Scene 2014. La Campanella

「Sanctus Festival」公演日。盛夏の2014年8月2日土曜日を迎える。

 東京は完全猛暑で35度越えは必至。仙台は32度の天気予報も、極端な湿度は無いから日射病対策をすれば、皆が待ちに待った野外クラシックフェス「Sanctus Festival」は間違いなく成功する予感しかなかった。


 東陽町の大江珈琲館は、親父頑鉄と母彩子さんが張り切って任せてと言ってたので、ご厚意に甘えて、俺と千代子は、前日にダイマツのキッチンカーで仙台に前乗り仕込みし、準備は万全だった。

 各ショップは宮城スタジアムの外周に展開し、半分宮城枠、半分全国枠と、厳格な審査で選ばれただけあって、飲食もお土産品も目を見張るものがある。

 ただ、今日の8月2日のワンデイ開催は、かなりの採算ぎりぎりを感じ得ない。東北の福島原発が目を覆う状況で、電力に敏感になっている東北人の間では、PAスピーカーは止む得ないとして、夜間も煌々とステージを繰り広げるのはどうかの議論が飛び交った。そして妥結策として、開催時刻は、日の出ている10時開始-18時終了の決め打ちとなった。飲食店は、掻き入れどきの夕方営業が出来ない為、同輩一同と会う程に、スタートダッシュを合言葉に、ただエールを送るしか出来なかった。

 そして開演2時間前の8時入場からは、思いの外に、大勢の観客が各ショップに流れて来たのでどうしても驚いた。一か八かの野外クラシックコンサートの観客は、招待券を配って2万人来客かと思いきや。1週間前に、全日7,500円の前売りチケットを、3万枚完売させたそうだ。

 そこは伊達記念交響楽団の指揮者伊達美樹とコンサートマスター伊達公正の人気双子姉弟が、地元の帯情報番組に1週間出続けた効果も有りきらしい。いやそれもあろうが、東北復興の為なら、どうしても「Sanctus Festival」成功させたいが皆の深い心情だろう。そうでなければ、朝一から見届ける気持ちにはならない。


 千客万来のここは、乗り上げ前の千代子の読みが当たったと言える。キッチンカーの飲料タンクには限界があるから、SMLサイズの販売は止めてデミタスにしようだった。確かに正解だった。ショップの数と観客の流れも多い事から、試しに一杯お買い上げの傾向は続き、中にはごきげんに2杯目3杯目の顧客もいて、大江珈琲館の車両販売は右肩上がりに伸びていった。


 そして10時の開会を告げるピアノとオーケストラによるマイスタージンガーが、高らかに歓声と共に外周部迄にも響いて来た。

 その二つの幕間暫くして、前売りチケットを買い与えた桜子と同伴者として付けた縁戚久遠寺遥が、昭和の高度経済成長期にいたよなの、ただ麗しき美少年と思しきを連れて来た。

 不思議な印象の少年だ。見た目は高校生も、上背の筋骨は隆々迄行かずとも、張りがすっきりしている。何よりは、細身の黒リボンタイ、真っ白な開襟シャツ、七部丈パンツは、よくある小学生男子のピアノ発表会のそれなのだが、不思議な程に全く違和感が無い。いや何だろう、この既視感は、ある。放たれる雰囲気は、何処かのフェスで見かけたバンド出演者にそれとなくか。

 俺が見つめ過ぎたか、美少年は照れて、細身の黒リボンタイを頻りに整える。その仕草も含めて、素直に美しい。

 いやか。まずハッとすべきは、桜子が思春期に初めて男子を連れて来て、俺達に紹介するのかとまず緊張した。

 俺の様子を具に見た美少年が、堪らず微笑した。


「初めまして成宮巡です。今日、若手枠のピアニストとして演奏しますので良かったら見に来て下さい。あと、桜子さん。ずっと、勘違いしてると思うのですけど、僕女子ですから」


 俺は、まさか、いやうっすら分かっていても後ずさりした。桜子は、俄然巡さんはそうやってはぐらかすと、巡さんの只管左腕に絡みつく。遥は遥で、こんな背中競泳選手でも見た事も無いわで、巡さんの背中にもたれ掛かる。巡さんは、もううんざりし慣れたのか、得々と説明に花が咲く。

