目を覚ましたかった者共

全ての事が終わり、チェシャ猫は呑気に大あくびをして立ったまま尻尾の毛繕いをしだした。

「ね、ねござん~・・・なんで生きてるの~・・・。」

チェシャ猫はアリスがなぜ涙するのかもちゃんとわかっていた。シュトーレンは横で泣きじゃくる少女を前にどうしていいかとおどおどしていたが。

「なんでだろうね、アリス。でもそれは嬉し涙として受け取っていーんだよね?」

綺麗に毛先の整った尻尾が揺れる。

「うん・・・嬉しい・・・会えるなんてあのっ、ごめんなさい・・・。」

嗚咽混じりの声では伝えたいことの半分しか伝わらない。だがチェシャ猫は確かに受け取った。

「猫も嬉しい。ん?謝られる意味がわからないんだけど。」

「こいつと会ってそンな嬉しいか?」

彼がとうにいない世界で自分とチェシャ猫がどんな数奇な運命に翻弄され、物語の最後に悲惨な最期を見たなど知るはずもなく、そんな言葉が出るのは仕方のないこと。一度「死」を目の当たりにすればきっと誰もがああなり、こうなるのだろう。

「まあいいや!ほら!ハグしようぜ。久しぶりの仲間にはこうやってハグしてって聞いたことが・・・。」

ばっと手を広げるシュトーレン。誰もその胸には飛び込んでこない。

「遠慮しとく。それにまだ猫と遊びたがってるのがいるからほっとけなくてさ。」

ずっと背中を向けたままなのは、「まだ残っているから」だ。黄色い瞳孔が真っ直ぐ見据えた。

「チッ・・・多勢に無勢か。やけど、戦えそうなのはせいぜい二匹か、ウチ戦うキャラやないねんけど。」

後ろで様子を眺めていたフェールが残り、彼もまた次なる策へ思考を練る。チェシャ猫は見ての通り、あとは消去法でシュトーレンが向こう側の戦力になると考えた。

「逃げたところでなんになる?きっとあいつらは「地下帝国」の封印を解いてまう・・・そうなる前に・・・。」

この国の事さえさっぱりのチェシャ猫も他の三人も何を呟いているか理解できなかった。自由の鍵については一番詳しそうだが、聞く耳を持ってくれなさそうだ。

「こっちは飛べる、それだけでええ。着実に戦える奴から潰す!」

フェールはこの孤立無援においても尚あの鍵を奪おうと目論んでいるようだ。そんなことなどチェシャ猫にとっては知るよしもなく、興味すらない。

「飛んだら遊べないじゃん。」

にっと笑ったチェシャ猫は、空間のなかに靄となって姿を消した。いくら飛べたところで標的が消えては話にならない。フェールは苛立ちを露にした。

「消えおった!?遊びやない!出てこんかい!!なめとったらあかんぞ!!」

怒りで冷静を失いかけていたが次また現れたときにはどのような攻撃を仕掛けようかと何種類か頭に入れながら、辺りを忙しなく見渡す。

「あ。」

「あらら。」

シュトーレンとアリスが間抜けな声を揃える。無理もない。

「あっ・・・え?」

フェールの動きがぴたりと止まる。その背後、気配もなく再び現れた神出鬼没のチェシャ猫は一枚の薄い羽を「両手に持って」舐めていた。

「なめとったことなかったので取って舐める。あ、逆だったね。てか味ないね。」

振り向いたフェールの顔ほ戦意喪失しきっている。視線を下げる。下げて、下げて、下げてみると・・・あるはずのものがなかった。

「は、羽がなくなっとる!!!」

背中から生えていた羽が根本から一瞬のうちにもぎ取られていた。しかも片方だけ。両方ちぎってしまわない所にチェシャ猫が明らかに弱体化を狙ったのではなく単に遊び心で行動に出たのが伺える。

「うあああ最近やっと生え変わったばかりやのに!あんまりや!一枚だけでどう飛ぶいうねん!」

つい口走ってしまったが、羽一枚だけで飛ぶ生き物などいない。

「飛べてからこそのウチの戦略がパアやで・・・えっ、えー・・・。」

どうこうぼやいてる間にチェシャ猫は羽を真っ二つに折って足元へ放り捨てれば一歩、また一歩と詰め寄る。舌なめずりして近づく彼は獲物を見つけた野良猫のよう。フェールは今度は自分が標的にされている状況で、勝機はすっかり絶たれ正気ではいられそうにない!

