10月 プライベートストック・プロポーズ
十月ともなれば、北海道も紅葉に染まる。すぐそこまで冬が迫っているせいか、気がつけばすぐに散ってしまうのが儚い。こっちの秋はせっかちなんだよ、本州に比べるとね。
今夜の琥珀亭には秋の息吹が舞い込んでいた。
「銀杏か。ずいぶんと可愛らしいね」
弟子の譜面を用意するのに手間取っていつもより遅くに顔を出した私に、尊が「お疲れ様です」と、雨森堂の上生菓子を差し出してくれた。
今月は黄色と黄緑のぼかしが綺麗な『銀杏』だった。ぎざぎざ模様が縦に入ったハートのような形に、ちょこんと金箔が乗せてある。
毎年慌しく過ごしているせいか、のんびり山に広がる錦の模様を眺めることも久しくない。たまには羊蹄山のふもと辺りにドライブでも行きたいものだがね。
そう思った矢先、琥珀亭の扉が開いた。すっかり肌寒くなった夜風と共に入ってきたのは、紙袋を提げた孫の大地だった。
「あ、ばあちゃん。やっぱり、ここにいた」
孫はにこやかに笑い、迷わず私の隣に座る。
「なんだい、大地。眠れないのかい?」
この孫は真輝が大家をしているアパートに住んでいる。ここから程近いところにあるせいか、眠れないときは寝酒をねだりに来るのだ。
「いや、さっきまで親父の仕事を手伝ってたんだ。これ、今年初めてのいくらの醤油漬けだよ。おすそわけに持ってきた」
そう言って、手にしていた紙袋からタッパーを取り出す。一つは真輝に手渡し、そしてもう一つは袋に入れたまま私のそばに置いた。
中をのぞいてみると、真っ赤なルビーの玉のようないくらが沢山詰まっている。
「今年もこの季節がきたね。どうぞ召し上がれ」
真輝がうやうやしくタッパーを受け取った。
「嬉しい! ありがとう。大地の作る醤油漬けは美味しいのよね」
北海道ではこの時期、秋鮭生筋子がスーパーに出回る。味付けのされていない筋子を家で醤油漬けにすれば、いくら丼が山盛り食べられるってわけさ。道産子にとっても安価なものとはいえないけれど、出来合いを買うより格段に安く手に入る。
「もう秋ねぇ」
そう言ってうっとりしている真輝は痩せの大食いなんだが、夫とは違って辛党でね。雨森堂の銀杏よりも、いくらの醤油漬けのほうに季節を感じるらしかった。
「いくらのお礼になにかご馳走するよ」
尊が大地に人なつこい笑みを浮かべた。彼はうちの孫のことを弟分のように思ってくれているらしい。
「やったね! じゃあ、美味しいラムください」
「お前、何でも美味い美味いって飲むじゃないか」
尊が苦笑しながら、酒瓶の並ぶ棚に視線を走らせる。
「じゃあ、これにしようか」
そう言って尊が一つのラムを取り出した。
「お、飲んだことないですね。それにしましょう!」
大地がまるで発車前の車掌みたいな手つきをする。まったく、この剽軽なノリまで死んだ旦那そっくりだ。
私は苦笑しながらハイライトをくわえた。
尊が取り出したのは『キャプテン・モルガン・プライベートストック』というラム酒だった。ラベルにはカリブ海を暴れ回ったキャプテン・モルガンの髭をたくわえた勇猛な顔が見える。
大地はしげしげとラベルの男を見つめながら、グラスが出てくるのを待った。
尊がロックにしたラムを差し出しながら説明する。
「これね、自家消費用にストックしてたものを製品化したんだよ」
「お、じゃあ美味いに決まってますね」
大地は深く香りを嗅ぎ、夢見心地な表情で唸った。そしてちょっと口に含み、満面の笑みを浮かべる。
「はは、こいつぁ美味い」
酒好きは私に似たんだね。その満足げな顔に、思わず苦笑してしまった。まぁ、久々に孫と肩を並べて飲むのもいいものだ。