 この細身の黒リボンタイに真っ白な開襟シャツに七部丈パンツは、震災で亡くなった祖父母に送られた頃から気に入ってはピアノの発表会の衣装は今日迄これでした。ただ、身長と筋肉が付いたので、今では細身の黒リボンタイだけが形見になっています。今日のステージは、当時そのままの衣装では無いものの、一等のはなむけにしたいと。

 まあ、才気溢れるピアニストのスタイリングなら有りかな。しかし、手元のポスターチラシを見れど、肖像権の事案か写っているのはプロのミュージシャンだけであった。それとなく遥がパンフレットのページを見開き差し出し受け取る。そこには確かに【成宮巡(17才) 所属:我妻仙台音楽教室】とある。ただ性別を書いていないので、その鮮やかな写真は、やはり麗しき美少年の佇まいにしか見えない。でも輪郭がシャープな事から、将来化粧を重ねると、モデルさん真っ青だろうはある。

 察した巡さんが続く。

「何より、後身長8cmあって175cmだったらあいつに勝てるんですけど、凄い悔しいです。どうにか身長伸ばす方法は無いですか」

「ああ俺かな。182cmは寝てる内に伸びたから、就寝時間2時間早めては、どうかな」と宥める。

 巡さんは空中に譜面を描く様相でなぞって行く、そしてはたと。

「まさしくそれです。睡眠いいですね。そうなのです。当時の被災の事をどうしても考えてしまうので、そういう深い時間になるのですよね」巡の涙が不意に滴る、

 俺と皆は、未だ時間の経過とはそうなのかと胸を抉った。巡さんは続ける。

「祖父母と家屋と苺の果実園を、大津波で失いました。そう、父母と一緒に居られるのは何よりですけど。多くの同級生の繋がる方は死者行方不明者が多く、中学の時に皆避難の為に散りじりになりました。何故僕達は多感な時に何もかも失うのでしょうか。得るものが多いのが豊かな人生では無いのですか」と語尾はかなり強い。

 俺・千代子・桜子・遥の拳がただ固くなった。それでも言うしかなかった。

「巡さんが今迄過ごして来た道のりに、無駄も回り道も無いよ。巡さん、そして同級生も、乗り越えて来たのだから、今日ここ同じく、生きているのだよ。そして初対面で何を言うのだけど、巡さんは今のままが素敵だよ」精一杯の笑顔はそのままの感情だ。

 抜群のタイミングで、千代子がデミタスの紙コップを俺に渡した。差し入れろ。俺達に出来ることは、まずそれだ。もう泣き慣れた巡さんは、嗚咽にならないものの、慟哭が目に見えて響く。

 俺は巡さんにそっとデミタスの紙コップを差し伸べた。

「ピアニストならば指は温めたておいた方が良いでしょう。そうだよね、誘われたのだから、巡さんのピアノ聴きたくなったな」と素直に述べた。

 巡さんは一発で涙を拭っては、デミタスの紙コップを両手で受け取って綻んだ。

「いい香りです。避難所で配給されたコーヒーが冷えてなかったら、皆もっと笑顔だっただろうな」嬉々と一口つけた。

 まあ俺は辛うじてだが、桜子も遥に、あとキッチンカーの奥手に隠れている千代子も、膝が崩れそうになっていた。されど一杯のその重みを噛み締める。

 巡さんは丁寧にデミタスを飲み、不意にしゃちこばった。

「でも緊張しちゃうな。散りじりになった同級生に知人も、配信で見てるし。そう、この離れ離れの距離感。何で僕達はこうなんでしょうかね。一体どんな悪いことしたっていうのかな。よく分からないです。遠く、果てしなく遠く、どうにか世界の何処迄も響くピアノがあれば良いのに」

 俺は尚も語る。

「偉い方々は、同じ事を表現を変えて言うだろうけど、それは与えられた試練で有り。可否は何もないよ。日々一緒に歩もう、手に手を取って。まずは、ステージの成功をどうしても祈ってますよ」

 巡さんは一礼しては飲み終えたデミタスの紙コップを俺にそっと渡してはこう。

「そうですよね。この今の僕に、成功出来ない筈が有りません。僕はきっと誰かに支えられてる。そして、大津波避難時に辛うじての祖母から作って貰った細身の黒のリボンタイだけを持って来れたのが救いです。僕は祈り続けます。きっと、皆のいる天国にも届くと思います。絶対に、」

