11月 スウィート・ホット・アルコホリック

 琥珀亭の常連というと、何人くらいいるのだろう。まぁ、指折り数える気にもなれないが。

 数多の常連の中でも、私が一番親しいのは志帆という女だろう。いちいち約束はしないものの、顔を合わせれば必ず隣り合わせで飲む。

 この日も琥珀亭にぶらりとやって来た志帆が、当然のように私の隣に座っていた。

 一度も染めたことのない黒髪を前下がりのショートにし、薄化粧をしている。可愛い顔つきだが、とびっきりって訳でもない。だが、すごく魅力的なんだ。人を惹きつけるといったほうがいいかもしれない。飄々とした性格とウィットがそうさせるのだろうか。

 彼女は孫の恋人である千里と同い年のはずだった。相当な年の差にもかかわらず、何故か私になついている。もっとも、私も悪い気がしないがね。

 志帆は湯気のたつおしぼりで手を拭きながら、こちらへ話しかけてきた。


「お凛さん、久しぶりね」


「志帆、しばらく見なかったね。どうしてたんだい?」


 メーカーズマークを持ち上げながら訊くと、彼女は丁寧におしぼりを畳み始めた。


「風邪ひいちゃってね、寝込んでたの」


「おやまぁ」


 うっすら鼻が赤いのは外を歩いてきたからだと思っていたが、もしかしたら鼻のかみすぎかもしれない。


「もう大丈夫なのかい?」


「大丈夫とも言い切れないけど、でも、ここでアルコール消毒していくから平気よ」


 志帆が快活に笑った。こうして冗談にしてしまうのは、心配されたことへの照れ隠しだろう。

 尊が笑みをこぼしながら、志帆に話しかけた。


「志帆ちゃん、今日は何にする?」


 週に二度は現れる志帆は、すっかり尊の妹分だ。


「タリスカー、ハーフ・ロックで」


 志帆と私が意気投合した理由はここにある。彼女もウイスキーが大好きなんだ。

 私は「いい趣味だ」と小さく微笑んだが、オーダーを聞いた尊の目にちょっとした切なさがよぎったのを見逃さなかった。

 タリスカーは真輝の初婚の相手が好きだったウイスキーだ。そのせいか、尊はタリスカーのオーダーを受けるたび、そういう切ない笑みを浮かべる。もっとも、真輝と私くらいしか見抜けないだろうがね。

 それは初婚の相手への嫉妬とかそういう安易なものじゃない。ただ、どうしてもよぎるんだろうね。

 志帆もこのウイスキーを好み、しょっちゅう尊にそういう顔をさせるのだ。そうとは知らず、タリスカーを掲げ、志帆が私に向けた。


「乾杯」


 私たちはグラスを近づけ、鳴らさずに乾杯をした。グラスをカチンと鳴らすのは気持ちいいんだが、あれをするとグラスがダメージを受ける。それを知らない人と乾杯するときは私も鳴らすが、志帆とはしない。志帆はそのことを知っていて、琥珀亭のグラスを傷めないように気をつけているからだ。

 何故、志帆がそんなことを知っているかと言うと、話は簡単。この子は隣の恵庭市にあるバル『エル ドミンゴ』で働いているバーテンダーだ。つまり、琥珀亭の弟子だった暁がもった弟子というわけだ。


「志帆ちゃん、和菓子は好き?」


 尊が不意にたずねると、彼女はきょとんとしてうなずいた。


「えぇ、好きよ」


「今日はお凜さんの雨森堂の日なんだけど、よかったら志帆ちゃんもどう?」


 そんなわけで、志帆の前には特別にお通しだけでなく雨森堂の上生菓子も並ぶことになった。今日のお通しはホタテのソテーらしい。あまり貝類が好きじゃない私には、上生菓子だけで万々歳だ。

 今月の上生菓子は『千鳥』だった。赤に緑を混ぜた色合いに、白をぼかした煉り切りを布巾で絞って千鳥の形に整えられ、黒ごまの目があしらわれている。


「可愛いわね」


 そっと包み込むように志帆が上生菓子の乗った器を持ち上げてしげしげと見入った。だが、すぐに笑みをこぼして私を見た。


「そういえばお凜さんが千鳥足になったところを見たことがないわ」


 思わず苦笑する。


「千鳥はね、酔ってふらふらしてるんじゃないよ。あれは懸命に虫を捕まえているときの動きなんだから千鳥足って言葉を酔っ払いに使っちゃあ、千鳥に失礼かもしれんよ」


 それを聞いた志帆が、「あぁ」と声を漏らす。


「虫といえば、昨日、雪虫を見たわ」


 雪虫というのはアブラムシの仲間なんだが、白い綿毛をまとって飛ぶ虫といえばいいのかねぇ。ちょうど初雪が降る頃に大量に現れるんで、こいつを見ると『冬が近いな』と思うわけだ。