そう浮かれた気分でグラスを傾けていたときだった。からんと乾いた音がして、呼び鈴が鳴る。
閉店まであと一時間もないのに。そう思ってさりげなく目をやると、一人の女がおずおずと入ってくるところだった。
いつものように「いらっしゃいませ」と言いかけた真輝が目を見開いた。
「詩織じゃないの!」
シオリというらしい女はどうやら真輝の友人のようだった。
思わず私は眉を寄せた。なんとも疲弊しきった顔をして、どこかやつれている。目は落ち窪み、表情がひきつっているし、化粧もほとんどしていないせいか、血色が悪く見えた。
「ごめんね、こんな時間に」
そう言った声がか細くて消え入りそうなのが一番不健康そうだ。綺麗な顔をしていて華奢なところが、余計にそう思わせた。
「珍しいわね。とりあえず座って」
真輝の声には驚きが滲んでいる。あまり夜遅くに出歩く友人ではないからか。それとも、そもそも飲みに出歩くタイプではないからか。
尊は唇を横一文字に結んで、彼女をじっと見つめていた。彼がそういう顔をするときは、どこかで見た気がするんだけど誰だったかなと懸命に記憶を辿っているときだ。彼女は何度かここに来たことがあるのかもしれない。
シオリという女は明らかに泣きはらした目をしていた。たとえどんな厚化粧でもその膨れた瞼は隠せないだろうと思われた。
「突然、ごめん」
彼女はまた詫びながら、微笑む。だが、寂しそうな笑みがかえって痛々しかった。
「何かあったの? ひどい顔ねぇ!」
真輝が心配そうに眉をひそめながら、彼女におしぼりを渡した。そして夫の尊を紹介すると、こう言った。
「尊、この子は私の小学校の同級生で詩織っていうの。幼なじみみたいなものよ」
私はちょっと目を見張る。詩織という女が真輝と同い年には見えなかったからだ。彼女はずいぶん疲れているように見えたからね。
いつもなら誰とでもすぐ打ち解ける大地も、このときばかりはじっと黙って様子を見守っていた。彼女がここにただ飲みにきたわけじゃないことは、なんとなく察することができたからだ。
詩織がしきりにカウンターの下で手をもみ合わせている様は、どう見てもどのカクテルにしようか迷っている仕草ではない。
「まずは何か飲んで。何にする?」
いつも以上に優しい声の真輝に、詩織はふっと微笑んだ。心配されているのがわかるのだろう。
「どうしても『オレンジ・ブロッサム』が飲みたくて」
「わかったわ」
真輝が頷き、ジンとオレンジジュースを取り出した。カクテル・グラスに氷を入れ、バー・スプーンでくるりと回す。こうしてグラスを冷やすんだよ。それから氷を取り出す。シェイクされたジンとオレンジジュースが冷えたカクテル・グラスに注がれた。
『オレンジ・ブロッサム』を出された彼女は、しばらくの間はじっとカクテルとにらめっこをしていた。誰もがそんな彼女を見守る中、グラスがゆっくりと口に運ばれる。
喉が動き、グラスはそっとコースターの上に戻された。ふと、彼女の小さな吐息が響いた。
「今日はね、真輝に謝ろうと思って」
「なぁに?」
「私と主人の結婚式のとき、真輝は式場でこれを作ってくれたわよね」
「そうね」
オレンジの花の花言葉は『純潔』だ。それ故に『オレンジ・ブロッサム』は結婚式の食前酒として人気がある。
「せっかくカクテルを作ってもらったのにね、私たち駄目になっちゃったの」
そう言うと、彼女がそっとグラスの縁をなぞった。
「……離婚したの」
「そう」
意外なことに、真輝は驚かなかった。むしろ、それを当然のことのように受け止めたらしかった。
「旦那さん、また壁に穴でも開けたの?」