 堪らず桜子と遥が巡さんにしがみ付き、俺は幾度目かの涙混じりの微笑みになった。巡さんはとてつもなく強い。何で俺が、勇気を分けて貰うんだよ、俺さ。


 🎵


 それは12時丁度から始まろうとしていた。宮城スタジアムの全スピーカーからウグイス嬢のアナウンスで、由縁を知る皆の息が止まった。


「12時のタイムテーブル、成宮巡ワンマンプログラム、『きみの物語になりたい』が始まります。御観覧の方で、まだ着席で無い方は、呉々も静粛に席にお戻り下さいませ」


『きみの物語になりたい』。ゴクと喉が鳴った。俺は、そう俺は、この瞬間の前迄神の存在なんて、うっすらしか感じてなかった。だが音楽を通じて俺達は何度も出会ってしまう。そう俺達はだ。


「千代子、俺はさ、行かなくちゃ、」

「分かってるわ、行って来て、全然問題ないから。さあ、早くよ、」


 歓喜に咽ぶ千代子の声を聞いて、俺はエプロン姿のまま、キッチンカーから飛び出て、球場外周部を駆け抜ける。

 PAモニターからの音を漏れ聞いて、外周の皆は立ち止まり、その出音に押し並べて感じ入るしか無い。そのイントロは、名のあるピアニストならば果敢に挑むFranz Lisztの「Liszt - La Campanella」だ。だがこんな野太い「Liszt - La Campanella」など、未だかって誰も聞いて無いのは当たり前だ。しかし巡さんなら出来る。そう毎日気高いあのSwan Lakeに挑んでいたら、想像を絶するピアニストにもなって当たり前だ。

 次第に聞き惚れ、騒めいて行く皆を置き去りにして俺は進む。関係者入場ゲートの職員も、俺のIDをなぞる位で、耳を澄ますのに必死だ。俺に忙しい行ってと大振りで通す。スタジアムの入場通路駆け抜けながら、独特な残響音でも見事に分離したピアノの音色の粒は拾えた。この崇高な鐘の正体とは何なのだ。

 でも、俺は知っていたんだ。手紙を貰った、名も無き当時女子中学生、いや成宮巡の全てを。

 何度も読んだ手紙が、崇高な鐘の音と共に思い起こされる。


 何度でも、俺は知っている。

 君の、津波で真っ二つになった潮まみれのピアノは、もう忘れて良いんだよ。

 君の、実家敷地も、愛して止まない苺の果実畑も、今は時を待ってるだけだ。

 君の、幼い頃からの夢、音楽留学の夢はぜひ叶えるべきだ。

 君は、祖父母に深く愛し愛された。そしてまた皆に愛されて行く。俺が絶対保証する。

 君が、苛む事はない。東日本大震災その日、祖父母と電話不通も、既に起こったあの状況下では、何もかも想定を超えていた。大津波の想定外とはそう言うものだ。

 君が、避難所体育館でピアノを伴奏した「故郷」は、確実に避難所の皆の胸を打った筈だ。

 君は、決して悲しまないで。故郷の女川はいつもそこにある。いつかきっと帰れる。故郷とはそう言うものだ。

 何より、君は、何も失っていない。何れ旅立つ時は清々しいものだ。その祖母から貰った大切な細身の黒リボンタイ一つで十分過ぎる程だ。

 君、巡さん、成宮巡、翔べる事を今こそ知るべきだ。


 一塁側ゲート先が直下の日差しで煌々とし、俺はグラウンドに駆け抜け出でた。俺は堪らず叫んだ。


「巡さん、もっと高く!」

 より明確な、カッーンの打撃音が確かに聞こえた。


 前日に三宅ニコラスから、ステージを案内して貰った。

 グラウンドのリングステージのオーケストラピットの向こう、真ん中には、マウンドの上のメインステージにはグランドピアノが3台並ぶ。3台のグランドピアノは対面に配置され、円の中に均等に置かれる。巡さんのYAMAKIの漂白のグランドピアノ、KANNOの薄紅のグランドピアノ、TOUYOの漆黒のグランドピアノ。何れも寄贈されたグランドピアノで、ニコラス自らに調律されては、被災地の学校で日々えらく酷使されたものを、このステージに上がらせている。銘品には違いないが、音響がスタジアム仕様でややピッチが下に調律され野太い。タフである事。そうプロボクサーでも、ここ迄鍛え上げる事は不可能な程にだ。