「アリス、みんな。猫はいいオモチャを見つけたから遊んでいい?」

「やめろやめろ!!」

不利になった方に「一緒に遊ぶ」権利すらないのは非常に憐れだ。にしてもふられたアリスは返答に困った。

「えーっと・・・。」

シュトーレンの方を見て助け船を求める。

「どうしたんだ?アリス。まざりたいならまざってこいよ!」

鈍感な彼からは何も得られなかった。

「いいんじゃない?こっちも好き放題弄ばれたし、いい気味だよ。」

少年が毒づく。言われてみたらその通りだ。異論はない。

「猫さんのお好きなようにどうぞ。あ、でも・・・。」

仮にも僅かながら恩がある。きっと彼がいなかったら終始混乱したままこの森をさまよっていたのかもしれない。

「痛いのはよしてあげてね。」

それを良いことにチェシャ猫は耳をぴんと立てる。嬉しいという意思表示なのだろうか。なにはともあれ、聞いた対象の承諾が得られたチェシャ猫が早速とフェールの手首を乱暴に掴んだ。

「おわっ、え?何!!痛くないのって逆に何!?うっわああ、離せこの野郎!!!」

呆気なく地面に勢いよく押し倒されたフェールはあっという間に揉みくちゃになった。

「私たち行かなくちゃいけないの。もっといろんなお話したかったけど。」

頬を真っ赤に泣き腫らした顔を逸らす。チェシャ猫が馬乗りになったままこちらを向いた。

「生きてたらまた会えるから大丈夫だよ。」

その言葉に、アリスは気が楽になった。笑みがふとこぼれる。

「そうね。」

「どこ行くねん!そいつ使って勝手なことしたら・・・。」

シュトーレンが目尻を引っ張り舌を出す。

「こんなしょーもねえ森なんかとっとと出ていってやるよ!でもお前いないとわかんない・・・わかんないぞアリス!」

矛先は結局アリスに向けられた。先程のわざとらしい悪態はなんだったのか。

「そうだったわ・・・待つ?」

目を擦りながらアリスが聞き返す。これをフェールは逃さなかった。

「こいつをどうにかしてくれたら教えたってもええで!あと鍵や!」

「殺すよ?嘘ついても殺すからね。」

顔をあげた彼の目の前にナイフをちらつかせる。殺意はない。いい加減抵抗されるのが鬱陶しく感じ「人間の世界で相手を大人しくさせる方法を」施行しただけだ。

「ごめんなさい!あっちをまっすぐ行ってください!!」

脅しがきいたフェールが人差し指立てた手を伸ばす。アリス達からしたら左だ。

「ありがとうじゃあ、あとは猫さんに任せて行きましょう!」

「そうだな!」

精一杯の、アリスの笑顔にシュトーレンもうんと頷いた。少年はアリスの袖を指で握っている。

「ここにいても暇だから僕も行く。あと、名前はドルチェ。それだけ・・・。」

確かにここにいたって良いこともないだろう。ドルチェもまた自分らと同じ迷子ならばここを抜け出したい気持ちも同じ。皆の同意を得たところで三人は仲良くじゃれあう二人をよそに示された道を真っ直ぐ進んだ。

