名無しの森と名ばかりの秘密


アリスはかつて、人の言葉を話す不死鳥に出会った。相対の国では植物も話すことが出来る。それはそうと、人間はまず「飛ぶ」生き物ではない。いや、よく見たら羽が生えている。

「なんや、皆して鳩がなんとか喰らったみたいな顔して・・・。」

独特の口調で話す青年はシュトーレンと同じぐらいの十代後半と見える。右頬にはアリスがいつ頃か音楽の教科書で見た記憶があるマークのようなものがある。白いブラウスにジャケット、カーゴパンツやサンダル等、服装はいたってカジュアル。

「人間が空を飛んでるわ!!」

ひたすら驚愕に目を丸くするアリス。

「かっこいい!」

たちまち好奇に目を輝かせるシュトーレン。

「・・・。」

人見知りを発動させてアリスの後ろにそっと隠れる少年。各々の反応がさぞ面白かったのか呆れた顔が弛む。

「散々貶されてきたのが同じ体手に入れるだけでこうもちゃうとはおかしな話や。さて・・・。」

青年が上から一通り面々を見下ろし、眼中に止まったのはアリスだった。視線が合ったアリスは警戒した。

「久しぶりの迷子にしちゃあ上物やわ。うん、やっぱ若い娘の方がええもんな。」

出会い頭に何を言われるかと思いきや、まさかのナンパか?と疑いつつ、今は味方もいる。アリスは毅然とした態度をとった。

「あなたはさっきから何を仰ってるの?」

それに青年は更に小馬鹿にして笑う。

「何を仰ってるの?やって!こりゃあ男慣れしてへん金持ちの御嬢様やな!生娘の血は美味やいうからますますついてるわ!」

「血?」

一人浮かれる青年の言葉に引っ掛かった。

「せや。美味そうな処女の血はご馳走らしいからな。」

うんうんと頷く仕種の彼にアリスの確信が予感を働かせる。

「あなた、人間じゃあないわね。その上血を好んで空を飛ぶ!」

その輝きを放つ瞳はさながら謎を解き明かした名探偵のよう。犯人でもない青年は微動だにしない。

「あ?察してもた?そうそうウチはー。」

「浄化しろ!!!」

彼がまだ先を言おうとしたとき、アリスが足謎の掛け声と共に、を踏ん張り両手の人差し指で十字の形を作り顔の前へ突き出した!

「おんぎゃあああやられたあああぁ・・・って、なんでやねえええん!!!」

腕で顔を庇い後ろに体を軽く反る・・・も、すぐに体勢を戻して漫才師も顔負けのノリツッコミを見せた。これにはアリスも驚きを隠せない。他の二人も彼の気持ちいいほどのノリの良さに感心を覚えた。

「あれ?死なない?」

「まだ襲ってもないのに殺そうとすんなや!」

彼女の呟きにまたまた鋭いツッコミが炸裂した。

「第一、ワイが吸血鬼やったとしたら今のかんかん照りのお日様浴びてとうに死んどるわ!てか、ちゃうし!おまえの中の吸血鬼はこんなしょぼい羽持っとるんか!?」

ただ黙ってアリスは首を横に振る。

「せやろ?この羽ウチもあんま好きやないねん。ちゃうちゃう。ウチは吸血鬼なんかよりももっと身近な、蚊や。名前はフェール、今だけ覚えといて。」

フェールは蚊といわれたら納得できる薄く長い羽を背中にくっつけ、近くの枝に腰をかけた。

「か・・・?」

こればかりは説明してあげないとかわいそうだと察したアリス。

「血を吸う虫よ。ただ、この世界の蚊は人に近い姿をしているみたいね。」

自分でなにを言っているんだろう、そんな気持ちになった。

「ちなみに言うなら、蚊が血を吸うのはメスだけなんやで。」

「そうなの?じゃあメスだけ叩き潰さなくちゃいけないわね!」

気持ちいいほどに清々しい笑顔でそう返すアリスにフェールの顔はひきつる。

「へっ、あほらし。どうせ近くを飛んどるだけでオスメス関係なく殺すんやろ。」

今度はアリスがぎこちなくひきつった。

「そんな皮肉にならなくてもいいんじゃあ。」

「ま!今のフェール様にゃ関係ない話やけどな!」

そう笑顔で返すあたり、彼は竹を割ったようなドライな性格なのかもしれない。それはそうと、先程からひとつ大きくおかしなところがある。そこを今度はシュトーレンが逃さなかった。きっと誰もが気付いていただろうが。