 成宮巡の「Liszt - La Campanella」がこの仙台、いや配信の向こうの全世界にも響き渡っている。分かりきっている。それは皆一様な微笑みだろう。

 巡さんの、タフなYAMAKIの漂白のグランドピアノの鍵盤に叩きつける程の鐘の音は、復興半ばで、その歩みは奇跡だろうと、うっすらとしか想起出来なかった皆を、原点に立ち戻らせた。どうしても神は、奇跡のミューズの前髪を強く揺らすと。

 宮城スタジアムのスクリーンは、どうしても動揺を隠し切れていない。映像は、熟練カメラマンのほぼワンカメラで、ブースはスウィッチングの余裕さえ失っている。ただ巡さんのその情熱、身体、汗、熱量の全てが捉えられている。これはこれだ。

 時折アップになる、巡さんの足元の踏ん張り。ご機嫌な黒のローファーは、このプログラムでソウルが折れそうな位降り曲って役に立たない事だろう。巡さんが、あと身長8cmあったらとは、全身全霊でSwan Lakeに挑んで来て、まだ身体能力を望んで止まないからだ。足は何センチだろう。凛としているから24cmはあるだろうか。成功祝いとしてまず一足。こういうのは遥が好きだから、機能性を優先に選んで貰おうか。

 そしてこの鍵盤の押し込みは何もかも知ってる。俺の祖母の文世さんでしか描けなかったタッチが、再び目の前にある。がなり鳴らす事で、よりピアノの倍音が分離して、異次元の音色が奏られる。そう、Swan Lakeの前では感と経験と才能なんてどうでも良い。向き合い、勝利者しか相手にしない事で、より至高の音楽を昇華される。

 俺は、漸くのヒントを掴む。Swan Lakeと向き合うとは、ピアノの響きをより良く聞き取る為には、音楽と生きる誠実な心根が求められる。それは確かだろう。巡さんが、このステージではYAMAKIの漂白のグランドピアノの鍵盤をこれでもかと深く押し込み奮闘すし、ピアノとはこんなナチュラル打楽器音がするのかだが、Swan Lakeに比べれば、まだ2グレード下だ。でも、不思議とまたSwan Lakeの音を聞ける予感がした。巡さんは、確実にスター性を持っている。

 そして、もはや「Liszt - La Campanella」終盤。畳み掛けるクレッシェンドも、打鍵がとてつもない事で、ピアノの音色が見事に分離してる。

 本来であれば、グランドピアノの三本のペダルを酷使して、より表現力を高める筈なのだが、巡さんのその踏ん張る両足は、この地球の大地に直結し、生命の息吹を聞こうとしている。

 そう。ど根性プレイならばその指先のタッチで十分と、お構い無しに、容赦無く大いなる鐘を鳴らしている。いや、若干まだ鈍い。今鳴っているのは、共鳴している皆の持つ錆びた鐘の音かもしれない。その錆びも、ゴリっと錆落としされているのか、徐々に洗練されて行く。このピアニスト成宮巡のワンプレイで払拭されて行くのは当然の成り行きだろう。もはやスタジアムから固唾さえも消え、高まり、少なく無い鐘の音が、皆の新たな息遣いとして確かに聞こえて来る。

 この敢えて言うならのど根性プレイは、既にアウトロ、流れ行くピアノロールを経て、そして最後の一音への運指、「Liszt - La Campanella」の譜面に描かれていないそれは、巡さんがここに来てSwan Lakeに導かれたであろうの最高音部の一音だ。澄みやかなカッーン。そのまま聖なる鐘の音は、スタジアムの直上、天まで轟いた。

 この瞬間そのまま、世界中が逆さ稲妻の如くの衝撃に打たれた筈だ。それは成宮巡の渾身のど根性プレイが引き起こしたものだ。

 宮城スタジアム及び世界中が、一斉に言葉に出来ない言の葉を吞んだであろうの声。っつう。俺は初めて聞いた。そして俺がよく知るいつもの泣き虫達の声が聞こえた。


「ブラボー!」

「ブラボー!」


 スタンドの一塁側中央の一声目は桜子、二声目は同伴者遥、まあそう言わざる得ないのは俺もだ。言うさ、これは事件だからな。宮城スタジアムは忽ち1曲目の「Liszt - La Campanella」で、掟破りのブラボーの声がスタンディングで惜しげも無く送られ、響き渡る。