「あ、さっきのウソだよ。ねえねえ、この目の下の何?押したら爆発する?」

「俺の怒りは爆発真っ只中です!!あ、やめやっぱ痛い痛い!ぎゃあああああ!!!」

後ろから仲睦まじい声が聞こえてくる。どうなってるか気にはなるものの、振り返らなかった。

「あーあ、せっかくの感動の再会が・・・。」

どこか残念そうなシュトーレン。ドルチェがいまだにアリスの袖をつまんだまま足元を見て歩き、呟く。

「今からでも遅くないよ?混ざってくれば?」

アリスが追随をかけた。

「そのかわり置いていくわよ?」

少しでも戻ろうとした気持ちが微塵もなく消えた。

「でも、生きていてくれた。なんだか、それだけで嬉しい。だからいいやって思えるの。」

本当に嬉しそうな笑顔に言い返す言葉はなかった。異邦人の連れは森の出口を目指してひたまっすぐ歩いた。




アリス達は足を止めた。正しくはアリスが突然足を止めたので皆も止まったのだ。

「ねえ。ドルチェさん。レンさん。あれを見て。」

道からはずれた方向を指差す。そこには見るからに不気味な石造りの扉が空間の中に異様な存在感を放ちながら立ちそびえていた。壁もないところに扉、それだけならもう慣れっこだった。彼女の好奇を駆り立てたのは「なんで」ここにあるのか、「どこへ」繋がるのかという未知への謎である。

「おう。扉だな。ん?う、うわー、壁がねえ所に扉がある!」

そこまで淘汰の国ではこの光景が馴染んでいるのか。シュトーレンがわざとらしい演技をする。

「この国じゃあ結構見かけるよ?」

ドルチェは対して関心がないみたいだ。見かけるのならば仕方がない。

「は、はずかし!!」

長い耳をぎゅっと下に引っ張って下を向く。あ、意外と恥ずかしいという気持ちはあるみたい。

「そう、扉よ。じゃああの扉はどこへ繋がってると思う?」

耳から手を離したシュトーレンとドルチェがお互い顔を見合わせて首を捻る。

「さあ、知らねえな。」

「僕もここにあるのは初めて見たもん。」

ようは誰もあの扉の向こうにどんな世界が待っているか知らない。そして、これほどまでに一人のお転婆な少女の興味をそそるものはない。

「まあ素敵!だあれも知らない世界があるかもしれないんだわ!うふふ・・・これは行くしかないわね!」

引き気味のドルチェがそっと彼女から手を離す。アリスは両手をあわせ嬉しそうに二度跳び跳ねたらシュトーレンの腕を掴み乱暴に揺さぶった。

「わ、うわわ、どうしたんだよアリス!疲れてるのか!?」

あまりの変わりぶりにそう思わざるを得なかったがむしろアリスの疲れはおもいっきり吹っ飛んでしまった。

「ねえねえ!ちょっとだけ、ちょっとだけでいいから扉を開けるだけ!開けるだけでいいからその立ち寄ってもいいかしら?いいわよね!?」

質問から確認に早変わりした。だが純粋な輝きに満ちた目でみつめらたらさシュトーレンは何も言えない。こういうのにはめっぽう弱い上に自身も気にならないといえば嘘になるからだ。