 それだけ聞くと風流に思えるが、うっかり口を開けたり、自転車に乗っているときには、目や口に突っ込んでくるからやっかいなんだがね。


「早いもんだね、一年なんて。雪が溶けたのはついこの間のような気がしたもんだけど、もうそろそろ初雪が降るかもしれないね」


 ぶるっと身震いしながら私は千鳥を口にした。なんだか今夜は底冷えするよ。


 そこへ琥珀亭の扉が開いて、呼び鈴が鳴った。入って来たのは若い女だった。二十代後半といったところだろうか。丸い顔をした優しげな女だった。どこかで見た気もするが思い出せない。

 耳と鼻が赤いのは、志帆のように風邪のせいではないだろう。夜遅くになると、寒さが骨身にしみるからね。


「沙耶さん!」


 真輝が、その女性の名を嬉々として呼んだ。『待ち人来たる』と、その顔がそう言っていた。いらっしゃいませと言わないところをみると、客ではないらしい。

 入ってきた女性はにこやかに「こんばんは」と言いながらカウンターに歩み寄った。尊が期待のこもった目で彼女に話しかけた。


「もしかして出来たんですか?」


 一体、何が出来たというのか。興味津々で見守っていると、沙耶と呼ばれた女性が大きなトートバッグを掲げて照れたように笑った。


「うん、まぁ、試作品なんだけど」


 尊が促し、沙耶はカウンターに座った。

 私が横目で見ていると、彼女はバッグから小さなケーキの箱を取り出した。


「これ、今日の売れ残りで悪いんだけど差し入れです」


「わぁ! 嬉しい! ありがとう、沙耶さん」


 痩せの大食いの真輝が歓声を上げた。どちらかといえば辛党のはずだが、ケーキは嫌いではないらしい。けれど隣にいる尊のほうがもっと顔を輝かせているから、真輝は『尊が喜ぶ』のが嬉しいのかもしれないね。

 ケーキの箱にプリントされた『ラ・ボエーム』と店名を見つけ「あぁ、そうか」と、人知れず納得した。

 彼女は近所のケーキ屋の娘だ。確か製菓学校を出て、店の手伝いをしているはずだった。

 もっとも、『ラ・ボエーム』と聞いて私がまず思い出すのはオペラだがね。その名の意味は『ボヘミアン』で、自由に囚われない生き方を選んだ民だ。

 考えてみれば、あのケーキ屋も野菜のケーキを作ったり、塩麹のデザートを出してみたり、枠に囚われないって話だからね。なんとなく、店名に納得したよ。


「気に入ってもらえるといいんだけど。幾つか用意してきたわ」

 

 そして彼女はトートバッグからタッパーを取り出した。子どものようにワクワクした顔で、真輝がそれを見つめている。

 さてはて、今夜は一体何が起こるのかね? 私も志帆も、興味津々でその光景を見ていた。


 沙耶が取り出したタッパーをカウンターに広げていく。中から出て来たのは色とりどりのお菓子だった、

 小さいケーキやクッキーのようなもの。オレンジピールをチョコで包んだショコラ・オランジェ。マシュマロやナッツ、ドライフルーツが入っているらしいガナッシュ。スライスした桃を重ねて薔薇のように見せた物が沈むゼリー。