なるほどね、癇癪持ちの旦那だったらしい。詩織は「いつものことよ」と頷き、こう付け加えた。
「随分と悩んだけど、とうとう離婚することにしてね。決まってからはあっという間だったわ。呆気ないくらい」
そう言った彼女は、ふっと私と大地を見やって苦笑した。
「すみません、こんな暗い話で」
「いや、いいんですよ」
答えたのは大地だ。私も隣で大きく頷いて見せた。
「私たちは真輝の昔なじみなんでね、いないものと思ってくださって結構ですよ。存分に吐き出していってくださいな」
真輝が私たちを紹介してくれた。
「祖母の親友と、そのお孫さんなの。信頼できる人たちよ」
すると詩織は簡単に自己紹介してから、真輝とまた顔を合わせた。
「真輝は驚かないのね」
「何かあるとあなたはすぐ顔に出るもの。そういうのは慣れてるわ」
尊もすぐに思ったことが顔に出るからね。尊が傍らで苦笑をかみ殺しているのが見えた。
詩織はそれに気づかず、またふうっと小さな吐息を漏らした。
「いつもは仲のいい夫婦だったのよ。いつでも笑い合って、お互いが居心地よくて、どこに行くにも一緒で……。だけど駄目ね。主人は外で何か抱え込むと、家の中で爆発させるの。たとえそれが『焦り』だったり『悔しさ』でも『怒り』に変換させるのよ」
癇癪を起こしたくなることは誰にでもあるけどね。そうしょっちゅうじゃね。
「家に着いた途端、ほっとすると同時に思い出して、うまく発散できなくて壁に穴をあけたり、物を投げるの」
尊が眉間にしわを寄せた。
「それって、DVの一種ですよね?」
「そうなんです。頭ではわかってたんですけどね」
まるで皺くちゃになった紙切れのような、薄くてくたびれた笑いだった。
「癇癪を起こすときの彼は、記憶も思考も吹っ飛ぶらしいんです。止められないんですよ、自分を」
癇癪というのはそういうものだ。私は頷いたが、大地はいまいち理解できないようで呆気にとられている。この孫は癇癪とは縁がない呑気者だからね。
「そのくせ、癇癪の後は『ごめん』って言えないで、それでいて『捨てないで』って顔をして黙ってるの。それに、両親から愛情をもらわずに育っているから、そういうのも影響してるのかなって考えちゃって」
真輝の大きなため息が漏れる。
「で、ずるずると許しちゃうのよね? 前から言ってるけど、それって、DVから抜け出せない典型的な例なのよ」
真輝は以前から相談を受けていたらしい。ピシッとした声で詩織に言い放つ。
「そうね。自分でもわかってたわ」
自虐的な響きがそこにあった。
「だけどね、癇癪が怖い自分もいるけど、確かに愛情もあったの。だから苦しんできたけど、先月ね、思い切って相談機関に電話したの」
尊がやや驚いたように、訊いた。
「相談機関なんてあるんですか?」
「えぇ、配偶者からの暴力に悩む人が相談できる窓口って結構あるのよ。たまたまコンビニにカードが置かれてるのを見つけてね」
詩織は自嘲気味な笑みを浮かべた。
「私だってわかってるわ。たとえ私に手をあげなくても、これがDVだってことくらい」
私は彼女がやたら「わかってた」と繰り返すのを黙って聞いていた。それは認めたくなかった気持ちの現れだと苦々しく感じながら。
「あの日は家に主人がいたから、『コンビニに行く』って嘘をついて、町内を歩きながら携帯で相談機関の人と話したの」
彼女は『オレンジ・ブロッサム』で喉を潤し、力ない声で話を続けた。
「夕暮れの中でね、担当してくれた人が穏やかな声で話を聞いてくれるのよ。話すうちに、涙がポロポロ溢れて止まらなかった。見ず知らずの人にはっきりと『あなたが辛いと思うのなら、DVといえます』って言われてね、認めたくなかった事実をすんなり受け入れたわ。友達は私をかばうからつい夫をかばいたくなるんだけど、そう客観的に言われたら諦めがついたの」
