12月 ラスティ・ラブ

 今夜は見事な星空だった。冬というのは、どうして星が冴えて見えるんだろう。北国の刺すような冷たさがそうさせるんだろうか。

 もうすっかりコートにマフラーが手放せない季節だ。札幌のみならず千歳のいたるところでホワイトイルミネーションが輝いている。

 街を歩けばキンと尖った空気で頬が痛いほどだ。かえって雪が降るほうが温かく感じるものだよ。今夜みたいに雪のない夜のほうがかえって寒く感じるね。

 琥珀亭の中は温かくて過ごしやすいが、それでもお湯割りが恋しくなるような夜だった。

 だが、今夜はカウンターに小さな花が咲く。今月の雨森堂の上生菓子は『水仙』だった。


「どうぞ」


 そう言って上生菓子をぎこちなく差し出してくれたのは尊でも真輝でもなく、志帆だった。

 身重の真輝は店に出ることを尊から禁止されている。ここは煙草の煙を避けられないからだ。

 その人手不足を補う志帆はバル『エル ドミンゴ』の見習いバーテンダーだ。オーナーの暁の計らいで琥珀亭に出張していると尊は説明してくれたが、実際は琥珀亭の弟子だった暁に志帆から願い出たらしい。


「志帆、もうちょっと肩の力抜きなよ」


「え? 力入ってます?」


 おどおどする志帆が、深呼吸してみる。肩の位置が傍目にわかるほど、ふっと下がった。


「ほら見ろ」


「本当だ」


 志帆がぎこちなく笑う。


「志帆ちゃん、緊張しなくていいからね」


 尊が声に出して笑った。


「助かるよ。やっぱり一人じゃキツいからさ」


「いえ、私もよい修行になりますから。よろしくお願いします!」


 志帆が元気一杯に頭を下げた。

 私は「ふぅん」と目を細めて唸る。志帆は暁に惚れてるんだが、それと同じくらい自分の仕事にも夢中なんだ。なのに、自分から店を離れたってことは……何かあったかな。

 まぁ、若いうちはいろいろあるもんさ。そう考え、私はメーカーズマークを傾けた。

 志帆が来て二日目だが、彼女はなかなか筋がいい。技術のことは私には詳しくわからないが、一度言われたことはすぐ頭に入るタイプなようだ。なにより、人と馴染むのが早いのが天賦の才といえるかもしれない。

 この日も、琥珀亭の常連とすっかり打ち解けていたようだった。

 なんとなく尊が新米だった頃を思い出し、懐かしい気持ちでいっぱいになった。尊は一生懸命を地でいくような仕事ぶりで、見ていて清々しかったものだ。

 だが、志帆はそれよりもっとハングリーに見えた。尊が腕を振るうとき、じっと見つめる目がライバルを見る目つきだった。いや、親の敵を見るような目といってもいいかもしれない鋭さがあった。