 あっという間にカウンターが華々しい雰囲気になった。


「わぁ!」


「これは凄いですね」


 真輝と尊が歓声を上げる。


「お凛さん、志帆ちゃん、これ何だかわかります?」


 尊がこちらを向いて、にこやかに問いかけてきた。


「お菓子だろ」


「お菓子よね」


 志帆と二人できょとんとしていると、尊がもったいぶるようにゆっくり言った。


「ただのお菓子じゃありませんよ。琥珀亭新メニュー、お酒を使ったお菓子の試作品です」


「へぇ。なるほどね」


 身を乗り出して見ていると、沙耶が私に微笑んだ。



「もしかしてバイオリン教室の三木先生じゃないですか?」


「あぁ、そうだが……先生ってのは止めておくれ。教室の外でまでそんな呼ばれ方をされるとむず痒くなるよ。お凛さんでいいから」


 苦笑いすると、彼女は律儀に頭を垂れる。


「私、『ラ・ボエーム』の娘で沙耶と申します。いつも大地君と千里ちゃんがうちのケーキを御贔屓にしてくれまして。ありがとうございます」


 あぁ、なるほど。私は孫とその彼女を思い出して、ふっと笑う。


「あの二人は大の甘党だからね。こちらこそ、いつも孫たちが世話になってます」


「よかったら、お凛さんも試食してみてください。お連れのかたも是非」


 沙耶が言うや否や、真輝が取り皿にお菓子を乗せ始めた。


「沙耶さんとずっと前に話してたんですよ。お酒を使ったお菓子を琥珀亭とラ・ボエームで一緒に作ってみたいねって」


 真輝がそう言って、甘いものが盛りだくさんの取り皿を渡してくれた。

 上生菓子の千鳥をいただいたばかりだが、甘いものってのは別腹だ。それは志帆も同じようで、「ラッキー。今日来てよかった」などと浮かれている。


「うん、これはウイスキーにも合いそうだ」


 ショコラ・オランジェをつまんだ私は、残り少なくなったグラスにメーカーズマークを足してもらった。


「こっちのゼリーにはデカイパーを使ってみたんです。こっちはブランデーで、これはラムですね」


 沙耶が真輝に使用した酒の説明をしている。

 尊がその間、私に一本の酒を見せてくれた。


「ことの始まりはこのお酒なんですよ」


 目の前に置かれたのは、丸みを帯びたボトルだった。可愛らしい木製のキャップで、透明なボトルには『マッカラン・アンバー』の文字とメープルの葉があしらわれている。

 マッカランは『シングルモルトのロールスロイス』と異名をとるウイスキーの蒸留所の名前だ。いかにも優等生って感じのきっちりしたウイスキーというところか。


「これがマッカラン・アンバーかい?」


 そう言ってみたものの、このボトルは初めて見るものだった。

 私の知っているマッカラン・アンバーは『1824シリーズ』というラインナップであり、こんな丸いボトルではない。

 すると、尊が「いえいえ」と首を振った。


「これ、ウイスキーじゃありませんよ。実は知人からいただいたんですが、これはリキュールなんです」


「マッカランがリキュールを出していたとはね」


 驚くと、彼が頷いた。


「マッカランの原酒にメープル・シロップやピーカン・ナッツを加えて作ってあるそうですよ。今では終売なんです」


「こいつぁ、ミルクに混ぜて……と言いたいところだが、やっぱりカナディアン・ウイスキーと混ぜて飲みたいね」


「お凛さんなら、そう言うと思いました」


 尊が笑った。


「それでね、その話を沙耶さんがいるときにしたら、お菓子に使えないかなって話になったんです。このお酒に限らず、もっとお酒もお菓子も気軽に楽しめたらいいねって」


「あぁ、それでお互いの店で出してみようってことになったのかい」


「はい。なんか地元ぐるみで何かやれたら楽しいでしょ。それに意外と甘党の酒好きって多いんですよね」


 それはお前のことだろう。そう思ったと同時に志帆が「あぁ、お凜さんね」と呟く。

 尊が笑い、ガナッシュをつまむ。


「やばい、これ美味い」


 『やばい』の意味がわからないが、彼の顔がとろけているのにつられて笑ってしまった。

 上機嫌の尊が沙耶に温かいおしぼりを差し出す。


「沙耶さん、せっかくだから何か飲んでいってよ。試作品を作ってくれたお礼にごちそうするから。ケーキもいただいちゃったしね」


 沙耶は「いいの?」とはにかんだ。黒目が大きく、小動物のような可愛らしさがある子だ。


「今日は寒いから、ホット・ドリンクスなんてどう?」


 尊の提案に、沙耶が目を丸くする。


「ホット? 熱いカクテルなんてあるの?」


「勿論だよ」


「てっきり、カクテルって冷たいものしかないだと思ってたわ」


「じゃあ、試しに飲んでみなよ。あったまるよ」


