四⑨

「里帆がそんなに忙しいときに、僕だけ家でゆっくりなんてできないよ」

「でも……、居場所がないわよ?」


 里帆の言葉を聞いたラファエルはにやりと笑う。


「忘れていない?」

「何を?」


 きょとんとする里帆へ、ラファエルが笑みを深くする。


「僕が天使だってこと。別に、地上だけが僕の居場所ではないから」


 ラファエルの言葉にますます疑問符を浮かべる里帆に、ラファエルはおかしそうに笑いながら、


「とにかく、僕は大丈夫ってこと! 心配してくれてありがとう、里帆」


 そう言ってラファエルは長い腕を伸ばすと、里帆の頭をポンポンと軽く叩く。そして里帆の頭の上に手を置いたまま、


「それより里帆。里帆の方こそ無理しないでね」

「だ、大丈夫よ」


 里帆は頭の上に置かれたラファエルの大きな手のひらを意識しながら言葉を返す。ここ数日の間は忘れられていた心臓の高鳴りを、里帆は否が応でも感じてしまうのだった。

 そんな里帆の様子には気付かず、ラファエルが言葉を続ける。


「辛くなったら、ちゃんと話すんだよ?」

「分かった……」


 ラファエルの真剣な表情と声音に、里帆も高鳴る心臓を無視して返答する。その里帆の言葉を聞いたラファエルは、よし、と満足そうに頷くと、里帆の頭の上に載せていた手を動かし、里帆の髪をくしゃくしゃにする。


「ちょっと! ラファエル! 何するの?」


 驚いて言う里帆に、ラファエルは笑顔だ。そして髪をくしゃくしゃにした勢いのまま、


「里帆、好き!」


 そう言って里帆を抱きしめてくる。

 急に抱きしめられた里帆は恥ずかしさから、その腕の中でジタバタと暴れるのだが、暴れれば暴れるほど、ラファエルの腕の力は強くなり里帆を離さないのだった。

 翌日の大晦日、里帆は夕方に起床した。


「おはよう、里帆」

「……、おはよう……」


 寝ぼけ眼の里帆に既に起きていたラファエルが声をかける。里帆はラファエルに返事をすると、もぞもぞとベッドから這い出て顔を洗った。冬の冷たい水で顔を洗うと、顔だけではなく気持ちもシャキッとしてくる。

 顔をタオルで拭いた後、里帆は食事の用意を始めた。そうしてゆっくりと出勤に向けての準備に取りかかっていく。

 食事や出勤準備を終え、少し家事を行うと日はとっぷりと暮れ、いよいよ大晦日の夜が始まった。里帆は忘れ物の有無を確認すると、職場である神社に向けて家を出る。その傍には当然、ラファエルの姿もある。


 寮から神社までの道のりはまだ人もまばらで、しかし夜にしては賑やかな雰囲気に包まれていた。神社の参道にも二十二時前だと言うのにまばらに人影がある。参道には小さいながら屋台も出ていた。


「なんだかお祭りのようだねぇ」


 ラファエルはその様子を物珍しそうに眺めていた。普段とは違った雰囲気の神社の境内で立ち止まると、里帆はチラリとラファエルを見上げる。


「ラファエル、本当に大丈夫なの?」

「何が?」

「人混み」


 端的な里帆の言葉に、ラファエルはにっこりと微笑むと、


「大丈夫だって!」


 そう返して自身の胸を叩いた。里帆は少し後ろ髪を引かれる思いの中、


「じゃあ私、行くね」

「いってらっしゃい、里帆」


 ラファエルの笑顔に見送られて、里帆は更衣室へと向かって歩き出すのだった。

 緋袴に着替え、長い黒髪を後ろに一本に束ねる。里帆の周囲の空気がピンと張るのが分かる。それから社務所へと向かった里帆は、数人の巫女と共にこれから始まる年越しに向けての引き継ぎを行った。

 それから始まった業務では、授与品や甘酒、おみくじの確認を行っていく。現場は後輩の巫女に任せている里帆はそれらに不備がないかを確かめ、現場の巫女の疑問や不安を聞いていく。


 そうして慌ただしく動いているうちに、神社の境内には年越しを神社で迎えようとする参拝客が少しずつ集まり、鳥居の位置まで初詣の行列が出来ている。里帆たち巫女は専用通路を通って神社の中を移動しながら、参拝客の中に異変がないか目を配る。そして時刻が刻一刻と深夜零時に近付く頃、神社の境内と参道が参拝客で埋め尽くされる。

 里帆はチラリと境内を見やったが、あの目立つラファエルの髪色を見付けることは出来なかった。


(あまりの人の多さに驚いて、家に避難したのかな?)


 里帆はそう思うと、従業員用に確保されている通路を引き返そうと振り返った。と、その瞬間。


「里帆!」


 聞き慣れた低く優しい声音に里帆は驚く。そして声のした従業員通路の先に目をやると、人通りのない通路の真ん中に柔らかな淡い空色の髪を風に撫でられているラファエルの姿があった。


「ラファエルっ?」


 里帆は思わずラファエルの傍に駆け寄った。近付くと、ラファエルは優しく微笑んでいる。


「どうしてここに? そもそもあの人混みの中、一体どこにいたの?」

「気になる?」


 里帆の問いかけにラファエルはにやりと口端を上げた。そして、ふっと両目を閉じた瞬間、


(え……?)


 里帆の目の前に立つ青年の背中から、ばさっと音を立てて真っ白な大きな翼が現れた。それを見ていた里帆が目を丸くして呆然と立ち尽くす。


「里帆? おーい?」


 そんな里帆の眼前で一枚の真っ白な、ふわふわした羽を持ちながら、ラファエルが手をヒラヒラとさせている。里帆ははっとし、慌ててラファエルを見上げた。長身のラファエルが里帆を見下ろしながら不思議そうにしている。


「あ、ごめんなさい。ビックリしちゃって……。何だった?」


 里帆の問いかけにラファエルは気分を害した様子もなく、ふわふわとした柔らかそうな羽を里帆に差し出してくる。


「これ、持ってくれる? 里帆」

「う、うん」


 里帆が怖ず怖ずと手を伸ばし、差し出されていた羽を手にする。それを見た瞬間、ラファエルが里帆へと腕を伸ばし、その身体をふわりと抱きかかえた。


「えっ? ラファエルっ?」

「じっとしててね? 危ないから」


 ラファエルは斜め上の方を見上げながら言う。里帆は急に近付いたラファエルの端正な顔を直視できずに、視線を外した。そうしていると身体が重力から解放されたようにふわりと浮き上がる。驚いて下を見ると、どんどんと地面が遠ざかっていく。里帆がそっとラファエルの顔を盗み見ると、至近距離でラファエルは嬉しそうに微笑んでいた。その表情を見た瞬間、里帆の顔はぼっと上気する。それと同時に耳の奥から自身の心音がドクドクと早鐘を打つ音が響く。

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