 ごく当たり前に聞き惚れてしまったが。巡さんは、この誰の手引き無しでSwan Lakeの真髄を、この漂白のグランドピアノで体現している。さて、いまや世界中がネット検索しているであろうの成宮巡とは何者なのか。今は、何となく俺達だけの胸に秘めておきたい。その方がSwan Lakeも照れはしないだろうから。Swan Lake、ご縁って、どうしてもあるものだよな。


 そして、俺の隣に調律師にして主催者の三宅ニコラスが歩み寄っては、どうしてもハイタッチを要求する視線が送られる。それは言葉に出すと憚れ、満面の笑みで。仕掛けましたね。勿論。そして、ガッツリのハイタッチで通じ合った。

 未だ、奇跡の名演への歓声が終わらぬ中で、今や世界の名ピアノプレイヤーに仲間入りし困り顔の成宮巡が全方位に向けて丁寧に挨拶して行く。これだけは、先輩アマチュアミュージシャンとして少し言えるが、それはやぶ蛇と言うもので収拾が付かないものなのだよ。


 その間ニコラスとの談笑が進む。

 あのSwan Lakeは調律もただ奥深く、そう簡単に弾けないものですよ。そう三人候補者がいましたが、それぞれの音楽教室に通っては、このど根性なら巡さんしかいないなと思った訳です、正解ですよね雅匠さん。俺はやや呆れながら被災地にピアノの音を響かせる倶楽部の定款を思い出していた。立ち上げはランダムでは無いのですか。ニコラスは理路整然に語る。ピアノも弾き手も、互いに時空を求めて邂逅します、クラシック音楽って積み上げた歴史が深すぎますよね。でも、いざ目の前で見てしまうと思わず綻んでしまいますね。かってない程世界で一番ピアノを調律していると、ピアノの神様が、これだよと導いてくれるものですね。俺もニコラスも、何かが始まってしまった畏怖感より、ただ笑みを返した。次もその次も楽しみしかない。


 ピアノステージは、激烈なグランドピアノに音に触れた事で、観客が次第に感極まり号泣する始末で、絶賛収拾のつかなくなっている。

 その観客を見かねて、成宮巡がYAMAKIの漂白のグランドピアノに向き直り、これ迄に聞いたこともないオリジナルのエチュードのピアノロールをゆっくり奏で始めた。


 俺とニコラスは静寂が戻る迄、思い思いに吐露した。この「Sanctus Festival」継続されるかどうかの核心。

 ニコラスは途端に憤慨しながら、メインスポンサー合天とは世界配信だからスタジアムの広告外す外さないであれだけ大喧嘩したのに、当日来てみれば無印であった筈のピアノステージとリングステージの台座にはIT連盟の企業名のラミネート広告が隈なく貼られて出し抜かれました。俺は、早くも好評ですのでどうか継続の御一考を。確かに満員ですけど、来季も満員の手応えは五分五分ですね。日本国で、クラシックをスタジアムで楽しむ習慣はこれからです、爪痕だけ十分ですよ。

 俺はただ諦め顔で、やはりスポンサーとの相性ですかの一言。ニコラスは軽く首を横に振り、これから先のフェスもそれだったら、寄贈された生のピアノの調整と震災の泥水に浸かった生ピアノの補修が先ですよ。何せ未だに、篤志の仙台一丸倉庫3つにびっしり眠っています。それが完済したら被災地にピアノの音を響かせる倶楽部の打ち上げでしょうか。良いパーティーにしましょう。

 俺は思いのままに、未来が切り開かれたのに寂しくは無いですのですか。いいえ、このフェスは復興応援です。そして復興には予算上どうしても場面場面で区切りはあるでしょう。その先の展開は、皆できつく手を取り合いましょう。俺はニコラスが伸ばした手をきつく握手した。今はまだ、復興熱が夥しいが、予算を事を考えると、ニコラスの言う通りとは思う。


 そしてピアノステージは、成宮巡の奏でるエチュードが想起のままに、淑やかな湖畔の波紋から、スタジアムを徐々に震わせて行った。

 何だろうこの視線。そう、どうしても巡さんは、声掛けした俺を見つけ何かのキューを求めていた。俺は、スタジアムをゆっくり見渡し、共鳴を受け取るままに、右手を上に掲げ、やや早めのミドルテンポのGOカウントを送った。