 先が楽しみだと、私はそっと微笑む。

 志帆はどんなバーテンダーになるかね。もしかしたら暁も顔負けの名バーテンダーになったりしてね。そんなことを考えているうちに、時計は十二時をまわっていた。


「志帆ちゃん、今日はもういいよ」


 すっかり客のひけた店内で、尊がにこやかに言う。


「え? でもまだ……」


 志帆が私に視線をちらっと送る。


「いいの、いいの。お凛さんはお客さんだけど、特別だから」


 ふむ、どんな意味かは追求しないでおこう。

 私はメーカーズマークに手をかけて、志帆をにやりと見やった。


「志帆、こっちに来て一杯だけ付き合いな」


「はい! お疲れ様でした!」


 志帆がパッと顔を輝かせて礼をすると、更衣室に向かう。


「お凛さん、ちょっと失礼」


 尊がそのあとを追う。やがて、少し話し声がして、尊が戻って来た。今日の賃金でも渡したんだろう。

 志帆はニットのセーターにタイトなジーンズとブーツというシンプルな出で立ちでカウンターに戻って来た。

 真輝や尊を見ても思うんだが、バーテンダーの衣装を脱ぐとこうも雰囲気が変わるものかねと舌を巻く。

 彼女は私の傍らに座ると、盛大にため息をついた。


「思い知ったわ。私、今まで暁さんに甘やかされてきたのね」


 彼女は眉を下げて笑う。


「自分が情けなくなるの、久しぶり」


 仕事中は敬語だったが、バーテンダーの服を脱いだ彼女はすっかりいつもの口調に戻っていた。


「尊さん、凄いわ。見習います」


 尊が照れたように笑って、志帆のグラスに私のメーカーズマークを注ぐ。


「志帆ちゃん、真輝はもっとスパルタだよ」


 志帆が「あの物静かな真輝さんが? 嘘でしょ?」と、目を丸くする。


「あいつは仕事の上では菩薩の顔をした鬼だと思ったね、新米だった頃の俺は」


 尊のしみじみした声に笑いが起きる。

 尊にもウーロン茶をごちそうし、三人で乾杯が交わされた。


「この前もね、暁さんの前でとんだ赤っ恥かいて」


 志帆が長いため息をついてうなだれた。


「カクテルに『ラスティ・ネイル』ってのがあるじゃない」


「あぁ、うん」


 レシピを思い出しているのか、尊が視線を上にやった。

 『ラスティ・ネイル』はスコッチ・ウイスキーとドランブイをステアするシンプルなカクテルだ。


「私、そのカクテルの意味を勘違いしていたの。ネイルって、てっきり爪のことだと思っていたのよ」


 彼女は自分の短い爪をしげしげと見やった。


「なんだか艶かしい女の人の爪のことなのかなぁってイメージしてたのよね。そしたら本当の意味は『錆びた釘』でしょ?」


 そう、『ラスティ・ネイル』の意味は『錆びた釘』だ。その色が錆びた釘に似ているからという説と、俗語で『古めかしい物』という意味をもつからという説があるがね。


「私、ネイルの綺麗な人にすすめるつもりだったのよ。冷や汗かいたわ! 暁さんからは『勉強不足だ』って散々からかわれるし」


 そこまで言うと、彼女は冗談めかして顔をしかめた。


「そのからかい方がね、本当に憎たらしいの。もう、いっそ暁さんに錆びた釘でも打ち込みたいわ」


「おっかねぇな。丑三つ時に五寸釘でも打ち込むわけ?」


 尊が笑うと、志帆が破顔する。


「そうじゃなくて。錆びた釘って抜けにくいって言うじゃない。あの人の気持ちに打ち込んで、しっかり繋ぎ止めたいなって意味よ」


「へ?」


「昔の大工さんが釘を打つとき、釘を口にくわえてるでしょ。あれは釘が錆びて抜けにくいようにするからだって聞いたことあるもん」


 彼女は「ふふ」と笑みを漏らす。


「気持ちを繋ぎ止めるにはよさそうじゃない」


「お前の思考回路がわからないよ」


 尊が呆れたように笑う。


「暁さんのほうがもっと謎よ」


 軽快な二人のやりとりを見て、私は目を細めた。

 暁と志帆が二人で肩を並べて立つ姿を想像してみる。なかなか似合ってると思うがね。この二人もどうなることやら。


「この前、テレビでやってたんだがね」


 私は苦笑を浮かべ、志帆に言ってやった。


「京都の祇園祭の山鉾はね、組み立てるときに釘を使わないんだとさ」


「え?」


「激しく動くからね、釘を打つと木が割れてしまう。だから、縄で全部組み立てるそうだ。少しはあそびがなくちゃいけないよ。がんじがらめにしようとしたって駄目さ。人の心なんて、それはそれは脆いものだもの」


 志帆がちょっと眉を下げて笑う。


「うん、脆いってのはわかるわ」


 そう言って、彼女はメーカーズマークを口に含んでから、こう続けた。


「がむしゃらに走って走って、ふっと立ち止まったときってね、心が錆つく気がするの」


「うん」


 身に覚えがあるのか、尊が静かに笑った。


「だけど暁さんは笑顔一つで簡単に錆を擦り取ってくれるの。呆気ないくらい簡単に」


 志帆は恋する女の顔で言った。


「他の誰かが錆を取ってくれる日がくるかもしれないけど、今のところはそうできるのは暁さんだけだから……」


 それを聞きながら、私は複雑な思いを抱えた。志帆の惚れた男が暁だから錆びついた心を拭えるというのは、間違いではない。けれど、きっとそれだけではないだろう。

 暁自身ががむしゃらに走って、ふと足を止めたときに襲う虚しさを誰よりも知っているからだ。だって、彼は長いこと真輝に対してそうだったんだからね。そして、無意識に志帆の中にかつての自分を見出し、救いたくなるんだろう。