 彼はそう言って、薬缶を火にかけた。カップを沸いたお湯で温めている間に生クリームを混ぜている。

 そしてコーヒーをドリップで落とし、赤ザラメとアイリッシュ・ウイスキーを入れてステアした。最後に軽くホイップされた生クリームが浮かべられる。


「はい、どうぞ。『アイリッシュ・コーヒー』です」


「お酒じゃないみたい」


 小さな歓声を上げ、彼女はそっと口をつけた。


「美味しい! コーヒーとお酒って合うわね。これ、ウイスキーですか?」


「名前が『アイリッシュ』ですから、アイリッシュ・ウイスキーですね」


 尊が笑いながら『ジェイムソン』という名のアイリッシュ・ウイスキーのボトルを小突いた。


「面白いんですよ。お酒を変えると、カクテルの名前が変わるんです」


 そう言って、志帆のほうを向いた。


「はい、バーテンダーさん、全部言ってみて」


「えぇ? 突然ですね」


 志帆は吹き出しながらも、すぐに落ち着いて指折り数えた。


「アクアビットを入れるとスカンジナビアン・コーヒー。ベネディクトンだとモンクス・コーヒー。カルバドスだとノルマンディ・コーヒー。コニャックだとロイヤル・コーヒー。キルシュだとジャーマン・コーヒー」


 そこまですらすらと述べた志帆が、「ん?」と呟いて首を傾げた。どうやら何かが足りないという顔だ。

 尊がふっと笑い、「同じウイスキーでもスコッチを入れるとゲーリック・コーヒー」と囁く。


「あぁ。それだ!」


 悔しそうな志帆に、真輝が思わず笑った。


「尊も志帆ちゃんも、数年前はシェイカーを触ったこともなかったのにね。尊はちょっと熱中しすぎだけど」


「いいじゃないか。やっとマニアックになれるものが見つかったんだから」


 尊が妻に口を尖らせると、沙耶が笑みをこぼした。


「カクテルって、だから面白いですね。いろいろ混ぜるものだから、枠に囚われないって感じがします。なんだか、うちの店の信条に似ていますよ」


 尊が大きく頷いている。


「最近では液体窒素を使うバーテンダーもいるらしいですよ。燻製の機械を使って香りをつけたりもするんですって」


「ケーキ屋も同じですよ。オーソドックスなものはもちろん大事だけど、どんどん新しいケーキが出て来てめまぐるしいんです」


 沙耶がちょっと興奮しながら、熱っぽく語る。


「いろんな文化を融合させるって面白いじゃないですか。自由な感じがするでしょ」


 あぁ、彼女も尊も、よっぽど仕事が好きなんだね。私は意気投合する二人を苦笑しながら見ていた。


「まぁ、ケーキ職人としては、うちの父に敵わないままですけど」


「え? そうなんですか?」


「はい」


 彼女はアイリッシュ・コーヒーの湯気を吹きながら、頷く。


「父は新しいものにも積極的だけど、やっぱりオーソドックスなケーキを大事にしています。根っこがあるから、枝が伸びるんだってよく言ってますよ」


 思い出した。そう言えば、あの親父が昔から作っているチーズケーキは格別なんだ。あの味はずっと変わらない。

 それを思い出し、つい口を挟んだ。


「あの親父さんのチーズケーキは絶品だね」


「ありがとうございます」


 沙耶が眉を下げて礼を言った。


「あの味は私にもまだ出せません。父は引退するときに教えるなんて言うんですよ」


 沙耶がスプーンでホイップクリームをコーヒーに馴染ませている。


「本当は知りたいんですよ。ケーキ職人として父を越えていきたいと思うんです。だけど、父が言うにはまだ早いとかで」


 悔しそうな響きの声色だったが、それよりも父への尊敬のほうが勝っているような顔だ。だって、嬉しそうなんだから。


「今のお前はまだ、熱にうかされたみたいに自分の好きなケーキを作ってごらんって言うんです。根っこの大事さに気づくまでがむしゃらにやりなさい、だそうです」


 私は思わず、ケーキ屋の親父を思い出した。あの男もなかなか面白い、人間味のある奴じゃないか。


「私、まだまだ半人前ですから。でも、それも楽しんでます」


 尊が「はは」と小さく笑う。


「わかるような気がします。苦しいけれど、結局好きで楽しいんですよね」


「それに今回の企画が特に楽しいんです。なんだかお酒の虜になっちゃいそうですよ。面白いんだもの」


 沙耶が笑うのを、私はじっと見つめていた。彼女の中に、熱くたぎる物を感じて眩しかった。

 親子二人三脚で職人を続けるというのは、難しいものかもしれない。なんだか、脳裏に息子と孫の姿が思い出された。

 あいつらも将来、小料理屋でこんな風にぶつかったり、刺激しあったり、助け合っていくのか。大地はチェロとどう付き合って行くんだろうか。

 ……まったく、ばあちゃんにあまり心配かけないで欲しいもんだよ。

 