「俺はいいけどあんまりゆっくりしてられねーんじゃねェの?だって・・・って、おい!」

まだ話の途中でアリスは扉の方へ駆け出した。シュトーレンの隣、ドルチェが興味無さそうな顔で通りすぎる。

「人の話は最後まで聞かなくちゃいけないンだぞ!俺も行く!!」

置いていかれぬよう、半ば自分もその先を見たくて、シュトーレンは慌てて二人のあとを追いかけた。

「頑丈そうな扉ね・・・。」

冷たい石造りの扉。試しにアリスが全身の力を振り絞って扉を押す。

「ん、ん~~~~~・・・っ、こなくそ~~~~!!!」

「びくともしないね。」

か弱い少女一人の力で簡単に開きそうにはとても見えない扉。ドルチェの辛辣な言葉が必死なアリスの心に刺さる。

「手伝う!」

見兼ねたシュトーレンがアリスと並んで加勢した。

「ん゙っ・・・ぐ、こんのやろ~~~~!!」

「開け~~~~~~~!!!!」

男性の力が加わっても隙間すら見えない。

「は・・・ぐっ、ゔっ、んんっ、ふ、二人がダメなら三人・・・!!」

シュトーレンも力んでいては話す方に神経が行き届かない。他の誰でもない三人目は白けた顔で傍観してた。

「いやいや、無理でしょ。」

あっさりと断った。更に続ける。

「この扉さ、物理的な力で開くんじゃないと思うんだけど。」

その言葉に二人は力任せの行為をやめた。息も荒く、アリスは膝に手をついて項垂れていた。



「先に言えよ!!」

シュトーレンの苛立ちの言葉にドルチェはら、

「今気づいたんだけど。」

さも当たり前のごとく返した。

「そのなんとかの鍵ってやつでどうにかならないの?ちょっとは頭を使ったら?」

いちいち癪に障る言い方だが先ほどの力を使いきったせいで呼吸と同じように吐かれる毒舌に応対できる気力すらなかった。

「そっか。じゃあ穴はどこだ?こいつをさす鍵穴・・・。」

見渡してみてもそのようなものは何処にもなかった。

「鍵穴がないのにどうやって開けるんだよ!」

当然のことにやきもきとして叫ぶ。まだ体力が十分回復していないアリスが低い弱々しい声で呟く。

「いままでその鍵を鍵穴にさしたことないでしょ・・・。」

それにハッとした所で一向に反応を示さない鍵はただの鍵であり、「方法」がわかはない限りはどうすることもできない。

「でも、どうにもこうにも出来ないぞ?」

打つ手がなくシュトーレンが扉を睨む。アリスも諦めの気持ちが強くなった。

「こういうのって、なんだっけ。宝の持ち腐れかしら。あーあ、気になるなぁー・・・ん?」

やけくそに大きな声を上げるアリスがすぐにあるものに着目した。

「私も今気づいたわ。これは、なあに?」

彼女の目と鼻の先にある、扉にうっすらと浮かんだ文字はこう書かれていた。



――――――


我ノ 名ヲ 呼ベ

「ズュビエカテケ」

「      」

我ハ 常ニ 前ヲ進ム者



―――――


「読めるか!!」

後ろからのぞきこんだドルチェは即答だった。

「ズッユ・・・ジュビェカッ・・・ジュベッ・・・ズビェ・・・。」

「逆にそれどう発音してるの?」

ドルチェのツッコミも無視してシュトーレンは一人で苦戦している。

「もしかしたら、これがこの扉開けるための呪文かもしれないわ。」

真剣な表情で顎に指を添えながら思考を巡らせるアリス。

「ちゃんと噛まずに言わなきゃだめなのかな?ズユ・・・ズユビエテェクッ・・・。」

「中々難しいなオイ・・・ジュビェ、ジュッテーム・・・。」

ドルチェも挑戦してみたはいいものの誰かさんより酷い滑舌の悪さ。シュトーレンはとうとう違う意味の言葉をぼやいていた。そんな二人のやり取りにツッコミをいれたい衝動を抑えつつ考えを練っていたらひとつの答えに辿り着いた。