 伏し目になる志帆は、きっと本当は弱気なんだ。誰かに背中を押して欲しいとき、彼女はここに来るんだね。特に、尊は同じような気持ちを知っているから聞いて欲しいんだろう。

 だけど、だからって何かをねだる訳じゃない。ただ、自分で口にしながら気持ちの整理をつけるんだ。

 それを見透かすように、尊が笑う。


「愛情なんてさ、すぐ錆つくんだよ。片想いでもそうだけど、両想いなら尚更さ。お互いぶつかって、触れ合って、錆を落とし続けるんだ。俺だって、上手に磨けてるか自信はないけどね」


 彼はそう言うと、カウンターから出て扉へ向かった。外の看板を中にしまい、琥珀色の外灯を消す。


「早じまいしたこと、真輝には内緒だよ」


 彼は唇に人差し指を当て、カウンターに戻って来た。そして、戸棚から一本のウイスキーを取り出す。

 照明に輝くのは、タリスカーだった。彼はグラスに氷とタリスカーを入れながら、志帆にこう言った。


「君の好きなタリスカーは、真輝の死んだ旦那のお気に入りだったんだよ」


「へぇ、そうなの?」


 目を丸くする志帆に、彼が呟く。


「誰かがつけた錆を落とすのは大変だけど、俺は諦めたくなかった。真輝の錆びた心の下はどんな色をしているのか、知りたかったからね」


 志帆が笑いながら、こう言った。


「ま、錆は分厚ければ分厚いほど、燃えるわよね」


 ふむ、この調子だと当分の間は退屈しなさそうだ。私は苦笑しつつ、眩しいものでも見るように目を細めた。

 ゆっくりとグラスを傾けていると、話は真輝のことへと移っていく。


「つわり、ひどいんですか?」


 志帆が気遣うと、尊が「あぁ」と頷いた。


「ちょっと前は股関節が痛くて起き上がるのも辛いって言ってたけど、今はなんだか今まで好きだった香りも駄目になるのがしんどいってさ」


「あぁ、真輝さん、お米好きだもんね……」


 志帆の頭の中にはよくドラマに出てくる、炊きたての米の匂いに「うっ」と口をおさえるシーンが再生されているんだろう。それに、真輝が痩せの大食いだという予備知識が生み出した言葉だろうなと思うと、思わず苦笑した。

 尊もそれに勘づいてか、声を出して笑う。


「柔軟剤とかトイレの芳香剤とか、そういうのも駄目になったみたいだよ。足がむくんだり、湿疹ができたり、便秘になったり、いつもの自分じゃなくなるみたいだって言ってた」


「へぇ、そんなものだったかな」


 息子を妊娠していたのは何十年も前のことで、正直覚えちゃいない。そんな私に、尊がぽつりと言った。


「お凜さんは、真輝のお母さんのこと知ってるんですよね?」


「あぁ。どうした、いきなり」


 思わず怪訝な顔になると、彼がしんみりと言った。


「真輝がね、『初めて母親をすごいと思った』ってぽつりと言ったんですよ」


 真輝の母親は琥珀亭の先代夫婦の一人娘だ。蓮太郎さんはバーテンダーになって欲しいと願っていたようだが、そんな父親に反抗するかのように看護師になった。

 そして公務員と結婚して真輝をもうけたものの、真輝が高校生のときに男と家を出てしまったのだ。仕事と家庭と自分のバランスを崩したんじゃないかと思っているがね。職場で出会った男と一緒になっているはずだ。

