない。頭の上にこつん、と当たるものがあり、見上げてみても何もない。しょっちゅう来るわけではないし特段痛みは感じないので、そのことで病院に行ったことはない。だいいちどこを受診すればいいのだろう?

 ひとつはっきりしているのは「それ」が来ると、ひどく自分が価値のない人間であるかのように思ってしまうことだ。頭を抑え付けられ、こう囁かれているかのよう。

「身の程を知れ」――。

 

 思いつくままに上げてみよう。

 小学校に上がる前、鉄道に興味があった。真ん中の兄の影響だ。しかし母はあまりいい顔をせず、クリスマスに枕元に置いてあったのも欲しがった模型ではなくドールハウスだった。その時「それ」は現れた。

 私は二人の兄と同じように、中学を受験したかった。だが,うちにはそんなお金ないし「女の子だから」と、両親は私を説得した。その時「それ」は現れた。

 絵を描くのが好きだったので高校を出ると美術系の専門学校に進学した。初めてできた彼氏が面白おかしく聞かせてくれる講師との飲み会に、私は一回も呼ばれたことがなかった。私と別れてから、彼が講師の紹介で早々とデザイン事務所に就職を決めたと聞いたとき「それ」は現れた。

 卒業すると私はIT会社で派遣として働き始めた。それなりに真面目に勤め、正社員登用も間近だと言われたが、結局採用されたのは事あるごとに足を引っ張っていた同年代の男の子だった。体調を崩した私が離職のため自分のデスクを片付けているとき「それ」は現れた。


 私は透明の「それ」を破ってみようと,子どもの頃から何度も挑戦した。しかし結局は痛みが増すばかりだと悟り、諦めてしまった。

 大人しく受け入れてさえいれば、余計な目には遭わなくてすむのだから。

 

 しかし今回ばかりは納得がいかなかった。ここ数年「それ」は現れていなかったのに。

 そうだ、彼にこの話を打ち明けてみよう。心配されるかもしれないが、馬鹿にされることはないはずだ。私はスマホを取った。


「はあ? なんだそりゃ。美里、病院行った方がいいんじゃないの。最近言ってることおかしいって。フェミニズムとかさ」

 ソファに足を投げ出したまま彼は応えた。

 私は押し黙ったまま彼の脱ぎ捨てた背広をハンガーに掛けた。なぜか今日は、生返事をする気にならない。

「男も女もそんな扱いに差なんてないよ。実力が大事なんだから。それよりさ」

 彼は急に向き直った。

「あの話だけど、やっぱり一緒に来てくれないかな。美里が仕事頑張ってるのは俺知ってるけどさ」

 ずしっ、と頭の上が重くなった。「それ」が低く、厚くなったような感覚。

「デザインの仕事なんてテレワークでできるじゃん。それにもし仕事続けられなくなっても俺が稼いでるから大丈夫だって」

 私は頭で「それ」を突き始めた。鈍い痛みが走る。だが、やめられない。

「両親もさ,早く孫の顔が見たいって言ってるんだよね。だから遠距離恋愛になるよりは……」

 もはや彼の言葉は入ってこなかった。私はひたすら「それ」を押し上げようともがいていた。

「おいっ、聞いてるのかよ!」

 彼はソファから身を乗り出した。

「何が『天井』だ!」

 私を押しのけ、彼は拳で「それ」を殴ろうとした。ぱりん、という音がした。

 私のいた場所、一メートル四方の頭上から鋭いガラス片が降り注ぎ、見上げていた彼の喉笛を切り裂いた。

 真っ赤な鮮血を噴き出しながら、彼は声もなく倒れた。飛び散ったはずのガラス片はいつの間にか消えていた。

 私は不思議なほど落ち着いて,横たわった彼を見ていた。そしてふと考えた。

 どうしてあなたたちはこんなにも弱いのに、いつも強く振る舞わずにいられないのか?

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