 しばらくすると、楽しげな沙耶たちを見ていた志帆が項垂れて呟いた。


「仕事に打ち込めるっていいわね」


「何を言ってるんだ。お前だって、バーテンダーの仕事に一生懸命じゃないか」


「うん。……あのね、お凛さん」


 志帆が珍しく歯切れの悪い声を漏らす。


「なんだい」


 きょとんとしていると、志帆の顔がちょっと寄せられ、耳元でそっとこう囁いてきた。


「私ね、『エル ドミンゴ』を辞めようと思ってるんだけど」


 おやおや、こりゃ面倒なことになりそうだ。


「なんでまた? お前、カクテル覚えるの楽しいって言ってたじゃないか」


 志帆が暁に弟子入りしたのは一年くらい前だったと思う。こいつも尊と同じ口で、大学を卒業してからアルバイトしながら暮らしてたんだ。そこを暁にスカウトされたんだと記憶しているが。


「何か店に不満があるのかい?」


「ううん。それが、ないの」


 志帆が困ったように笑う。


「客に嫌なことでもされたとか?」


「それも違うの」


「なんだい、はっきり言いなよ。志帆らしくないね」


 呆れて言うと、彼女は「そうなの」としおれてしまう。


「私らしくないのよ。それが問題なの」


 本当に彼女らしくない。いつもは毅然とした態度で無邪気なくらい明け透けなんだが。

 すると、志帆が首をすぼめて、囁いた。


「……私ね、暁さんのこと好きみたいで」


 思わずメーカーズマークを盛大に吹くところだったよ、私は。

 志帆は頬杖をつき、ため息を漏らした。


「他人の恋愛相談なら簡単に捌けるのに、自分のことになると駄目ね」


 軽く肩をすくめている。


「私ってさ、恋愛相談されることが多いの。なんでかわかる?」


「頼りになるんじゃないのかい?」


「違うわよ。他人事なの」


 しれっと言う志帆が、悪戯っぽく笑う。


「客観的だからよ。でも、主観が入る自分の恋はからきし苦手」


 そう言いながら、彼女は肩をすくめた。右の耳を飾る三つのピアスがライトで煌めいた。左には四つもあるんだから、私には気が知れない。しかもそのうち一つは軟骨にだよ、まったく。


「仕事と私情は別なんて言うけど、無理。目で追っちゃうし、意識しちゃうし、それに……」


「それに?」


 志帆はぐっと言葉に詰まったあと、少し気恥ずかしそうに俯く。そして、蚊の鳴くような声でこう呟いた。


「嫉妬しちゃうし」


 私は思わず吹き出してしまった。


「なんで笑うのよ?」


 恨めしそうな志帆を見て、私が笑いを噛み殺す。


「いや、すまん。こんな志帆は初めてだね」


 この子は本来、器用なんだ。相手の雰囲気に馴染むのが上手いというか、空気が読めるというか、どんな分野の話でもうまく盛り上げて相手を楽しませてしまう。たとええげつない下ネタでも、爽やかな笑いに変えてしまうんだから舌を巻く。そういうところも暁がスカウトした理由の一つなんだろうけど。

 それがどうだろう。あの男一人のせいで、すっかり不器用な女の子だ。

 客だけじゃなく、友人や家族との距離の取り方もうまい志帆が、暁の前ではたじたじらしい。

 彼女は沙耶と話している真輝を盗み見てから、私に囁いた。



「お凜さん、本当はね、ここに初めて飲みに来たときだって、真輝さんを偵察するのが目的だったのよ」


 真輝と暁は中学と高校の同級生で、暁は高校時代から真輝に想いを寄せていた。だが、その想いは叶うことなく、真輝は暁の親友だった男と結婚したんだ。

 その数年後、真輝は夫と祖父を同時に交通事故で亡くすことになる。暁はそんな真輝を支えた一人でもあった。彼は真輝が結婚したときも、未亡人になったときも、想いを捨てなかった。