 巡さんの、ふふんの喜びの声が聞こえた気がした。そしてイメージも湧き起こる。奏で想起される湖畔の波紋が大きく震え、バサバサバサ、羽ばたいた白鳥の羽の幾つもが湖畔に着水して行く。

 そう、二曲目の演目は慣用そのままに「Tchaikovsky – Swan Lake」に入った。これは、近親者が敬愛する銘器Swan Lakeへの最大の賛美だ。要所で織り込まれる、アドリブのハイキーを聞くと、音楽を通じてヴィジョンに現れる白鳥に餌を与えないとで、思わず笑ってしまった。スタジアムで、うっかり高笑いが聞こえるのは、同じ感性の方と言う事で、これは確かにフェスらしいと得心した。


 そんな想起される光景もお構い無しに、左斜向かいではドイツ人名ピアノプレイヤー:リヒャルト・アレキサンダーが悶絶し、伊達姉弟が宥めつつも爆笑している。時折聞こえるリヒャルト・アレキサンダーのUnglaublich! (ウングラォプリヒ)は何かとニコラスに聞いたら。


「Unglaublich!は、unbelievable!、ドイツ語で信じられないですよ。私にしてみればリヒャルトさんこそが信じられないです。SNSでアップされているのはサイドカーでの旅行写真ばかり。いつピアノ練習して、音色はあれ程硬くも、芯の強い演奏で、観客に強くあろうの勇気を与えるか不思議で有りません。現にUnglaublich!なんて、前日の皆さんの通しリハーサルを見物していたら、巡さんをとっくに見つけて、そんな言葉は出てきませんよ。全く、小芝俊哉さんと一緒にどこに雲隠れしてたやら」


 不意に、笑みを隠せない日本の名ピアニスト小芝俊哉が詰め寄ってきた。日本人には珍しい官能的な旋律を奏で、女性ファン多いのはその柔和な笑顔も伴ってなのだが。


「ニコラス済まない。それはずんだ餅から始まって、仙台のグルメ三昧ですよ。とは言えスーパースターを見過ごしたのは、俺達の完璧な敗北だ。そうですよ。これ位の盛り上がりないと、俺達は俄然張り切らないものでしてね。それと終演の際のダブルアンコールのプラン変更だけど、もう一人お願い出来ないかな…」


 このタイミングで「Tchaikovsky – Swan Lake」の静寂な音が置かれ終わる。視線を正面に送ると指揮者伊達美樹が徐にピアノステージの側にいた。

 伊達美樹はゆっくり上がって、マイクを握り気丈にも語る。成宮巡のソロプログラムが余りにも盛り上がり過ぎて、予定一コマの規定時間23分はすぐそこです、最後の曲は「故郷」になりますが、どうか私の指揮を見ながら、スクリーンの字幕も見て合唱お願いします。同時に、巡さんのおしゃまなピアノが、「故郷」のイントロを奏で、皆がその音色に感に入っては、自然と涙が溢れだす。待てよまだ4小節だぞ。

 その故郷とはだ。仮設住宅は未だ数多も、俺は残らず皆に故郷に何れ戻って欲しいと思う。それは皆もそうだろう。尽きぬ思いがただ、成宮巡の益々迸る程のピアノと、指揮者伊達美樹の指揮棒捌きから幾重にも重なる合唱と、互いに共鳴して行く。

 被災地の瓦礫はやっと取り除かれ、また一からの組み上げになる。しかし、尽きぬ勇気さえあれば一歩どころかその次の歩みへも繋がる。このSanctus Festivalの意義はそこに尽きると思う。ただ進もう、皆で前へ。


 🎵


「Sanctus Festival 」は感動のフィナーレを迎え終えた。それからしばらくして、翌年2015年2月2日に、合天メディアから発売アナウンスされていた「Sanctus Festival –PRAYER-」のBlu-rayプログラム3枚組にドキュメント1枚組の大判は諸事情に付き正式に発売中止された。当然失意記事が大きく打たれた。

 成宮巡のソロプログラムは勿論、各有名ピアニストのプログラム、取り分け小芝俊哉とリヒャルト・アレキサンダーは近年の名演奏として称された。その極め付けが、フィナーレのダブルアンコールの「Debussy - Clair de lune ”rain”」の演奏だ。どうしてもの、あの中央のピアノステージの3台のグランドピアノに各位が腰を下ろす。ピアノトリオ:成宮巡/小芝俊哉/リヒャルト・アレキサンダーによる、三者三様の意図的なダブリングピアノ音は解釈として最高峰で、2度と聞けるかの奇跡を起こす。これも覚えた単語「Unglaublich! 」こそが全てだ。