真輝が唇を噛み締めた。詩織は腫れぼったい目で、そんな真輝にそっと笑う。
「話してるうちにね、癇癪が怖い自分と、主人を愛している自分と、更にもう一人の自分に気づいたわ」
彼女は「私、単に独りになるのが怖かったのよ」と呟いた。
「相談機関の人は答えなんてくれない。『あなたの決断次第です』って言われた。だから私、その夜は離婚しなかった。それから数週間待って、主人がいつも通りのときに話し合ったのよ。離婚した方がいいんじゃないかって」
詩織が淡々と続ける。
「主人はね、いつもは離婚したくないって言ってたけど、私の態度に何か違うものがあるって感じたみたいで。『そうしたほうがいいかもしれない』ってふっきれた感じで言ってくれたの。癇癪のときにヤケになって『どうせ、離婚したいんだろ。だったら離婚しよう』って叫んでいたのとは違って、納得した声だった。だから決めたのよ」
私は口を挟まずに、メーカーズマークを飲み込んだ。
離婚っていうのは、結婚よりもパワーがいる。そう言ってたのは誰だったかな、などと考えながら。
真輝が重い口を開く。
「それで、旦那さんは今どうしてるの?」
「まだ一緒に暮らしてるわ」
「えぇ?」
「家が見つかるまではいるみたいよ。今のアパートの名義は私だから、主人が出て行くってことになってるんだけどね。壁の修理代はもらったから、後はいい物件がみつかればねぇ」
「まぁ、そうだとしても、離婚したのに一緒にいるって変ね」
納得しがたいらしく、真輝が唇を尖らせた。
「一緒にいるうちにまた癇癪起こしたら、離婚の意味がないじゃないの」
「大丈夫よ。あの人ね、離婚してから癇癪起こさなくなったの」
詩織は乾いた笑いを浮かべた。
「不思議でしょ? たった紙切れ一枚の契約なのにね。夫婦じゃなくなったら、どんなに怒っても壁にあたらないのよ。きっと、夫婦ってことで甘えてたのね」
彼女は残りの『オレンジ・ブロッサム』をくいっと飲み干した。
「私たちも結婚したときはオレンジの花が咲いたように甘く輝いていたはずなのにね。いつか散るとわかっていても、やりきれないわ。私たちはいつから枯れ始めていたのかもわからないの」
尊がそっといたわるように言った。
「それでも、また咲きますよ」
「え?」
「きっと、また詩織さんの『オレンジ・ブロッサム』は咲きますよ。違う人の枝で。だって、オレンジの花は枯れるけど、また咲くものだからね」
詩織が口許を緩めた。
「そうかしら? そうだといいけど」
そして、空になったグラスを指でなぞる。
「私、主人が意地を張って『離婚する』って言ってるうちは頑張れました。だけど、あのふっきれたような『離婚しよう』って言葉を聞いたときに、諦めたんです。あぁ、終わったんだなって。それまでは壁の穴を見るたびに、心までえぐれたようでした。でもそのとき以来、壁を見ると心にもポッカリ穴があいたみたいに感じるの」
尊が深く頷いて、こう提案した。
「詩織さん、もう一杯飲みませんか? サービスですから、是非」
そう言った彼は一つのカクテルを作った。
詩織の前に差し出したのは、鮮やかな『テキーラ・サンライズ』だった。オレンジ色の酒の底に真っ赤なグレナデン・シロップが沈むカクテルだ。
「こちらは『テキーラ・サンライズ』と言ってね、『オレンジ・ブロッサム』と同じくオレンジジュースを使うカクテルです」
真輝が見守る中、詩織はそっと一口含んだ。
「甘くて美味しいですね」