 けれど、真輝が彼を選ぶことはなく、尊と再婚したときにはもう吹っ切れていたように見えた。


「じゃあ結構前から好きだったんじゃないか。お前がここに通い始めて、半年にはなるかな」


「まぁね」


「お前がそんな思いで来ていたとは知らなかったな。それで、真輝はどういう風に映ったんだい?」


「悔しかったわ。太刀打ちできないと思った」


 正直に言う志帆は、どこか乾いた笑いを浮かべた。


「おまけに私まで真輝さんを好きになっちゃったもんだから、質が悪い」


 思わず「はは」と、声に出して笑う。


「おっとりして見えるが、真輝は意外と芯が強いからね。ハキハキしている志帆と相性がいいのはわかりきったことだ。それに、お前はどこか尊に似てるから」


「そう?」


 きょとんとする志帆に右の眉を吊り上げて見せた。


「二人とも、私が気に入ってるんだから間違いないよ」


「ありがと」


 はにかむ横顔が、とても綺麗だ。この子は可愛い顔のくせに、綺麗な表情をする。

 ……あぁ、恋をしているからか。今更ながら腑に落ちて、笑ってしまった。

 私は尊に手招きをする。


「志帆になんかカクテル作ってくれないかい? こう、スパーンと弾ける感じの」


「なんですか、そのスパーンってのは」


 苦笑する尊が、志帆に向かって「ねぇ?」と同意を求める。ケラケラ笑う志帆に、尊がふっと目元を和らげた。


「まぁ、志帆ちゃんにぴったりのカクテルあるから、ちょっと待ってて」


 そう言うと彼は、そっと身を乗り出して私たちにだけ聞こえるように囁いた。


「恋する女の子にうってつけのカクテルだから」


 志帆が咄嗟に口を尖らせる。彼女の顔が真っ赤に染まっているのを横目に、尊が笑いを噛み殺しながらボトルを取り出した。

 尊は『エル ドミンゴ』の常連でもあるからね。志帆の恋心なんて、とっくにお見通しだったらしい。

 私は興味深く、尊が取り出した幾つものボトルを眺めていた。ジン、カンパリ、カシス、サザンカンフォート、レモン・ジュース……おやおや、可愛い妹分のために、随分と手間をかけてくれるらしい。

 尊はそれらを素早くシェイクすると、氷を入れたコリンズ・グラスに入れた。そこにトニック・ウォーターを注ぎ足すと、透明感のある赤がグラスを満たす。まるでフラメンコや闘牛を思い起こすような鮮烈な赤だ。

 最後に、尊が器用にグラスの縁にレモン、オレンジ、ライムのスライスを飾る。その三色がまた一層、赤を際立たせた。


「はい。これね、志帆ちゃんみたいなカクテルだなって思ってたんだ」


 尊が満面の笑みで差し出しながら、『レッド・スパークル』という名だと明かした。

 尊の言う所によると、このカクテルは帯広の女性バーテンダーの作品らしい。とある大会で優勝した逸品だと彼は微笑んだ。


「真っ赤な情熱って感じでしょ」


 志帆が頷き、そっと口をつける。喉を鳴らすと、彼女が満足げに微笑んだ。


「私の好み」


 これは志帆流の最高の褒め言葉だ。

 彼女は多趣味人間で自分の価値観というものが強いせいか、決して流行に左右されない。自分の感性が『いい』と言ったものだけを、彼女は選ぶ。その代わり、ちょっとでも感性とずれていると見向きもしないんだ。

