四⑧

(こんなにドキドキしているのはきっと、私だけよね……?)


 平静を装いながら里帆はミネラルウォーターを口にする。飲みながらチラリと横目でラファエルを盗み見ると、ラファエルは嬉しそうにごくごくとミネラルウォーターを飲んでいる。


(ズルイ……)


 里帆は自分のミネラルウォーターに口を付けながらそんなことを思う。

 この自称天使はきっと、自分と一緒にいることで今の自分のようにドキドキすることはないのだろう。


(だって、自称天使だものね)


 しかしそれでは不公平と言うものではないだろうか。

 そもそも何故、ラファエルのことをこんなにも意識してしまうのだろう。そして何故、意識しただけでこんなにも心臓がうるさく高鳴ってしまうのだろう。


「里帆?」

「え?」

「え? じゃないよ。ぼーっとして、どうしたの? やっぱり具合が悪い?」


 里帆はいつの間にかじーっとラファエルの顔を見つめながら、思考の海を漂っていたようだ。そんな里帆をラファエルが心配そうに見返してきた。

 里帆は慌ててその端正な顔から視線を外す。


「ごめんなさい。何でもないの」


 そう言う里帆の傍にラファエルが近付いて言う。


「髪の毛、乾かそうか」


 にっこり笑って言うラファエルに、里帆は小さく頷いた。それを見たラファエルの笑みが深くなる。


「じゃあ、行こう!」


 ラファエルはそう言うと跳ねるように立ち上がる。里帆も手に持っていたミネラルウォーターの蓋を閉めて机の上に置くと、ゆっくりと立ち上がった。

 二人はそのまま洗面台へと向かうと、日々の日課となっている里帆の髪を乾かす作業を行っていく。里帆は自身の長い黒髪をラファエルに触られながら、鏡越しにラファエルの様子を窺う。


 ラファエルは相変わらず嬉しそうに里帆の髪を乾かしている。その様子を見ているだけで、里帆は自分の髪に神経があるような錯覚に襲われる。髪を通してラファエルの大きく温かな手の感触が伝わってくる。その感触は里帆の心臓をドクドクと脈打たせるのだった。

 里帆はそれを意識した瞬間にそっと鏡から視線を外した。


(これ以上は私の心臓がもたないわ)


 視線をラファエルから外しても、ラファエルの手の感触が髪を通して伝わる。しかしその姿を直視しないだけで先程よりも幾分か心臓の鼓動は収まってくる。


「終わりっ!」


 しばらくそうしていると、心地よい手の感触がなくなりドライヤーの電気モーター音が止む。

 里帆は少し残念な気持ちになりながらも、ありがとうとラファエルにお礼を言った。


「ラファエル。先に部屋に戻っていて」

「どうして?」

「いいから」


 里帆にそう言われ、背中を押されたラファエルは渋々といった様子で洗面所を後にする。里帆はそれを見送った後、キッチンに立つと冷蔵庫の中から買ってきた小さなホールケーキを取り出した。ケーキの上にあるクリスマスプレートを一度どかし、四等分にケーキをカットする。そして皿の上にケーキを置くと、ラファエルの分のケーキの上にどけていたプレートを乗せた。


「よし」


 里帆はその出来に満足すると、フォークを皿の上に置いてケーキを部屋へと運んだ。


「うわぁ! これはおいしそうだね、里帆!」


 目をキラキラとさせながら笑顔を見せるラファエルを見ただけで、里帆も自然と笑みが込み上げてくる。

 里帆はプレートの乗っている方のケーキをラファエルに差し出した。ラファエルは自分の方にだけあるチョコレートで出来たクリスマスプレートをしげしげと見つめた。


「これは何?」

「プレートよ。食べられるわ」


 にっこりと柔らかく微笑んで言う里帆に、ラファエルはなおも不思議そうに口を開く。


「里帆にはないの?」

「プレートは一枚しかないから。ラファエルが食べて」


 微笑んで言う里帆の言葉に、ラファエルが一瞬、ふむ、と押し黙る。そんなラファエルの様子を里帆が不思議そうに見ていると、ラファエルはおもむろにケーキの上のプレートを手に取る。そしてパキッと小気味の良い音を立てて、プレートを真っ二つにし、片方を里帆のケーキの上に置いた。


「メリークリスマス」


 そうしてにっこりと微笑むラファエルに、里帆は目をぱちくりとさせる。状況が飲み込めた瞬間、里帆は照れくさくなって俯きながら、


「メリークリスマス……」


 そう返すと、二人はクリスマスケーキに舌鼓を打つのだった。 




 クリスマスが過ぎると瞬く間に年の瀬が迫り、里帆たち巫女は多忙を極めていった。

 里帆は帰宅後、すぐに眠りに就き、翌日の業務に備える日々を送っていた。そんな里帆の様子をラファエルは心配そうに見守っている。

 そうして過ごしていくうちに、たちまち大晦日前日の十二月三十日を迎えた。

 この日の業務を早めに切り上げた里帆は、いつものようにすぐに眠りに就くのではなくゆっくりとした夜を過ごしていた。


「あれ? 里帆、今夜はゆっくりなんだね」


 ここ数日間の様子だと、もう眠っている時間だというのにまだ起きている里帆のことを不思議に思ったラファエルが声をかける。里帆はチラリとラファエルを見やると、


「明日から私、一月三日まで夜勤なの」

「夜勤?」


 ラファエルが質問を重ねた。その声に里帆が答える。

 明日の大晦日から三が日にかけて、巫女の業務が一年でいちばん忙しくなる、と。それだけ新年を迎えることは重要な行事の一つであると。


「参拝客の数も今までの比じゃないくらい多くなるの。特に明日の大晦日から元旦にかけては、境内が参拝客で溢れ返るのよ」


 だから、と里帆は鞄の中から自分の部屋の合い鍵を取りだしてラファエルへと差し出す。


「これは?」

「この部屋の合い鍵よ。明日の夜は、ラファエルがいつも座っているベンチも参拝客でごった返すから。先に帰っていて大丈夫よ」


 里帆の説明を聞いたラファエルが目をぱちくりとさせる。年末年始の巫女の業務がそんなにも忙しいとは思ってもみなかったのだ。


「ラファエル?」


 ぼーっとして合い鍵を受け取ろうとしないラファエルに、里帆が声をかける。その声を聞いてラファエルははっとした。


「な、何?」

「何? じゃなくて。鍵、いるでしょう?」


 問われたラファエルは差し出された合い鍵を見つめながら困ったように曖昧に微笑んだ。

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