「このカクテルは俺の先輩が好きなカクテルなんですけどね、『日の出』を意味してるんですよ」
尊が静かに微笑む。
彼の言う『先輩』とはかつて琥珀亭で修行していた上杉暁というバーテンダーのことだ。同級生だった真輝を慕っていたが、同時に真輝の夫となった尊のよき先輩でもある。
「詩織さんはね、枯れて終わったんじゃないですよ。日の出みたいに、これから何かが始まるんです。そう思いたいじゃないですか」
「ありがとう」
詩織は微笑む。その笑みにはさっきまでの切なさはなかった。今やっと、彼女は心の底から笑っている。
「真輝はいい旦那さんを持ったわね」
真輝がいたわるように目を細めた。
「詩織はまだ出逢ってないだけよ」
「そう思うことにするわ。だって、私はまだ日が昇ったばかりだもの」
私はハイライトを取り出し、静かに火をつけた。
そうさ。人生は短いようで長いからね。人生は長いようで短いと思うかどうかは、気の持ちようさ。心の中で、そう彼女に語りかけながら紫煙を吐き出す。
詩織が出て行った後で、大地がため息まじりに言った。
「かばう訳じゃないけど、多分、旦那さんもあの人を愛してはいたんだよね」
真輝が意外そうに眉を上げる。
「そう? だって暴れるのよ?」
「ほっとするから家で暴れるんでしょ? 言い換えれば、詩織さんの傍が唯一、彼が心から安らげる場所だったんじゃないかな?」
そしてこう付け加える。
「それに、きっと最後の『離婚しよう』は彼女を思ってのことだと思うよ。自分だって離れたくないだろうに、自分の安らぎよりも彼女の幸せを願ったんだ」
その言葉に、真輝は不服のようだった。なにせ、幼なじみにあれだけのことをした男だから許せない気持ちもあるんだろう。
でもね、私は孫の言葉に頷いていた。きっと、愚かなほどに不器用だったんだろうさ。オレンジの花をそっと見守ることができず、愛しいあまりに手折ってしまったんだ。
やりきれないものだ。私はメーカーズマークを飲み干した。氷のカランと乾いた音が、やたら虚しく聞こえたよ。
空になったグラスを見つめ、次いで腕時計に目をやる。本当はこれを空けたら帰ろうとかと思っていたが、最後にもう一杯だけ飲みたくなった。
「どれ、私も大地の飲んでいるラムをもらおうか」
私が言うと、大地が目を丸くする。
「ばあちゃん、ラム酒なんて珍しいね」
「いや、お前の顔を見ていたら飲みたくなった」
尊が「わかります」と笑って、私のグラスを用意してくれた。
「大地ほど美味そうに酒を飲む男もいないですよ」
そして尊は仕切り直しだと言わんばかりに、新しいグラスと氷にラムを注いで差し出してくれた。
味をみてみると、キャプテン・モルガンは確かに美味かった。濃厚で甘く、香り高い。こいつぁ、ラム・コークにするのなんか勿体ないね。このままロックが一番だ。
そんなことを言うと、大地が笑う。
「自家用にしたいくらいだもんなぁ。自分だけこっそりと楽しみたくもなるよ」
そして、ラベルの勇ましい男を指で撫でながらこう言った。
「もしキャプテン・モルガンが宝の島にこっそり財宝を隠してるとしたら、こんな酒も一緒にありそうじゃない」
「はは、随分とロマン溢れることを言う」
孫はたまにこういう夢見がちなことを言う。それは間違いなく、死んだ旦那から受け継いだ性分だ。だからこそ、私はこの孫が可愛いんだがね。
「お前がキャプテン・モルガンだったら、宝島に何を隠す?」
私の問いに、大地は即答する。
「千里」
千里とはこいつの彼女の名だ。一見すると儚げな雰囲気をまとった可愛い子だが、実はなかなかのしっかり者でもある。
「お前は本当に千里ちゃんが好きだな」