 真輝はそんな母親を長いこと恨んできた。腹を割ってその話をすることもないから、本当のところはどう思っているか知らないが、よく思っていないことは明らかだった。母親の名前を耳にすることすら、嫌がるんだから。

 その真輝が、初めて母親を認めるなんてね。思わず目を丸くした私に、尊が少しばかり嬉しそうに微笑む。


「あいつね、『こんな大変な思いをして産んでくれただけ、ありがたい』って言ってたんです。それに『母親にしかわからない辛さや大変さが少しずつわかれば、なんだかもっと彼女と向き合える気がする』って言ってました」


 そして、こう言いながらグラスに氷を足す。


「俺はありがたいことに、そういう親への確執みたいなものってないんです。だから、真輝に寄り添いたくても、かゆいところに手が届いてるとは言えない気がして、もどかしいんです。だから俺ね、彼女がそう言ってくれて嬉しいんですよ」


 カラン、と氷が鳴るのと同時に、尊が呟いた。


「……俺には何もしてやれないから」


 自分には祈ることしかできないという意味だろうか。もし、そうならとんだ過小評価だと思うがね。

 真輝の母親に対する錆びついた愛情に輝きが戻りかけているのは、尊の存在が大きいはずだ。

 志帆も隣で苦笑している。


「だからこそ、尊さんがいいんだと思うわ」


 さっきの気弱さはどこへやら。今度は励ますような力強い口調だった。


「誰がどんな愛情を欲しがっているかなんて、家族にだってわかりゃしないのよ。その人じゃなきゃ、ぴったりはまる恋愛の形なんてわからない。けれど、それでも寄り添い続けるというのが大事なんじゃないかな」


 彼女の横顔を見やると、少しだけ、自分に言い聞かせているようにも感じた。


「愛情って、最初はいびつでも、相手の形に馴染んでじんわり溶けていくものかもしれないわね」


 タリスカーを飲んでほろ酔いの尊と志帆が恋愛論を繰り広げている。私はその間、ぼんやりとメーカーズマークを見つめていた。


「……愛情は酒に似ているな」


 ふっと口をついて出た言葉に、志帆がとびつく。


「どうしてそう思うの?」


「熟成して美味くなるものもあれば、寝かせすぎて失敗することもある。気化して失うものもある。だけど、いつも輝いてる。なにより人を酔わせる」


 尊がふっと笑う。


「それにカクテルみたいに、いろんな物を混ぜて新しい形が生まれることもある、か」


「初めて聞いたな、お凛さんが恋愛を語るの」


 志帆が何故か嬉しそうに笑った。


「まぁ、恋愛に限ったことじゃないがね」


 なんだか少し照れくさくなり、手元のグラスを見つめた。少なくとも、恋愛を語るような歳ではないからね。

 けれど、心底思うんだよ。

 何故、私がこの琥珀亭に入り浸るかといえば、ここは酒の中に人生を映す場所だからだ。もちろん普段はそんなことをいちいち考えたりはしないけれど。


 恋愛だけじゃない。過去、未来、信念、後悔、友人や家族が映ることもある。そういう人生の一幕が垣間みれる場所なんだ、ここは。

 酒がそれらを彩っていくと、もっと哀しく、優しく、そして甘美なものをまとうんだ。

 私はふっと目を細めて、メーカーズマークを飲み干した。このボトルの赤い蓋を開けるたび、私は人間を好きになっていく。そんな気がした。

 楽しみだね。

 志帆がどんなバーテンダーになるか。暁と志帆が微笑み合って過ごすときが来るのか。

 尊と真輝の子どもがどんな風に育つのか。この琥珀亭はいつまでこうしてあり続けるんだろう。

 息子は料理人としてどんな人生を歩むんだろう。大地はチェロとどう向き合っていくのか。

 そして、私はどんな言葉を残して死んでいくのか。誰の心に何を残せるんだろう。

 あぁ、だから私は生きるのが好きなんだ。そう、好きなんだよ。

 きっと、明日もそう思いながらメーカーズマークを飲む。季節の上生菓子に時の流れと情緒を感じながら、それでも今このときが永久に続けばいいと願う矛盾を抱えて生きるんだ。

 この琥珀亭でね。

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