「そうじゃないわ。この文全てが答えを導き出すためのヒントなのよ、きっと。」

アリスいわく、この名前自体を糧に答えを割り出すといったもの。しかしながら二人にはその理屈をわかってはもらえなかったみたいだ。

「個人的に、下の文が引っ掛かるわ。何か隠されてると思う。我は常に前を進む者。これはなに?」

ドルチェは「へぇー。」と生返事。アリスが腕を組んで一人唸る。

「下の文。前を進む者がどう関係あるかなのよ。前この文字と・・・前。文字が、文字の・・・!!わかったわ!」

早くも閃いたアリスの顔がぱっと晴れる。二人は半信半疑で彼女に視線を向けた。

「ズユビテッ・・・この文字の前を進んで呼ぶ・・・読むのよ!」

自分だけは滑舌よく口にできると思ったがそううまくはいかなかった。二人は全く意味がわかっていない。アリスは扉の文字の前に仁王立ちをする。

「ズの前はジ、ユの前はヤ、ビの前はバ、エの前はウ、カの前はオ、テの前はツ、ケの前はク。前に進むということはこういうことなのよ。 」

「ジヤバウオツク・・・?」

シュトーレンがバラバラの言葉を集める。物凄く得意気に胸を張るが、自分でもなにを言ってるんだろうとちんぷんかんぷんだ。

「ジヤバウオツクってなにかしら。」

「開けゴマみたいなもンだろ。」

更に彼女の頭を悩ませた。生憎にも聞いたことがなかった。そんな中、ただ一人、ドルチェが扉に寄りかかりながら不安そうな表情を露にした。

「ジャバウォック?なんであの化物の名前が?」

意味深な呟きに異邦人二人が彼の方を向いた。

「ジャバウォック?化物?」

「うん。伝説なんだけどね。昔々、ジャバウォックっていう化物が世界を襲いました。しかし、この国の王様が倒して地下深くに封印したんだと。」

唯一知るドルチェが語るのはどこか他人事みたい。知ってはいるが興味がないのが伺える。シュトーレンもアリスもそこまで興味が湧かなかった。なぜなら、伝説という曖昧な物な上にすでに終わっているのだから。

「この扉は一体・・・?」

すると、石が擦れる音がした。壁も同然の固い硬い扉が、少しずつ、少しずつと間に隙間を広げていく。

「開いた!?」

シュトーレンもドルチェもたいそう吃驚した。勿論、アリスもだ。しばらく様子を見守る。やがて開ききった扉の向こうは真っ暗闇。そばに立っているだけなのに吸い込まれそう。

「やったやったー!開いたわ!」

アリスが嬉しそうに飛び跳ねるたびに髪と地面に散らばった枯れ葉が舞う。勢いで抱きつかれたドルチェは顔を真っ赤にして意地でも引き剥がそうとした。驚くのはそこではない。アリスの導きだした答えで、ひとつの逸話が真実になろうとしているのだ。

「開いたな。どうするって聞くまでもねェよな、アリス。行くんだろ?」

頬を擦り寄せたままこっちを向けばぱっと離れ、無邪気に微笑む。

「当たり前じゃない!思ってたのよりちょっと違うけど・・・行くわ!」

そんな顔をされて文句を言える者はここにはいなかった。迷わずその足で駆ける。いつぞやの穴に導かれた時のように、答えを導いたアリスはまた未知なる世界へと導かれる。扉の向こう側に消えた。

「そんな急がなくてもいいだろー。お前はどうする?」

「僕はやっぱいいや・・・。」

扉から数歩距離を置いたドルチェはなんだか浮かない顔。扉の向こうが闇なら仕方がないのかも。むしろ、アリスの方がおかしいのでは?

「わかった!元気でな!」

肩を力強く叩いたあと、アリスを追いかけ自らも扉の向こうへ行ってしまった。

人のいなくなった場所で扉をみつめながらあれやこれやと物思いに更けた。誰の声も聞こえなくなり、誰の気配もしなくなる。日が暮れるまでに帰ってこなければ自身もあの先へ進むか、去るかと考えていた。戻ったところで、森の中を徘徊するだけの日常にかわりはないのだろうが・・・。




「アリス!これはどういうことだ!?」

辺りは真っ暗で壁も何も見えない。地に足がつく以外体に触れている感覚がない。だが、ここにいる二人のお互いの姿も自分の姿も鮮明に、はっきりと視認出来るのだ。

「わからないわよ。それはそうと、なんだか、がっかりだわ。」

予想以上に何もない空間にアリスはうんざりした。見えないだけなのだろうがそれでもこれ以上長居しようという気はしなかった。

「時間を無駄にしちゃったわ。あら?ドルチェさんは来てないみたいね。」

「来なくて正解ってか?じゃあ待たせてるってことか。戻ろうぜ。」

明らかに足りないもう一人が待つ森へと引き返そうとした時だった。

「わ!なんか落ちてきたぞ。」

シュトーレンの足元にひらひらと一枚の紙切れが舞い落ちてきた。訝しげにアリスがそれを拾う。

「どこから落ちてきたのかしら。なにか書いてあるわ。」

シュトーレンもアリスも「またか」と言わんばかりの顔をした。だが、違うのは複数の行からなる長い文章が見たこともない不思議な文字で書かれてあったということ。

「これはどこの国の文字なの?全く読めやしないわ・・・いや、まって。これはさっきよりは簡単だと思う。もしかしたらだけど、鏡があったら読めるかもしれない。」

またもや長い耳が上がる。顔に出るより感情に素直なのではないだろうか。

「鏡?でも鏡なんてないぞ。鏡の国なのにないって変なのぉっ!?」

今度はもっと大きなものがシュトーレンの頭に落下した。そのまま地面に落ちたものをアリスは拾い上げる。なんと、少し大きめの手鏡だった。木の枠にはめられた面は綺麗に拭かれている。