 尊もそこは承知しているせいか、嬉しそうに「ありがとうございます」と礼をした。

 彼はカウンターに手をつき、優しい笑顔を志帆に向けた。


「スパークルってね、煌めきとか閃光とか火の粉とか、そういう意味なんだよ」


 黙って頷く志帆に、彼は言葉を続けた。


「志帆ちゃんって、胸にいつでも情熱もって駆け抜けてる気がするんだよね。趣味でも仕事でも恋愛でも、情熱を閃光みたいに飛ばしながらさ」


「私、意気地なしよ?」


 志帆が眉尻を下げる。


「彼の前だと、ちっとも上手く立ち回れないの。このままだと店にも迷惑かかる。それは私のプライドが許さないの。お金もらう以上はプロでいたいから」


 彼女の瞳には、切ない光が宿っていた。恋する者独特のね。


「店に来るお客さんに嫉妬するのは我慢できても、真輝さんみたいな人を相手にしてたら、身が持たない。存在が絶対的なんだもの。だから……」


 彼女はふと、目を伏せる。


「苦しいの」


 その伏し目は美しかった。苦悶と憂いだけでなく、その奥にある恋の閃光が走ったように感じたよ。


「お前、それを暁にぶつけたのかい?」


 私が口を開くと、彼女がぽつりと力なく答えた。


「言ってない」


「じゃあ、店は辞めるんじゃない」


 私は力強く言ってやった。


「あの後ろばかり見てる男にバチバチっと閃光をお見舞いして、目を覚ましてやんな。それで駄目なら辞めるといいさ」


 私が手をパッと開いて豪快に言うと、尊が「あぁ、そうか」と一人で何か納得している。


「今、気づきました。大地の身振りが大きいのって、お凛さんに似たんですね」


「冗談じゃないよ。それは死んだ旦那の遺伝子だよ」


 思わず、三人して笑い出す。今頃、孫はくしゃみでもしてるだろう。

 ふと、尊が真面目な顔になって言う。


「ねぇ、志帆ちゃん。俺は君と同じだったからよくわかるつもりだよ」


「えっ?」


 尊が珍しく、眉を下げて切なそうな顔をした。


「志帆ちゃん、今の仕事好きだろ?」


「うん。あそこにいる沙耶さんの話を聞いていたらね、私も同じだなって思ったわ。苦しいけれど、今の仕事も暁さんも大好きで夢中よ」


「じゃあ、逃げちゃ駄目だ」


 尊がゆっくりと、だが優しい声で言う。


「俺も大学卒業してバイトばっかりしてた。けれど、この仕事と真輝に出逢ったんだ。夢中で打ち込める仕事なんて滅多に見つかるもんじゃない。自分の心をぶつけられる相手も同じ。それが恋愛なら尚更じゃない」


 尊はもっと声を小さくして、こうも言った。


「俺はね、真輝だけじゃなく、最初の旦那さんの影にもぶつかっていったよ。それは難しかったけど、でも……」


 彼は言葉を選びながら、噛み締めるように言った。


「死んだ旦那がいて、今の真輝があるんだ。暁さんも一緒。だから、ね」


 彼は「頑張って」とは言わなかった。志帆はもう充分に頑張っているからだろう。導くけれど、追いつめはしない。そういう励まし方が、いかにも尊らしい。

 志帆はふっと笑みをこぼした。


「受けて立とうじゃない、先輩」


 いつもの志帆らしい、潔い返事だった。

 『肩から何か重いものがとれた』と言わんばかりに、志帆はすっきりした顔でグラスを空けて帰っていった。


 私はハイライトをくゆらせながら、目を細めて尊を見る。


「尊、志帆とあんたはそっくりだね」


「好きな人が誰かを忘れられずにいるって状況がですか?」


 半ば自嘲するような笑みを浮かべる尊に、私は「馬鹿だね」と笑った。

 妻の真輝は長いこと死んだ夫にとらわれていたが、それを救ったのは他ならぬ尊だ。


「志帆はね、情熱のまま突っ走る小気味良い子じゃないか」


「はい」


「でも、同時に周りを和ませるんだよ。誰とでもすっと馴染んでしまう」


 私はいつか尊を同じ言葉で評した気がする。いや、そうしたのは真輝だったかな。


「尊と一緒。包んでしまうんだよ、あの子は。そっと傍に居て、追いつめたりできないのさ。暁は無意識にそれに甘えてるんだろう。あの男は臆病なところもあるから尚更、ぶつからなきゃ気づきはしないよ。だけど、それには志帆は優しすぎる」


 尊が苦笑いする。


「そういえば、俺も結構ぶつかっていきましたね」


「そうかい、初耳だね」


「ニヤニヤしないでください」


「なぁ、尊」


 私は紫煙をくゆらせながら笑う。


「暁もそろそろ幸せになって欲しいな」


「大丈夫ですよ。スパークルには才気って意味もあるんです。あの子ならやってのけますよ」


 尊が朗らかに笑う。


「そのうち、暁さんのほうがたじたじになりますよ。嫉妬して苦しむのは、今度は彼の番かも。あの子の閃光は人を惹き付けますから」


「嫉妬は緑色の目をもつ怪物だっていうからね。人が嫉妬にとらわれるんだとしたら、もしかしたらその緑色の目というのは美しいのかもしれない。暁も、志帆の目に吸い寄せられたら、もう戻れなくなったりして」