尊が呆れたような顔をする。だが、その目は眩しいものでも見るように細められていた。
「だって、千里はモテるんですよ」
大地が唇を尖らせた。
「千里って、初めて会ったときは地味な印象だったんです。でも、俺にはすごく可愛く見えたんですよ。周りの友達に『あんな子がいいの?』とか言われて悔しかったな」
「よかったじゃないか、ライバルが少なくて」
尊が笑うと、大地が肩をすくめる。
「でも、俺と付き合い始めてからどんどん綺麗になって他の男に告白されるようになってさ。俺と付き合ってるのにですよ?」
「そんな人気者を彼女にできてよかったじゃないか。第一、つき合い出して垢抜けたということは、悪いことじゃない」
むしろ自慢話だろう。この孫は惚気話でもしにきたのだろうか? そう呆れる私に、大地はふてくされた顔をした。
「そうじゃないよ、ばあちゃん。俺という彼氏がいるのに言いよって来る男がいるのが問題なんだよ」
そしてぼそっと呟く。
「詩織さんの旦那さんみたいに、癇癪起こしそうなときだって俺にもあるよ。だって、悔しいって気持ちとかやきもちは自分じゃどうにもならないもん」
「もしかして『大地になら勝てる』と思われてるかもって気にしてるの?」
尊が言うと、大地は黙ってラムを口にした。無言の肯定だ。
「馬鹿だなぁ」
尊がカウンターの向こうで腕組みをした。
「そんなもん、男の勲章じゃないか。そんな千里ちゃんが迷わずお前の隣にいてくれるんだぞ? 鼻が高いことはあっても、いじけることはないさ」
尊はカウンターの向こうから、大地の頭を乱暴に撫でた。大地はされるがままになっている。
「そんな千里ちゃんを閉じ込めようなんて、小さい男になっちまうぞ」
「信じてないわけじゃないけど、不安になりますよ」
まだ大地はふてくされている。
「気持ちはわかるけどね」
私が苦笑した。
「お前が千里ちゃんに恥じない男になればいいんだよ。簡単じゃないか」
「簡単じゃないよ」
大地は盛大なため息を漏らす。
「俺、将来も定まってないんだぜ。親父の小料理屋を継ぐにしても、チェロを続けるにしても定期収入もないしさ」
「定期収入なんて、そんなもの、私らの前で言うことかい」
私は豪快に笑い飛ばしてやった。バイオリン教師とバーテンダーのどちらにも定期収入なんかありゃしない。定年も昇格もない、自営業なんだからね。
「それでも千里はついてくるんだ。それだけ、お前を好いてくれてるんだ。感謝しな」
すると、尊も笑う。
「嫉妬するのもわかるけどね。お前、いちいちマメに連絡して束縛したいタイプだろ?」
「うん。めっちゃ束縛してるかも」
「ほどほどにしとけよ。まぁ、うちの嫁さんいわく、まるっきり束縛がないのも不安らしいがな」
「ばあちゃん、女って難しいね」
大げさな悲壮に満ちた孫の声に、私は思わず笑った。死んだ旦那もこうして琥珀亭で私のことを相談していたんだろうか。
「まぁ、なんだ」
尊が大地のグラスにラムを注ぎ足しながら笑う。
「こうなりゃ、嫉妬を楽しめ」
「楽しむ?」
眉間にしわを寄せる大地に、尊が大きく頷く。
「どんどん千里ちゃんを周りに見せつけて胸を張っていればいいのさ。男どもが思わず目を奪われるような彼女がお前の隣にいるんだ。それを自慢に思えばいいんだよ」
「そんなものですか」
大地は頬杖をついて、尊を見上げる。
「尊さんもそうしてるんですか?」
「まぁ、そういうこと。苦労が絶えないのはお前だけじゃないぞ」
尊が思わず眉を下げる。尊の妻の真輝も相当な美人だからね。
「まったく、男ってのはわからんね」
私はラムを飲みながら笑う。