「てか、なんでお前は名乗れるんや!?」

シュトーレンが指差して問う。なぜか口調が彼に伝染していた。

「ワイはここの「名無しの森」の番人やからな。そこは特権ゆうやつや。」

アリスの後ろに隠れていた少年が怪訝に眉を寄せた顔で睨む。

「蚊のくせに番人だってよ、ムカつく。」

いくら愛嬌のある声でも理不尽な呪詛を呟かれたら怒りを買ってしまうわけだ。

「おのれこのクソガキ・・・調子こいとったらいてまうぞ。」

同じぐらいの低いトーンとドスをきかせた声に少年は「こわっ!」と言ってまたまた姿を引っ込めた。

「名無しの森・・・?」

そこでアリスの質問に待ってましたとばかりの爽やかな笑みに切り替える。

「そう、名無しの森!ここに来た奴は自分や他人の名前を忘れてまう。せやから滅多なことでは人なんかこおへんのやけど。」

一人一人を順番に見つめてから続けた。

「そこのガキも含めてあんたら、よそ者やな。」

アリスとシュトーレンが少年の方を見る。

「あなた、そうなの?」

「知るかよそんなの。」

やや動揺し声が上ずったが悪態は変わらない。

「いかにも迷ってます感出してるやんか。お前らも、お前らの中のお前らもや。ふらふらしとる。」

思わず「あなたはふわふわしてるわね!」と茶化そうとした口をアリスはぐっとおさえた。

「んーまあ、迷子ならしゃあないわな。自分の運命を呪って誰にも名前を呼ばれぬまま過ごしてください、ほな。」

そう言うとフェールは腰を宙に浮かせくるりと背中を向けた。

「ま、待って!!」

慌てて飛び去ろうとする彼を呼び止めるアリスの声は大きく早口で、すぐに止まり振り向いたフェールの表情は口に出さずとも「めんどくさい」と言っているように見えた。

「なんやねんなもぉー。」

「私達ずっとこんな所にいるわけにはいかないんです!どうか、森の外へ案内してはいただけないでしょうか?」

すかさずアリスら、胸に片手を添えて一歩前へ踏み出し乞うような眼差しで真っ直ぐ見上げ、出来るだけ丁寧な口調で助けを求めた。残念、少しの言い方が彼の機嫌を損ねてしまった。

「こんな所ってなんやこんな所って。ワイはここ地味に気に入っとんやぞ。」

しかし、彼女はそんな主張に付き合ってあげるほどの余裕など無かった。

「お願いします!私達のいるべき場所はここではないんです!」

シュトーレンも後に続いた。

「頼む!お前はここの番人なんだろ?助けてくれよ!」

二人の必死の訴えが届いたのか、フェールは体ごと振り返るもどこか難しい表情だ。

「迷ったのは自業自得やろ。それに俺はあくまで番人で案内人やないねん。あんたらを外に出してやる義務はないの。」

腕と足を組んだ格好でふわふわ浮いている。耳を済ませば羽音だって聞こえるのだ。蚊の羽音など聞いたものは誰もいないだろうに。

「それにいくら助けてくれ言われたってな、ウチにはどうすることも出来んわけよ。」

アリスの声に力がなくなる。絶望するにはまだ早いとはわかっていても、相手の言葉に救いがなくなっていく、そんな気がしたのだ。

「な、なんで?」

その様に半ばフェールも同情する。見下ろすその目は憐れみを帯びていた。

「この森は実際ほんまもんの呪いの森なんや。名前を忘れてしまうんもこの森の呪い。つまり、森の呪いを解いて自分の名前を思い出さんと出られんのや。」

それを聞いた途端、一同に絶望の色が浮かぶ。他人事をかましていた少年も、全く打つ手が無しとわかったら表情が沈む。ここで忘れさせられたものを、ここで、どう思い出せというのだろうか。