 私たちは笑みを交わし合った。


「久しく忘れていたが、恋ってのはいいな」


「俺は死ぬまで妻に恋してますよ」


 しれっと言う尊に、おしぼりを投げてやった。

 いつか、暁と志帆が揃って琥珀亭に来る日もあるかもしれないね。そのとき、志帆はもっと輝いているんだろう。今よりも真っ赤に染まった閃光を散らして、周囲をハッとさせるだろうさ。

 そう思うと、なんとも胸が締め付けられた。

 恋はいいもんだ。それは紛れもなく、人生を彩る煌めきの一つなんだからね。

 私は志帆を思い浮かべながら食後の一服をくゆらせていたが、ふと、真輝が沙耶の試作品を口にしていないことに気づいた。


「どうした? 楽しみにしてたのに、食べないのかい?」


「真輝さん、具合でも悪いの?」


 私と沙耶に心配されると、真輝は言葉に詰まっている。


「いや、えっと……」


 戸惑う彼女に、尊が笑った。


「大丈夫だよ、このくらいのお酒なら」


「あ、うん。そうよね」


「どうしたの?」


 訝しげな沙耶に、真輝の顔が今度は真っ赤になる。


「あの、実は今日わかったんですけど……赤ちゃんができまして」


 私は紫煙をぶうっと吹き出し、思わず叫ぶ。


「何だって?」


 むせながら、慌てて灰皿にハイライトを押しつけた。


「そんな大事なことは早く言いなよ! 目の前で煙草を吸ってしまったじゃないか!」


 興奮する私の横で、沙耶も「おめでとう」と騒いでいる。尊と真輝が照れたように微笑み合っていた。


「本当はお凛さんには帰り際に言おうと思ってたんですけど」


「なんで最初に言わないんだ」


 むすっとすると、彼女が肩をすくめた。


「散々、からかわれそうだから」


「まったく、どんな目で私を見ているんだ」


 思わず苦々しく笑ったが、驚きのあとにしみじみと喜びが泉のように湧いてきた。


「おめでとう。よかったな」


「はい。ありがとうございます」


 真輝の笑顔は聖母マリアのように穏やかだった。


 沙耶のお菓子は打ち合わせの結果、ショコラ・オランジェとガナッシュが琥珀亭のメニューに登場することになった。慣れてきたら、プレートにお酒の利いたケーキを出したいなどと話していたが。

 沙耶が帰り、真輝も早めにあがったあとで、私は尊と向かい合う。


「尊も親父になるんだね」


 私は感慨深く、彼を見つめた。

 初めて会ったとき、彼は本当に若造という感じだった。夢中になれるものもなく、なんとなく日々を過ごしていた頼りない男だった。その彼が、いまやマスターとしてどっしり構え、後輩の志帆を叱咤激励し、自分は家族を築いていくとはね。


「ありがとうございます。まだ実感わかないですけどね」


 彼がはにかんで笑う。その人なつっこい笑顔だけは、あの頃と変わらない。

 誰も口にしないが、真輝が前の夫との間に子どもがいないことで苦しんでいたのは薄々わかっていた。

 欲しいのに出来なかったか、『まだいいや』と思っていたうちに夫が死んで後悔しているのかは知らないがね。

 だから、この夫婦も乗り越えて来たものがあるはずなんだ。妊娠はその証なんだと、何故か確信できる。

 心底、私は嬉しかった。なんだろう、自分の孫ができたみたいだ。だけど、大地のときとはまた違うんだよ。

 脳裏に真輝の祖父母の姿が浮かんだ。私の想い人だった琥珀亭の先代オーナーである蓮太郎と、その妻になった親友の遥。生まれてくる子は、彼らにどこか似てるんだろうね。いつか赤ん坊に面影を見つけ、彼らに再会したような気持ちになるんだろうか。そして、その子も熱い酒への情熱を胸に琥珀亭に立つんだろうか。

 まったく感慨深いよ。人生ってのはいいもんだ。

 そう、誰がなんと言っても、いいもんだよ。

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