「勝手なもんだよ。浮気されてる訳でもないのに妬いたりしてさ。千里が聞いたら怒るぞ」
「ばあちゃんは、じいちゃんから束縛されたことないの? 俺、二人の馴れ初めを知りたいな」
大地の目が途端に輝き、尊までが身を乗り出してきた。
「俺も知りたいですね」
おっと、矛先がこちらに向かってきたらしい。私は右の眉を上げて、こう言い放った。
「そいつぁ、いくらお前の頼みでも、駄目だ」
「なんでだよ?」
「死んだ旦那との思い出は全部、私がプライベートストックしておきたいものだからね」
「ふふん」と鼻をならすと、大地が口を尖らせる。
言える訳ないだろう。旦那からプロポーズされて泣いてしまったなんて。……この私が、だよ。
そのときのことを思い出し、つい笑みがこぼれてしまった。
「私にもね、可愛い娘時代があったんだよ」
孫は口をぽかんと開けていたが、すぐに満面の笑みになった。
「……そうだね」
孫がこのとき何を考えていたのかは知らないけどね、彼は柔らかく目を細めていた。それは、プロポーズで泣いてしまった私を見た旦那の顔つきと同じだったよ。
樹液にも似た色の酒を見つめ、私は口許を緩ませる。
私の旦那はナイトの称号を持つモルガンみたいに勇ましい男ではないけれど、私には確かにナイトだった。
蓮太郎への想いを抱える私を、そっと暗がりから助け出してくれたナイトだったよ。
猛々しい英雄ではないが、どこまでも優しい笑顔と屈託のなさを持つナイトさ。
プロポーズの言葉だって、たいしたもんじゃない。
「お凛ちゃんの音楽で毎朝目覚めたら最高だろうな」
オーケストラで演奏した夜、そんなことを言った旦那に私は笑った。
「それは無理。だって私は朝弱いから。あなたのほうが早起きだと思うわ」
すると旦那はこう言ったんだ。
「じゃあ、お凛ちゃんを『おはよう』って毎朝起こすのは俺の役目だね」
そう、それだけ。『一緒になってください』とも『結婚してください』とも言われてない。
だけど、私は思わず泣いてしまったんだ。旦那のそばにいると、深い海にたゆたうようで心地よかった。それが自分だけに与えられると思うと、感激したんだね。
あの詩織と旦那だって、そんな時期もあったんだろう。けれど、人と人なんてわからないものさ。
私は琥珀亭の先代オーナーではなく、あの旦那と結婚したから、こうしている。詩織も旦那ではなく、別の道を選んで見出すことがきっとあるはずさ。
心の片隅に希望を浮かべ、私は懐かしい旦那との日々を思い出していた。出逢ってすぐのストレートな求愛に呆れたりもした。付き合ってからの驚くほどの束縛には正直、うざったいなんて思ったりもしたけれど、今となってはすべてが愛おしい。
本当は大地みたいに人懐こくて誰とでもすぐ打ち解けちまう旦那に、内心やきもきしていたんだ。
私こそ彼を束縛したかった。でも素直になれなくて強がって平気な振りをしていた。不安で仕方なかったくせに、それを押し隠して泣いたりもした。同じような想いを千里もしているかもね。
いつか、大地も彼女に指輪を差し出す日がくるだろう。まさか、プロポーズの言葉まで旦那と同じようなものだったりしてね。
そのとき、彼に同じ質問をしてみようじゃないか。
「お前は何を宝島に隠すんだい?」
きっとその頃には、本当にプライベートストックしておきたいものに気づいているはずさ。
いつか大地もこう思うだろう。本当に閉じ込めておきたいのは千里本人ではなく、千里との思い出だってね。
だって、こいつは私と旦那の孫だからね。
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