「思い出したいのは山々だけど・・・。」

「いや、そんなことはねェ。必ずどっかに出口はあるんや!探そうよ!」

肩を落とす少年。諦めきれず悶々としているシュトーレンは口調がごちゃ混ぜになった。

「おうおう悩め迷え考えろ。」

本当は面白がってるだけなのか、フェールは傍で高みの見物と決め込んでいる。時間だけが過ぎ何の打開策も見つからないと思っていた。

「でも逆に考えたら、森の呪いを解けばいいだけの話じゃない?」

真っ先に諦めたと見なされたアリスが口をはさんだ。少年とシュトーレンが目を点にして彼女の方を一斉に振り向く。

「ブフォッ!?」

一方でフェールは吹き出してすぐに口元を両手で塞ぎ笑いを堪えた。アリスはいたって真剣だ。それがまた彼の笑いを誘う。

「いいだけって・・・いいだけやって・・・ククッ・・・随分簡単に言うてくれはりますなぁ。腹捩れる・・・。」

もはや完全にツボにはまっている。

「いや、いいだけて・・・てことは何か案でもあるの?」

「ないわ!」

少年の問いにアリスは断言した。これでフェールに中ダメージを与えた。

「これから皆で考えるのよ!三人寄れば真珠の知恵って言うでしょ?」

「それをいうなら文殊の知恵やろがい!真珠って!!」

更に大ダメージを食らわした。そう。正しくは三人寄れば文殊の知恵である。アリスには知ったかぶりを堂々と披露され、恥ずかしくてたまらない。

「あの虫野郎の様子がおかしくない?」

少年に指摘されやっとまともに会話できるぐらいには自我を取り戻した。目には涙を浮かべている。

「お前ら最強やな。そうくるとは思わなんだわ。涙出てきた腹も痛い。あ、心配はいらんで。」

対しシュトーレンが言った。

「誰もお前の心配はしてねーぞ!」

「・・・せやな。」

今度は精神的ダメージをもろに喰らったフェールは興醒めした。

「そんなことより考えましょう。無謀なことをするより、ひとつでも多くの案を出したらきっとそのなかに答えがあるわ。」

「そうだな!」

「僕は別にどっちでもいいんだけどなー。」

少年はあまり乗り気ではないものの、退屈しのぎの感覚で話し合いに加わった。そうと決まれば三人は集まってそれぞれの意見を交わしたり各々の主張をぶつけ合ったりした。

「・・・。」

帽子の中からひとつの真っ赤な林檎を手に取って一口齧り。フェールは三人を退屈しのぎがてら傍観していた。

「アホやなー。呪いを解いたら言うたけどそんなんないし。おっと。聞こえたか?」

彼の呟きは聞こえてはいないようだ。

「かったこの林檎・・・。呪いを解く方法はないてウチはあの時確かに聞いたんやからな。・・・実は聞いとったりする?」

案の定、聞いてもいないようだった。それでいいのだ。

「名前を忘れたならその時だけ適当に名前をつけたらどうかしら?」

「それが呪いを解く方法って言えるの?」

「うぐぅ・・・でも案外いけるかもしれないわよ?」

アリスと少年が口々に言い合っている中で話についていけなくなってしまったシュトーレンは足元に咲いていた花をむしり取り、一枚一枚花弁をちぎった。

「あれは真性のアホや。さて、オチもなさげやし飽きたら「嘘でしたー☆」ゆうて追い出すか。ヤリ捨てならぬ飽き捨て・・・ちゃうか。」

芯だけになった林檎を放り捨て、ようやくその足を地面に下ろした。

「中々思い浮かばんみたいやな。」

アリスは眉間にシワを寄せ時折溜め息つきながら思考を練っているので振り向かない。

「ねぇ・・・ほんとに呪いを解く方法とかあるの?」

「あらへんよ。」

「はぁあ!?」

少年の疑心暗鬼の問いにフェールが即答し、それにアリスが尖り声で応じた。

「おーこわ、べっぴんさんが台無しやでお嬢ちゃん。いや、ないんやって、最初からそんなもん。」