「なんと都合のいいことでしょう!上に誰かいて私たちの話を聞いていたのかも!真っ暗だけど!」

人の気配などするわけもない。

「おい!俺の頭が割れたらどーすンだよ!!」

迂闊に下手なことを言うのではなかったとつくづく後悔した。上へ向かって怒鳴り散らかすシュトーレンは本当に誰かいるのかと思っている。どのくらいの高さから落ちたか知らないが相当鈍い音がしたのでさぞかし痛かったろう。だが見るからにたいしてこたえてそうにないので、心のなかで「これじゃあ頭が割れるより鏡が割れそうね」と呟いた。

「ちゃんと鏡にも映るみたい。レンさんちょっと持ってて。」

渡された手鏡を頭部を押さえていた手で持つ。

「ほら、この紙を鏡に映すと・・・。」

アリがま文字の書いてある紙を向けた。するとなんということか、鏡に映し出されたのは常日頃から目にするいたって普通の文字ではないか。

「やっぱりね!この文字は全部反対に書いてあるんだわ。所々見てわかったの。。」

アリスの閃きはここでも大活躍した。ほんのひとかけらの運が味方をしてくれたのもあるが。

「何て書いてあるんだ?」

読めるようになった文字を、アリスは鏡の方をゆっくり目で追った。羅列した文を口にしながら読み上げる。

「あぶりのときねばらかなるトーヴ

はるばにおいてまわりふるまいきりうが

すべてよわぼらしきはボロゴーブ

かくてさととおしラースのうずめきさけばん。」

次の行が下にはみ出しているので紙を上にずらすと続きの文字が見えた。きっとシュトーレンはもう飽き飽きしているだろう。アリスも言葉のひとつひとつの意味が理解できないので読んでいても全く面白くなかった。

「わがむすこよジャバウォクに ようじんあれ

くらいつくあぎとひきつかむかぎつめ

ジャブジャブ鳥にもこころくばるべしそしてゆめ

いぶりくるえるバンダースナッチのそばによるべからずヴォーパルの剣・・・。」

読んではずらす行為を繰り返す。

「ジャバウォクの名前がまた出たわね。これってどういうことかな?」

聞いてみるもどうせ彼はこの文すらまともに聞いちゃいないだろうから無駄だと思いつつわずかに期待の眼差しで見上げた。

「レンさん・・・。」

呼ばれても返事はなかった。口の端から細く赤い一筋の血が流れていた。手のひらから鏡が落ちる。恐る恐るアリスは視線を下げた。落ちた鏡に用はない彼女が目の当たりにしたのは、嫌な赤に染まった腹部から突き抜けた尖端の鋭い金属のドリル状のもの。

「祝復活祭の晩餐が兎肉でーす。」

シュトーレンは何も言わず、いや、何も言えず腹に異物で貫かれたまま崩れるように倒れた。その後ろ、質素な服に身を包んだ小柄な少年が死んだ目でこちらを見ている。

こんな人物など今までいなかった。

「あ、大丈夫だよー。俺、人間は食べちゃいけないって常識はあるんで。」

柄の根本を掴み勢いよく引っこ抜く。先は赤黒いもので濡れており、独特の鉄の臭いにアリスは強い吐き気を催し紙を手放して鼻と口元を覆った。言いたいことも、聞きたいことも沢山あるのに。足に力が入らない。ドリル状のものを地面に突き立てて少年は棒立ちで見据えた。