 そのBlu-rayの発売中止は、三宅ニコラスを中心とする組織委員の理性的な判断だった。当日になってピアノステージとリングステージの台座に描かれたIT連盟の広告作成は仕方ないの判断はあった。いざ映像編集になると、文字情報が多すぎて、音楽が半分以下しか入って来ないで、早々に映像化を断念した。もしBlu-rayが販売されれば記録的なセールスになるだろうが、それによってミュージシャンの本来の奏でが半分以下になるのはナンセンスであるのは間違いない。

 それならばと、映像の無いCDでの発売に方針変更した。販売は大手レーベルOmni。ここは野外ライブの為に、音量のばらつきを補正し適正マスタリングの出来る、Omniこそが極めて妥当な判断だった。

 CD8枚組には、スタジアムステージの名演は大凡網羅。スタジアム外周部でミニコンサートしていた小編成ミュージシャンも隈なく収録している。観客は、スタジアムに来たものの、席を外して見れなかった名演もあったので、実に痒いところに手が届く名盤だ。

 そして実績としては、高価なBOXクラシックCDにしては、日本チャートよりは、世界チャートの反響が大きかった。勿論そのCD売り上げからは、経費を差し引いた利益が東日本大震災の義援金に送られた。


 🎵


 その後の俺達大江家に目を向けると、嬉しい報せが幾つか舞い込んだ。

 YAMAKIの木目調アップライトピアノのSwan Lakeを巡っては、桜子の迸りで今や匿名でも篤志の何れでもなく。えっつ本当、そうだよで、巡さんと桜子は盟友となり、アドレスを交換してはたまに楽しげなビデオ通話に、俺も巻き込まれ見切れる事もあった。

 そして巡さんはリヒャルト・アレキサンダーのごり押し過ぎる推薦でドイツ音楽留学の内定を貰ったそうだ。

 それも、あの晴れ舞台で実力そのまま出せたのは、弛まぬ努力をした者だけですよと、俺は巡さんに強く語る。巡さんは、Swan Lakeが無かったら、より多くの皆さんと繋がる事も無かったと語る。しかし俺の知ってるSwan Lakeはどうしても気高く、そこ迄優しいものですかねと困り果てる。巡さんは無邪気に爆笑しながら、私は未だ格闘してますから、気まぐれご褒美ですよね。それならあり得ます。ですよねー。Swan Lakeが会話に出てくると、皆、苦いも甘いも笑顔になるのが、不思議な縁とは思う。


 そして俺は、あの「Sanctus Festival」から思いがただ馳せる。人間成宮巡の根底にあった悔恨が慎ましやかな祈りに変わったのは、あの宮城スタジアムに集った皆の、被災で近親者友人達の命を落としいくつもの哀しみを背負った切なさの底そのものを、直感で感じたからに他ならない故と思う。成宮巡に背負わせるのは、本当嫌だが、そういう役割は主の匙加減としか言いようがない。

 そして名演と深い祈りで昇華された、スタジアムでの幾重ものハレルヤ。それによって、見知らぬこの地上に止まり、切なくも眠り続け、逸れていた魂は、皆天国の門を漏れ無く潜ったと俺は確信する。

 何故奇跡を生み出せるのか。この難しい話はいつか巡さんに聞こうと思うが、そこはもう答え出てますよね、の笑顔で押し返される事だろう。

 世界にたった一つのアップライトピアノSwan Lakeにまつわる事。秘め尽くした、ハイキーを踏み込んで奏でられる、魂と共鳴する形而上的鐘の音は、音楽へ憧憬を豊かにさせる。

 だからこそ、まだポテンシャルを全て出し切っていない、成宮巡の物語をこれからも聞いていきたい。

 成宮巡を旗手にした、世界に福音をもたらす音楽とは、どんな事になるだろう。不幸な東日本大震災以後、全世界の俺達の共鳴は鳴り止む事はあるのだろうか。

 そんなの夢じゃないか。それならば、スタジアム収録の成宮巡の「Liszt - La Campanella」を何度も聞いてみるが良い。その都度、俺達の鐘を新しく打ち鳴らしているのだから。

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