花弁が全てちぎられた花を捨ててシュトーレンも食って掛かった。

「じゃあ無いのに俺達をからかってたってのかよ!」

「サイテー。」

少年も感情のこもってない声で続く。だが、これぐらいで彼はびくともしない。何故なら逃げ道がちゃんとあるからだ。

「答えはなくとも出口はある!」

両手の平を前に向け降参のポーズをするも口端つり上げ余裕の笑みを浮かべていた。

「ど、う、い、う、こ、と!?」

一歩、二歩、血相を変えたアリスが詰め寄る。

「そのまんまやん。いやぁ答えのない謎に必死になる様は中々おもろかったけど、飽きたから外に出したるわ。」

「飽きたからぁ!?あ、あぁ。ありがとう。」

アリスもいつもの調子を取り戻す。感情の起伏の激しさには皆びっくりしていたみたいだが。

「じゃあ早速ついてきてや。」

一同がなぜかどこか腑に落ちない顔をしていたが出られるに越したことはないのだ。フェールも皆に合わせて森の地を踏んで歩く。

「あっ!・・・関係ないわね。いまとなっちゃあ。」

今更になってアリスは、自分の中で最高の打開案を思い付いたのだ。彼女の言う通り、もう出口に向かっているの最中で口にしても無駄なのだが。しかし、そう言われたら気になってしまうのは蚊であれど人の心をもってしまった所以の性である。

「関係ないなら言わんかったらええやん。んで、何?」

興味ない素振りを見せつつさりげなく訊ねた。

「いままでのなかで最高の案が思い浮かんだの!まあ無駄だけど。」

アリスは勿体ぶるつもりなど全くなかった。しかし、フェールにとっては彼女が焦らしているような気がしてならない。気がせっかちなため我慢が出来なかった。

「確かに無駄やけど、言うのは無料タダやで。」

なんとなく、「気になるんだ」と皆が察知した。

「んーそこまで言うなら。もしね?もしもの話よ?記憶喪失とかで「自分の名前を忘れた人」がこの森に入ったらどうなるのかしら。」

最高の案と豪語した割にはやけに自信が無さそうだった。

「忘れたものを思い出せるわけないでしょ?」

少年が呆れたようにぼやく。

「だって~・・・名前があるから忘れるんでしょ?」

「ってことは「ちゃんと元の名前がある」ってことじゃん。自分が勝手に忘れてるだけで、君の頭は脳みそのかわりに大豆でも詰まってんじゃないの?」

あげくのはてに余計な暴言まで吐かれてアリスは黙り混んでしまう。最初の臆病な態度からはなんという豹変ぶりだ、と。思いきや口が悪いのは最初からだった。

「脳みそ。ハハ、味噌は大豆から出来るもんな、そこもまたミソゆうて・・・なんでもない。」

少年の冷たい視線が背中に突き刺さったのを感じ取る。フェールの洒落は残念ながらアリスにもレベルが高かったみたいだ。

「でも残念やなお嬢ちゃん。そんな単純すぎる話が通じるわけあらへん。一度、ここに迷いこんだ奴の一人が全く同じことを言うてはった。」

内心アリスを小バカにしていた少年が驚きの声を漏らす。

「そいつは自分から死んだ。「親から貰った名前を思い出せないなんて」やってさ、アホらしい話。」

彼の言い方にシュトーレンが一人反論した。

「人が死んだのにアホらしいってなんだ!」

「レンさん・・・。」

対してフェールは一向に懲りちゃいない。鼻で笑う始末だ。

「だってそうやん。名前なんかなくたってどうにかなるもんの為に、たったひとつの命を終えるんやで?」

しかし、シュトーレンは彼が難しい論理を説いてるように聞こえ、ひとえに小首を傾げる。

「例えば、アダ名をつけられそればかり広まって本当の名前で呼ばれなくなりアダ名で呼ばれる。それで死ぬか?」

その問いに答えたのはアリスだった。

「それが死ぬほど嫌だったら仕方ないんじゃないかしら?」

その時だった。大砲の音が大地を、空気を震わせた!