「あれ?おかしいなー君って国の偉い人ぶっ殺した英雄アリスでしょ?これぐらい慣れっこじゃないの?ま、いーや。吐くならトイレでねめんどいから。」

アリスは目に力を入れて強く睨んだ。抵抗というよりかは、そうすることによってかろうじて話せる心理状態にまで持ってこようとしたのだ。

「あーでもさすが。もう泣きじゃくりはしないってとこがね。俺はトーヴ・・・じゃねーわ。名前はスネイキー。君のおかげで「目が覚めた」んだよ。」

スネイキーはシュトーレンの背中を踏み越えて紙を拾うとため息をつきながらコートのポケットにぐしゃぐしゃにしてしまった。

「私があなたに何をしたって言うのよ・・・なんで、レンさんを・・・。」

「説明はいらないよね。」

踏まれたシュトーレンは、指すら動かなければ虫の息すらもしない。嫌な予感は十分にした。泣きつくのは、後だ。

「読んだでしょこれ。こいつは、僕の目の前にいて邪魔だったから。さあて、これからどうささようかな・・・わっ!!」

背を向けたスネイキーの体が一瞬微かにびくんと動いた。

「きゃははははは!!魔法のうるぇはまだまだおとろえてないねー!」

どこからか楽しそうな少女の声がした。スネイキー背中に手を伸ばして、掴んだのは一匹のトカゲ。

「お前は永遠に眠ってりゃよかったのに・・・ハーミー・・・。」

ぶつくさに文句を垂れる。ハーミーと呼ばれた人物が空間の中から姿を現した。

「やーん、スネイキーきゃはは、んー・・・あたちと同いぐらい寝てたはずなのにちびっちゃいまんまねー。」

こちらもまたスネイキーとはまた別の民族風の衣装を着ており、露出された腕や足に赤い模様が浮かんでいる。髪は半分に、緑と白にわかれたツートン。身長は両者ともそんなに変わらない。

「やれやれ、次会ったときは地獄かと思ったのだけどまたこうして生きてる姿を見れるとは。」

ハーミーのあとにまた一人続いて出てくる。緋色の髪を上に束ね和服を着た大人の女性だった。

「あ、スチェイムおばさん。」

「南風である。ババアではない!!」

スチェイムの手に持っていたキセルの先端がスネイキーの額にごつんとぶつけられる。

「お前らが何か言うたび面倒事が増えるから黙っておれ。さて、鍵の気配を感じたが。」

揉み合うスネイキーとハーミーを押し退け、アリスの方へヒールを鳴らしながらゆっくり近付く。赤いアイシャドウで縁取られた瞼が目力を一層強めており、燦然とした金色の瞳に見つめられるだけで勝手に身動きを封じられたような感覚が体を襲う。おまけに口元を布で隠しているせいで不気味さも醸し出している。

「お主の目には人の姿として見えているのか。わっ・・・んん?」

ヒールが食い込む。明らかに土地の地面ではない。鬱陶しそうに見下ろしたらまさか瀕死で誰かが倒れているのだ。ぎょっとしてそのまま結局踏み越えた。そしてまた見下ろす。

「なんじゃこいつ。兎の半獣などここにもおったのか。死にそうではないか。」

赤く腫れさせた額をかばいながらスネイキーが自分が仕留めたくせに他人事のように説明した。

「晩餐のメインディッシュにいいかなと思ったんだけど。」

「うえーっ、うさぎってビミョー!捨てよーよこぇー。」

ハーミーが引き気味に口を押さえる。

「んで、こやつは誰だ?」

「私の仲間よッ!!!」

怒りに震えたアリスの声が闇に谺し、三人の茫然と見開いた視線は一斉に彼女に向けられた。

「黙って聞いてれば何が晩餐よ!ふざけないで!挙げ句の果てには捨てようですって!?人の命をなんだと思ってるの!?」

嗚咽混じりに訴えかけるその少女の表情は、怒りと違う感情が入り交じっている。

「人の命ぃ?ひゃははははは、おかしなこという―・・・。」

ハーミーの言葉を遮って、スチェイムは袖についている札を剥がせばそれを何かか細い声で呟きながら真っ二つに破いた。それが意味することなど誰にもわからない。

「空いた穴を塞ぐことも出来ぬとは、まだまだじゃ。」

ちぎれた紙はひらひらあ動かなくなった彼の背中に舞い落ちる。次の瞬間、空中に紅い光を帯びた複雑な紋様の描かれた魔方陣が突然展開され、すぐに収縮して無に還った。あまりの眩しさにそこにいた者は皆目を瞑る。

