六⑤
「神からの反応もないんじゃ、お手上げだぜ?」
そうなのだ。ガブリエルがいくら尋ねても、神は沈黙をしている。そこでガブリエルはじっと里帆を見つめてこう言った。
「ねぇ、里帆さん。あなた、死にませんか?」
「えっ?」
ガブリエルからの提案に、会話を見守っていた里帆は驚いて声を上げる。そんな里帆にガブリエルはこう言うのだった。
もし今、里帆が死の選択をするのであれば、ラファエルの罪を水に流す、と。
「一人の人間にかまけ、仕事を疎かにしていたラファエルの、罪を不問とします」
「もし私が、生きたいと言ったら……?」
「その時はあなたを生かしましょう。ただし、ラファエルはサンダルフォンの幽閉所に幽閉します。永久にね」
「そんな……!」
ガブリエルの言葉に思わず悲鳴のような声を里帆は漏らした。そんな里帆へ向けられるガブリエルの細い目の奥が、きらりと光ったように感じた。
里帆はその視線を受けて愕然とした。
もし里帆がここで、生きたい、と言えばラファエルの自由はなくなり、永久に幽閉されてしまうのだ。
「すぐには返答も出来ないことでしょう。時間を差し上げますから、存分にお悩みなさい」
ガブリエルからの提案に里帆は絶句する。
せっかく生きたいと、そう心から思えたのに、それはラファエルから自由を奪う行為になるなんて、考えも及ばなかったことだ。
(私、は……)
生きたいと、一度は願った。
だけどそれは誰かの、最愛の人の、犠牲の上ではない。最愛の人の自由を、風のように自由な彼の、その自由を奪ってまで生きることは、里帆には出来ない。
『本来ならばお前は、あの事故で死ぬはずだったのだ』
ここに来る途中に出会ったサンダルフォンの言葉がよみがえる。里帆はその言葉にぐっと拳を握ると、下唇を噛んだ。
(もとより、生きることへの執着などなかったでしょう?)
そう、なかった。そんなものは持ち合わせてはいなかった。なのに。
(なのに、死を選ぶことが、こんなにも辛いことだなんて……!)
里帆は悔しさから下唇を噛む力が増す。それはうっすらと血がにじむほどだった。視界がだんだんとぼやけてくる。そこで初めて自分が泣いていることに気付いた。
(死にたく、ないな……)
これは里帆の本音だ。だが。
(ラファエルの自由を奪ってまでは、生きたくない……)
こちらもまた、里帆の本音なのだった。
「さて、そろそろ時間です。どうしたいのか伺いましょう。生きる選択ですか? それとも死の選択?」
ガブリエルが里帆に選択を迫る。里帆の中に迷いがないと言えば嘘になる。しかし里帆は決意した。
「私、は……」
死の、選択を。
そう口を開こうとした里帆が意を決したときだった。
「この審判には、異議あり!」
「ラファエルっ?」
聞きたいと心から思っていた声が聞こえ、里帆は弾かれたようにその声がした方へと顔を向けた。そこには満身創痍のラファエルの姿があった。美しかった真っ白な翼は今は血のように赤く染まってしまっている。そしてその顔は苦痛に歪み、近くの木に片手をついて、かろうじて自身の身体を支えている。
「ラファエルっ! ラファエルっ!」
里帆はラファエルへと近付こうとして、その行く手を柵に阻まれてしまう。里帆は上半身を乗り出して、ラファエルの名を叫んだ。
「待たせちゃったね、里帆」
そう言って痛みに顔を歪めながら笑うラファエルの姿が痛々しい。里帆の瞳からはダムが決壊したかのように涙が溢れ、その頬を濡らしていく。
「ラファエルの、ばかっ! 大馬鹿!」
「あはは」
里帆の身も蓋もない言葉にラファエルは困ったように苦笑する。里帆はそれ以上何も言えなくなり、嗚咽を堪えながらラファエルを見つめるしか出来なかった。そんな里帆の視線を受けながら、ラファエルはガブリエルを見据えた。
「ガブリエル。君のしていることは脅しだよ。公平と平等を司る天使が、もっともしてはいけないことだと、君は分かっているだろう?」
「ラファエル、あなたが公平と平等を口にしますか?」
ガブリエルの声はどこか呆れている。その言葉を受けたラファエルが苦笑する。
「そんなに里帆を脅さなくても、僕は逃げないし、罪も償うよ」
「それは、サンダルフォンの永久幽閉も辞さない、と言うことですか? ラファエル」
「そうだよ」
「そんなっ!」
ラファエルの強い言葉に里帆は思わず悲鳴を上げた。ラファエルの瞳からは揺るがない決意がはっきりと見える。里帆はそのラファエルの瞳を見て愕然とする。
(ラファエルは、本気だ……)
本気で永久に幽閉されても良いと考えているようだ。里帆の大きく見開かれた目からはとめどなく涙が流れてくる。
「だ、駄目よ、ラファエル! 私、私が死を選択するから! だから永久に……」
(永久に、幽閉だなんて言わないで……)
里帆にとってはラファエルは風のように自由奔放で、いつも笑っていて欲しい存在なのだ。
「里帆……」
泣き叫ぶ里帆の元へいつの間にかラファエルがやって来ていた。その翼は近くから見るとよく分かる。やはり真っ赤に流血していて、羽全体が血に濡れて重そうだ。ラファエルの顔や手足にも擦り傷や切り傷が見て取れる。痛々しいその姿に、里帆の涙は溢れることを止めそうにはなかった。
「里帆、君はいつからそんなにも泣き虫になってしまったんだい?」
ラファエルが困ったように、泣きそうになりながら言う。
「だって……、ラファエルが……」
「僕は生きているよ。天使は簡単には死なないから。だから、笑って欲しいな、里帆。僕は君の笑顔がいちばん、好きなんだ」
ラファエルは片手で里帆の頬を包み込みながら言う。里帆はひんやりとしているラファエルの心地よい体温を感じながら、ぎこちない笑顔を作って見せた。それを見たラファエルがにっこりと笑顔になる。その笑顔は里帆が見たいと切望していた、いつもの嬉しそうな無邪気なものだった。
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