「きゃあ!!」

「うわああ!?」

「ぎゃん!!?」

アリスとシュトーレンが耳を押さえる。少年は全く油断していたのか悲鳴と共にその場に尻餅をついてしまった。

「なんや?爆発か!?」

フェールもやや地面から足を浮かせ逃避の体勢に入る。

この森は国とほぼ隔離された状態なのだろう。異国者の二人はこれが大砲の音だとして何の目的で打ち上げられたかを知っているのに対しフェールと少年がひどく狼狽えている。そりゃそうだ。事情も知らない者にとって突然大砲が鳴り響くこと自体ただごとではなかったのだ。

「この近くで誰かのターンが終わったのね。ここは赤と白どっちだったかしら?」

「アリスが覚えてないのに俺が覚えてるわけねェだろ。」

国が行うゲームに無参加の二人はそんなことなどすっかり忘れてここまでふらふらときたのだ。いたって冷静な対応の仕方にその場にへたりこんだままの少年が呆気に取られている。

「なんでそんな落ち着いてられるの!?」

大袈裟ではあるが本来これが普通の反応だ。アリスは苦笑する。

「そりゃあ私もびっくりしたけど、この音の正体を知っているもの。」

それに対しシュトーレンが口を挟む。

「待てよアリス。これがあのチビの言ってたやつだとは限らないだろ?」

すかさずアリスが返した。

「まあレンさんったら!チビだなんて失礼だわ。リナ様と呼べって仰ってたじゃない。」

「あーそうだったなアリス・・・ん?」

まだ何か言いたそうにしていたが途中で止める。

「どうしたのレンさん・・・あら?」

現象が彼女にもうつる。信じられないといわんばかりに口元を手でおさえて二度瞬きをする。二人だけの会話でそこにいる皆が気付いてしまった。

「レンさん。シュトーレンさん。ねえ、そうよね?わ、私の名前はアリスよね!?」

アリスは期待の眼差しで見上げる。自分のひょんな閃きがまさか無理難題を解いたなど、これほど嬉しいことはない。

「アリスだな。えーっと・・・アリス・・・アリス・プレゼント・アゲルだっけ?」

どうやらシュトーレンは素で覚えてなかったようで、見事に所々間違えていた。本人は真剣な顔なのでアリスは逆に彼を気遣う言葉を探り始める始末だ。

「・・・正しく言えたらプレゼントあげる。」

残念ながらポケットの中にはキャンディーひとつしか入ってなかった。そしてあげる気もなかった。

「ちょいと待て!!お前らは何者や!!!」

一人話に置き去りになったフェールはずっと話を聞いていたが我慢ならず焦燥滲んだ顔で声を荒げた。

「私達は迷子で・・・。」

あまりの豹変ぶりに困惑したアリスの言葉を遮る。

「この森の呪いを解く方法なんて存在せんはずや!せやのに忘れた名前を思い出すなんて・・・!」

そのつもりで皆を出口に連れていこうとしていたのだ。森から出られるのに呪いを解く必要はない。それもまたこちらには一切関係のないことであり、シュトーレンは優越感に浸った自信満々の笑みでふんぞり返る。