「・・・ッ!!」

瞼の奥からも強い光が射し込む。ほれも引いてきてやっと目を開いた。当然、変わらない現実。倒れたまま・・・と思いきや、服にまで滲んだ血の染みが無くなっていた。更に、今の瀕死が嘘みたいに跳ね起きた。ついさっき体が貫通されていたというのに腹部には穴どころか傷ひとつもない。

「ん・・・あれ?」

シュトーレンは自分の身に起こったことを鮮明に覚えているわけがなかった。 ゆっくりと体を起こす。

アリスは喜ぶ間もない。突然死なれて、すぐに生き返っては。

「まったく。なにもしてないのに手を出してはならん。しかし、普通なら既に死んでもおかしくないというに、なんという生命力じゃこんなのふぁぶえっくしょい!」

意味深に独り言を口にするスチェイムは豪快なくしゃみで台無しにした。頬から下を隠した布が舞ったがしっかりと口紅も塗った女性の顔である。

「スチェイムばあさんもしかして・・・。」

「ばあさんじゃないっくしょん!!げほっ・・・へっ、へぐしゅんッ!げほげほっ、くしゅん!!」

スネイキーは、同情より「またか」という呆れた目で背中を丸めくしゃみと咳に咽ぶスチェイムを見下ろしていた。

「りーらぁーなにいってるかわからないでつ。」

「ぉえ、げほっげほっお前は普段から何を言ってるかさっぱりじゃえっぐしょい!!」

ハーミーはへらーっと呑気な笑顔で突っ立っていた。これはおそらく急な状況変化に脳が対応できていない、つまりただのバカのようだ。確かに、舌足らずなしゃべり方で時折聞きづらい。

「う、うぉまくしゃべれないんだもー!」

むきになって反論するあたり、狙った言葉遣いではないと伺える。南風はずっと咳き込んでいる。シュトーレンを助けてくれたのは彼女だ。アリスが介抱しようとした時だった。

「なあ、アイツらなんなんだ?」

シュトーレンがアリスの元へ歩み寄る。でも、爪先に何か引っかかった気がした。なにもないはずの地面かと思いきや、石でもあったのだろうか。

「わっ・・・。」

「えっ・・・。」

「あっ・・・そのまま倒れたら。」

スネイキーが止める間もなく、そのまま二人は倒れたが地に体はつかづ吸収されるように軽く消えた。悲鳴すら聞こえない。完全に二人は消えた。

「あーあ。見事にはまっちゃったな。」

すっかり肩を落とすスネイキーの胸ぐらをハーミーが掴む。特にそこまで怒ってはいないみたいだが。

「おまぇー!またいらんとこに穴ほったなー!」

だが物動じたりしない。

「トラップつきの落とし穴だよ。落ちたら森の外まで転送する番人いらずの優れものなんだけど。」

素っ気なく顔を反らした。今頃アリス達は名無しの森の外へ強制的に瞬間移動させられ見知らぬ土地に着いた所だろう。

「おい。もう少し話したかったのだが、げほっ・・・あの鍵のことだって。」

膝に手をつきようやく背筋を伸ばしたスチェイムの顔には汗が滲んでいた。ハーミーが彼を突き放す。

「そうらお!うまくいけばあの鍵で「魔王様」も復活できたかもしれないのに!」

スネイキーが服のポケットから取り出したのはアリス達が今まで片時も話さず持っていた自由の鍵だった。

「お、お主、なぜそれを!」

穴の方を一瞥し、覇気の無い気怠げな目がこちらを間の抜けた顔で見つめる二人を映した。

「本物そっくりのレプリカと不思議な力ですり替えただけ。メインディッシュ逃した分のお詫びね。」

ハーミーに投げ渡し、受け取っては本物の放つ輝きに恍惚としていた。

「ほ、ほんもの・・・ほんものだ・・・!」

「詩も鍵も揃った。魔王様もだが、「あの子」はさぞ退屈だったろうな。早く解放してやらねば・・・。」

しばらくして、暗闇に覆われた空間が揺れ、鳥の鳴き声と獣の咆哮が轟いた。

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