第9話 腫れ物に触ってくる奴

 隣に座る客が前後に揺れ始めた。熱さに耐えかねているのだろう。

 すぐに限界が来たらしい。立ち上がり、足元の床に座る客たちをかき分けながら、出口の扉を開けた。

 テレビではまだ柔道の試合が行われていた。

 ぼうっとしながらテレビを見ていると、隣の席に誰か座った。気配で若い人だろうという気がしたが、凝視するわけにもいかず、そのまま確認せずにテレビ画面を見つめた。

「先輩じゃないっすか」

 そう声をかけられて、視線を右下に落とした。二メートル弱身長がある耕太郎は、座高も高い。だから、顔を確認しようとしても、必然的に目線が下がる。

「覚えてませんか。オレ、バレー部で先輩と一緒だった」

 なんとなく顔を覚えてなくはないが、正直名前も忘れた。いや、初めから知らないのかもしれない。

「ゴメン……、最後までオレいなかったからさ。正直あんま覚えてない……」

 心なしか、耕太郎は背中が丸まってしまった。思いがけず、嫌な思い出がフラッシュバックした感じになった。心臓の鼓動が乱れているのかもしれない。サウナの温度が誘う汗とはそれとは違う汗が、混じって毛穴からあふれ出ていた。いたたまれなくなって、耕太郎は立ち上がろうとした。名も知らぬ後輩とやらが言った。

「そうですよね。期待されて入部したのに、変になっちゃって逃げたんですよね」

 明らかに怒っているみたいだ。「先輩が自分の存在を忘却している」ことへの、怨嗟と非難の入り交じった言葉と語調に両肩を掴まれたような気がして、立ち上がれなかった。

「試合にも負けちゃって、いつもより結果が下がっちゃって、大変でしたよ、あの後。先生も散々文句言ってましたよ」

 嫌な思い出の核心に触れられて、耕太郎は動けなくなってしまった。

 名も知らぬ後輩とやらは持っていたタオルで、額から吹き出す汗を拭う。視線はテレビの方に向かっているが、意識のなかには入り込んでいないようで、番組の内容に何も反応しなかった。

 耕太郎は、顎、髪、肘の先から汗が滴ってくる。耕太郎もテレビの方を見ている。妙にテレビ番組の内容に集中してしまう。

 テレビでは芸人が柔道選手に背負い投げを決められ、一本負けをしていた。一瞬の隙をつかれてしまった。芸人は荒い呼吸をして、呆然と畳の上に寝転んでいる。顔のアップになるのだが、顔中に汗を掻いている。目は充血していた。善戦といっていいだろう。スタジオの映像に切り替わると、他の芸人たちが拍手を贈る。

「悔いはないけれど、再戦したい」と戦った芸人が言うとみんなエールを贈った。誰も彼を責めなかった。

 耕太郎が生まれる遙か昔のバスケマンガみたいに、涙と鼻汁を垂らしながら、先生に「バスケしたいです」とか言えば、横に座る、名前も知らない後輩とやらは納得したんだろうか。顧問も。

 不思議とこの小さな部屋にいる男たちは、じっとテレビを見るだけで、誰もテレビの雰囲気に同調しなかった。

 何か言わないと、と耕太郎は思うのだが、何を言っていいのか分からない。

 耕太郎が何も反応しないのに苛立ったのだろう。「胸くそ悪い」という表情で、後輩はじっと耕太郎の顔を見ている。耕太郎の視線の端にその表情が入ってくる。見たくもないが。

 しばらくそのままでいたが、サウナの熱気に堪えられなくなったか、「じゃあ」と言って立ち上がろうとした。

「ちょっと聞きたいんですけど、それで君たちの学年のバレー部は結果どうだったのでしょう」

 止めてもしかたがないのだが、気づくとそんな言葉が口から滑り落ちていた。なぜか、敬語になった。自分が卑屈になっているのがわかる。

「君も今は高校生ですよね。中学の大会のこと教えてください」

「ええと・・・・・・」言いよどんでいる。「・・・・・・二回戦で負けました」

 意図が明確な空白からのぼそりと出た言葉に、耕太郎の鼻から失笑が漏れた。

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