「お前が忘れてただけじゃねーの?」

「うるさいッ!!」

だがフェールの一喝にシュトーレンはすんなりと黙りこんだ。

「どうゆうことや・・・俺は聞いてへんぞ?まさかあの「鳥」、俺に嘘を・・・?」

誰にも聞こえるかわからない声で呟いているフェールの足元が数ヵ所、うっすらと光り始めた。

「あっつ!!?」

同時にシュトーレンが突如ネクタイを乱暴に弛めブラウスのなかに右手を突っ込み何かを取り出した。

「レンさんどうしたの・・・、えっ、それは!」

熱くて持てないらしい。チェーンをつまみぶら下がるそれは自由の鍵で、黄金に発光している。

「なんか知らないけど光ってるぞ!熱ッ!?」

手に取ろうとしても触れることが出来ない。

「光りは熱を帯びるから・・・じゃなくてなんで光ってるの?って、迂闊に出したらダメだってば!」

一刻も早く隠さなければ!しかし、鍵が強い光を灯しだした。それだけが、これから何かが起こる前兆を示唆しているような予感がして焦りだけが募る。

「ただの迷子がなんで「そんな危険な物」を持っとるんや。」

危険な物と称したフェールはゆっくりと後退り、声もやや震えている。更に、彼の足元の光が徐々に増していった。

「これはそのえっと、えーっと。」

「すごい!あいつのまわりもピカーッてなってるぞ!」

説明すればきっと長くなると必死に脳内で言葉を整理するアリスの腕をぐいぐい引っ張りながら自身の目も負けんぐらいに耀かせるシュトーレンは神秘的な光景に興奮している。そんな光り輝く中でぎこちない笑顔を取り繕ったフェールは違う意味で浮いていた。

「お嬢ちゃん・・・いや、アリス。 突然の交渉でなんやけどその鍵をこっちに渡してくれへんか?」

「え、は?イヤに決まってるでしょ。」

一瞬で我に返ったアリスが即座に断る。想定内のフェールは出来る限りの営業用スマイルで引き続き土壇場の交渉に出た。

「あんたらが持っとった所でどうしようもない。せやからこっちが預かるだけや、なんもせえへん。そのかわりあんたらに少なからず需要のあるものをこっちで。」

「イヤだって言ってるじゃない!これはフィッソンさんに返さなくちゃいけないんだから!」

アリスは頑なに拒否した。彼女の責任感が打ち勝ったのだ。需要のあるものがどんなものかによるが。

「リンゴくれたらやるけどうふっ!!」

女の子の渾身の力を込めた拳がシュトーレンの鳩尾に直撃する。あやうく果物一つで人の私物が手に渡る所だった。

「あっちゃー・・・さっきのやつ残しとったらよかったなあ。アリス、こっちが何あげるゆうてもほんまに渡す気がないんやな?」

悶絶するシュトーレンの背中に少年は怯えた顔で身を潜める。最終確認。アリスは強く首を横に振った。

「あなたがどんな目的だろうと、この鍵がどんなものだろうとフィッソンさん以外には渡さないの!」

迷いなど、あるはずない。

「交渉破談かぁ。ま、何事もそう簡単に行かんわな。しゃあないしゃあない・・・。」

肩を竦めて深いため息をつく。あっさりと諦めてくれた様を見るとアリスもさすがにむきになりすぎたのではないかと自分を恥じた。

「ごめんなさい。言い過ぎたかもしれないわ。でも、これは。」

その時だ。彼の足元の光が白い閃光を放ち、刹那の間に消えたそこには、身長が3メートルはある黒い靄を身に纏った異形の物が三匹いた。離れてても全身で感じる禍々しい空気が辺りを包み込む。それぞれ、違う形をしているがなにせ真っ黒なのでさっぱりわからない。

「なによあれ!!」

急な展開と、見たこともない歪な化け物に身の毛がよだった。シュトーレンも目を点にしている。少年は気絶する寸前だった。

「悪いけど、お前の持っとるそれがこいつらを起こしたんやで。やけど、お前らじゃあどうすることもできへんやろ!」

フェールの言葉に反応するかのように、異形の物が低い唸りを上げた。その中の一つがフェールの方を振り向く。リーダーなのだろうか。しかし、自ら動こうとしない。

「え!?どうやったっけ、つ、ツクツクワンク・・・。」

指揮を委ねられたフェールは咄嗟に呪文のような言葉を羅列するとそれが合図のごとく、皆の瞳にあたる部分が真っ赤な眼光を放った。

「よし!おまえら、俺の言葉がわかるなら今から言うことに従え。」

アリスは嫌な予感しかしなかった。異形はこっちを認識し標的を定めた。

「フェールさん、でも私。」

彼女が何を言おうと乞おうと、口から出る言葉が同じである以上今の四面楚歌の窮地から逃れることは不可能。道ででくわしたあの化け物とはまた違う敵意とおぞましさ、これは非力な自分達ではどう足掻こうと勝ち目がないということを。


