四⑫

「じゃあ、行こう! 空中散歩へ!」

「空中散歩?」


 疑問を口にする里帆の手を握ったラファエルはベランダへと向かう。


「ちょっと、ラファエル? そっちは玄関じゃないわよ?」

「玄関じゃなくて大丈夫! 言ったでしょ? 空中散歩だって」


 そう言いながラファエルは大きな窓をばっと開けた。冷たい北風が一気に部屋の中へと流れ込んでくる。里帆は急なことに一瞬身震いをしたが、それを表に出すことなくラファエルの次の行動を待った。

 ベランダへと出たラファエルは、背中から折りたたまれた形で天使の羽をばさっと現した。それから一枚の羽を抜き取るとラファエルはそれを里帆へと差し出した。


「里帆が他人から認知されないための羽だよ」

「え?」


 里帆は疑問に思いながらも反射的にその羽を受け取る。それを見ていたラファエルは満足そうに笑みを深くすると、里帆を抱きかかえ、そのままひょいっとベランダの柵の上に立つ。


「ちょっと、嘘でしょ? ラファエル、ここ、三階よ?」

「大丈夫、大丈夫。僕を信じて」


 ラファエルは腕の中の里帆を安心させるように笑うと、そのまま柵から飛び降りる。里帆は思わずきゅっと目をつむった。僅かな時間ではあったが、確実に自由落下があり、里帆はこのまま地面に叩き付けられるのではないかという錯覚を覚える。

 しかしすぐに大晦日から元旦にかけて体験した、重力を無視したような感覚に襲われ、自由落下が止まったことを教えてくれる。それでも里帆は現状を知ることが怖く、目をつむったままでいた。胸にはしっかりとラファエルの天使の羽を抱えている。


「里帆、もう目を開けても大丈夫だよ」


 しばらくそうしていると、ふわふわと宙を浮いている感覚の中、ラファエルの落ち着いた声が降ってきた。里帆は恐る恐るゆっくりとその目を開ける。最初に目に入ったのはラファエルの優しい笑顔だった。


「里帆、大丈夫? ほら、向こうを見てごらん」


 ラファエルは両手が塞がっているため、軽く顎で正面を示した。里帆がそちらへ首を巡らすと、


「う、わぁ……!」


 眼下に広がる高層ビル群と、それらが織りなす夜景が天の川のようになっている。高速道路と思われる場所では、ヘッドライトとテールランプを点けた車の列がゆっくりと流れているように見える。そして遠くの地平線の先には日が今まさに暮れたばかりで、山の陰影を色濃くしていた。暗いオレンジの入った朱色から、上に行くと夜の色が濃くなる。そして天上では一番星が光り輝いている。


「凄い……」


 息を飲むほどの景色の中、里帆は肌を刺すような冷たい風も忘れてしまう。長い黒髪を風になびかせながら、変わっていく空の色に言葉もなく見入っていると、


「最近ずっと頑張っていた里帆への、僕からのプレゼントだよ」


 そう柔らかな声音が降ってきた。里帆が夜景から目を離して近くにあるラファエルの顔を見ると、ラファエルは里帆の方を見て柔らかく微笑んでいる。


「喜んで貰えた?」


 ラファエルの問いかけに、里帆は自然と緩む頬のまま笑顔で頷いた。

 自分の住む町を、こうして俯瞰ふかんで見る機会などなかった里帆にとって、世界がこんなにも美しいというのは新たな発見だった。同時に、常にこの景色が見られるラファエルのことを、少しずるい、と感じてしまう。


(あれ? でもラファエルはいつも私と一緒に歩いてくれていたけど、どうして?)


 里帆は気付いてしまった疑問をラファエルにぶつけようとしたのだが、視線を向けたラファエルはとても嬉しそうに微笑んでいたので、里帆も質問を飲み込む。そうしてしばらくの間、眼前に広がる光景を見つめるのだった。

 すっかり日が落ちて、空の色が夜に包まれた頃、里帆はゾクッと身震いをした。それから思わずラファエルの首元に抱きついてしまう。


「里帆? どうしたの? 寒い?」


 驚いて声を上げるラファエルに里帆は小さく首を横に振る。それからくぐもった声で、


「なんだか、怖いの……」


 そう言うのが精一杯になるのだった。

 夜景は確かに美しい。宝石箱をひっくり返したようなその光景は今までのことを全て忘れさせてくれそうな雰囲気を持っている。しかし今、自分のいる場所にはその光がかろうじて届いているだけで、頭上に広がる夜の暗闇が自分たちを飲み込んでしまうのではないかという錯覚に陥るのだった。里帆にとってはそれが恐ろしく、光り輝くラファエルの羽だけが救いのように感じられる。

 ラファエルは胸の中にいるそんな里帆をあやすように、その頭をぽんぽんと優しく撫でた。それから、


「戻ろうか」


 そう言うと、夜の空気の中下降していく。里帆はその間も、きゅっとラファエルの首元に抱きついていた。しばらくそうしていると、ばさっと音を立ててラファエルの翼がしまわれるのが分かった。


「里帆、着いたよ」


 声をかけられた里帆がこわごわ、ラファエルの首から顔を離す。するとそこは見覚えのある寮のベランダだった。里帆は無事に地上へ帰ってこられたことに安堵する。


「里帆? くっついてくれるのはすごく嬉しいんだけれど……、大丈夫?」

「あ! ごめんなさい! 重かったよねっ?」


 ラファエルに声をかけられた里帆は慌ててラファエルの首から手を離す。


「もう、降ろしてくれて大丈夫だから!」

「えー?」


 不満そうな声を上げるラファエルを見ていると、先程まで自分からラファエルにしがみついていたことを思い出す。その瞬間、里帆の顔に血液が集まり一気に赤面する。


(私、もしかしなくても、とんでもなく大胆なことをしでかしたんじゃ……?)


 そんなことを考えれば考えるほど、里帆の顔はどんどんと赤くなり熱を帯びてくる。


「里帆?」


 突然押し黙ってしまった里帆へラファエルが不思議そうに声をかける。その瞬間、里帆はラファエルの腕の中から逃れようとジタバタし始めた。


「ちょっ、里帆っ? 危ないよ!」

「私、買い物に行きたいの! だから、すぐに降ろして!」

「分かった! 分かったから、暴れないで! ねっ?」


 急に暴れ出した里帆をなだめながらラファエルは里帆をベランダへと降ろす。降ろされた里帆は早口で、


「ありがとう! はい、これ、羽! 返すね!」


 そう言ってラファエルの胸に羽を押しつける。急な里帆の態度の変わりようにラファエルは呆気にとられながら里帆から羽を受け取った。それを確認した里帆は、


「じゃ、じゃあ私、買い物に行ってくるから!」

「あ、じゃあ僕も一緒に……」

「来なくていい! 大丈夫! 一人で行ってくるから! ラファエルは部屋でゆっくりしていて!」


 ラファエルの言葉を遮ってそう言い切ると、里帆は部屋の鍵と財布を手にして、家を飛び出した。


(こんなにも心臓が速く脈打っていて、こんなにも顔が熱い……。こんな私、とてもじゃないけれどラファエルには見せられないわ)


 早足でスーパーまでの道のりを歩いて行く里帆の様子を、ラファエルは三階の里帆の部屋からハラハラしつつ見守っているのだった。

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