だからといって、渡すわけにはいかない。


なかば成り行きでそうなっただけでそこまでの責任感を抱くことのほどでもないのかもしれない。だが、本当は渡したくなかっただけなのかもしれない。

「おい、アリス逃げるぞ!木が多いからごまかせるぞ!」

シュトーレンがアリスの腕を掴む。でもいざとなったら足がすくんでうごかない。ごまかせたところでこちらの体力がもたなくなったらそれまでだろうに。

「レンさん、私に鍵を渡して!」

「バカか!意味わかんねえよ、お前も逃げるんだよ!」

まさかシュトーレンにバカ呼ばわりされるとは思わなかったが、なぜか今はさほど悪い気もしない。今の自分はきっと、誰から見ても本当にバカなことをしようとしているのだから。だって、鍵を持ってる彼が逃げても危ない。自分が鍵を持つ囮になってその隙に逃げてもらおうと考えているのだから。まあ、シュトーレンが従うかどうかは別として。

「あいつらから鍵を奪うんや。最悪殺しても構わへん、なんとしてでもとってこい!」

フェールは手のひらを返したように、こちらを指差し周りの者の注意を向こうに誘導する。ああ、この鍵さえ渡せばこんなことに。そもそもこんな鍵などなければこんなことに。後悔したらきりがない。望みなどなかった。異形の化け物の一つが先手を切ってこっちに近づいてくる。アリスは強く瞳を閉じた。


「・・・。」


視界は暗い。当然だ。体に何も触れてこない。これはおかしい。今頃なら少なくともまとまに立ってはいないはずだ。寸止めしているとも考えにくいが怖くてとても目が開かない。息づかいの音でさえ漏れるたびに不安がぐっと押し寄せる。

「な、ど・・・どうしたんや?」

向こうから聞こえる弱々しいフェールの声。先程の威勢は何処へ行ったのだろう。こうしている間にも襲いかかってくる気配がない。何が起こってるのか、目をつむっていてはさっぱりだ。

「すげえ・・・どこから飛んできたンだ・・・?」

「僕らのほかに誰かいるっていうの?」

近くではシュトーレンと少年がひそひそと話しているのがしっかり耳に入った。明らかにおかしい内容だが、仲間の無事は確認できてなによりである。

「なに?なんなの?」

籠った声で呟くアリス。自分の目で確かめるより他がなかったと悟り始めた最中だった。


「にゃにゃーんと久しぶりだね、世界。」


アリスは耳を疑った。ここにいる誰でもない声、そしてひどく懐かしく、もう二度と聞くことのないと思っていた声。信じられなくて思わずアリスは無意識に瞼を開いた。


「なんやお前は!いつからそこにいた!?」

フェールは戦慄に歪んだ形相で上擦った声をあげる。異形の化け物の頭の真ん中にはデザートナイフが深く刺さっていた。さすがにそれでは大したダメージは与えられないみたいだ。びくともしない。

「ほんとだよ!てか久しぶりだな!」

シュトーレンの嬉しそうな声。

「突然現れたんだけど・・・。」

少年の混乱気味の声。

「ウソでしょ?貴方は・・・チェシャ猫さん?」

か細く震える声でアリスは名前を口にした。それに応え、チェシャ猫と呼ばれた猫の耳と尻尾を生やした少年はくだけた笑みで振り向いてみせた。

「そーだよ。猫はチェシャ猫だよ。また会えたね、アリス。」

「誰か知らんけど遠慮はなしや!殺れ!!」

フェールの怒号とも近い命令と共に異形は皆一斉に動き出した。

「君達の遊び相手は僕だよ!」

そう言ったチェシャ猫は腕を頭の後ろで組み、尻尾をゆらゆらと動かしながら無邪気な笑みを満面に浮かべた。闘志どころか言葉通り彼は目の前の化け物を相手に遊ぶ気満々だった。勿論、チェシャ猫の意思などしったことではない。命令に従って動くのみの化け物は静かなる殺意を秘めて襲ってきた。

「チェシャ猫さん!!」

アリスの必死な叫びに振り向くことなく返した。

「猫さんでいいよ。それでも僕が僕だってわかるから。」

二人の会話を遮るかと、異形の岩のごとし拳は細身の体をめがけて殴りかかる。それをチェシャ猫は身丈ほどのジャンプで飛んであっさりとかわし、あろうことか手の甲に軽々と乗ってそこから四足歩行で太い腕を駆け、次の攻撃を繰り出そうと思考していた化け物に頭突きを喰らわした。刃の部分を全て飲み込む。そのナイフを抜き、今度は喉元をかっ切った。ナイフも自身も血に染まる悲惨なことにはならず、生きてる異形の咆哮と死にゆくものの断末魔が森を震わせた。人と同じ構造をしているなら今の一撃で間違いなく即死であり、化け物はぐらりと前に大きな体を傾かせた。

「よっ、と。」

もう一匹がすぐにもこちらに向かって距離を詰めてくる。チェシャ猫は脳天から飛びかかり、両手で振りかぶるナイフをまたも額目掛けて一刺しした。しかしこれは狙ったわけではなく、たまたま刺そうとした所に額があっただけでこれでとどめまでさせという実感はない。重みで一緒に倒れたが素早くチェシャ猫が身をおこし、近くの木の枝に飛び乗った。

「すっとろいにゃ~。」

長い袖に隠したナイフに二本投げられ、首に命中。全身がこちらを向くまでにはまた何かしらの攻撃を仕掛けることが出来るだろうにチェシャはわざと待った。

「速さでは勝てんか。せやかて力では圧倒的に潰されるはず・・・。」

分析するフェールは確信した。化け物の一振りをまともに喰らったものなら木の葉のようにチェシャ猫は吹っ飛んでしまう。

「チェシャ猫避けろ!」

シュトーレンの言葉も聞いちゃいなかった。いかに豪胆で無謀に見えたことか!化け物は容赦なく真横から殴る。


だが、皆はお気付きだろうか。

彼はそもそも、避ける必要がないのだ。


「ハハハ!今ごろびびっても遅いんや!!」

裏切り者の高笑いもなんのその。拳は、チェシャ猫の体をすり抜けて空に弧を描いた。

「は?」

と口をぽかんと開けるフェールとアリスの腕を強く抱き締める少年は叫ぶ。

「幽霊だあああああああ!!!!!」

「え!?マジで!?死体はちゃんと葬ってるで!?」

意外とフェールが律儀でマメな性格だと判明したところでこの森の不気味さも増した。

「復活したばかりで勝手に殺さないでくれるかな?」

幽霊呼ばわりされたチェシャ猫がうっすら笑いを浮かべる。アリスとシュトーレンは逆に安堵の表情だ。それどころかアリスは、いつも笑っている彼に微妙な変化を感じた。油断は大敵、倍の力で腕が戻ってくる。チェシャ猫は一回体を捻り片足を軸に回る。そう、力が加わっていく方向に遠心力を利用して空いている足に強烈な蹴りを入れるためだ。チェシャ猫の一撃が化け物の巨体のバランスを崩した。

地響きのような音が鳴ったあと、まだ生き残っていた化け物がこちらへ近寄るが計算外にも倒れている化け物につまづき折り重なったところを足から抜いたナイフで後頭部を刺した。

「やったー、かにゃん?」

しばし待ってみてもびくともしない。どうやらやったようだ。かくしてチェシャ猫のごっこ遊戯ははやくも幕を閉じた。

「やったあああああ!!!」

シュトーレンのたったひとりの歓喜の声が沸き上がる。少年は喜びたいものの目の前で起きていることが把握しきれず物事を明確にするまでは喜びを共有できなかった。

「やったぜ!アリス!すげえかっこいい!」

一方、同じように仲間との再会を兼ねて抱きついたりでもするのかと思いきや、アリスは大粒の涙を溢して立ち尽くしていた。

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