鏡の奥の向こう側
それはとある夕方のこと。アリスは一人、暖炉の前の木製で真新しい椅子に座って編み物をしていた。編み物はそこまで好きなわけではないが、誰もいない間の時間潰しにはうってつけな上に、寒い季節にはぴったりだ。ただ、完成すればの話だが。相も変わらず、手と同時に口も動くものだから作業は進まない。まだ何を編んでるかさえ把握できない。
「ねえ、知ってる?・・・というより覚えてるかしら、ダイナ。」
そう言うアリスの足元には丸い毛糸の塊に夢な真っ黒な飼い猫のダイナがいた。アリスも編み物に夢中でダイナの方は見ていない。
「明日はね、私の誕生日なのよ。11月5日。」
アリスはふと窓の外に視線を向ける。綿のような雪が穏やかに降って、芝生や家々の屋根に真っ白なクッションをかけていた。元気な数人の男の子が走っている。
「だからお父様やお母様・・・お姉さまは私の誕生日パーティーのための買い物に行ってて、もちろん私はお留守番。でも、わかりきっているのとそうじゃないの、どっちがわくわくするかしら?」
再び編み物に目を戻す。穏やかで嬉しそうな声で、独り言ではなくダイナに語りかけた。
「例えばよくあるパターンで私は何も知らないの、そして誕生日になったら皆でサプライズでパーティ開くのよ。でもそれまでの間はいてもたってもいられないわ。」
風がわずかに窓を叩く、なんら気にすることではなかった。
「じゃあパーティするのはあらかじめ決まってるの。つまらない、なんて思う?それまでずっとわくわくできるじゃない!最高!・・・でもやっぱ刺激に欠けるわね・・・。」
ダイナがアリスの「最高!」に反応してにゃあと鳴いた。すかさず聞いて更に盛り上がる。
「嬉しいことには変わらないわ。何より祝ってくれるっていう気持ちが嬉しいのよ。あっ、でもみんな私が欲しいものなんか知ってるのかしら?気持ちが嬉しいっていっても正直、もらっても困るものってあるじゃない?」
特に隠しているわけでもなかったが、普段から本当に欲しい物を家族に話していなかった。話さないうちに話そうとしていたことさえ忘れていた。
「知らないとしたら何をくれるのかしら?やだ!!知らないから何もくれなかったらどうしましょう・・・。」
ぱっと暖炉の方を向いてすぐにまた編み物を睨む。何やら真剣な面持ちだ。
「そうだわ。これを自分への誕生日プレゼントにしよっと!人からもらうばかりじゃなく自分の誕生日なんだから自分からも用意しなきゃ!」
アリスはずいぶん意気込んで編みかけの何かを両手で持って肘を伸ばした。
「それまで何が出来るかわからないってのも面白いわね。うふふ、そうだと思わない?ダイナ・・・。」
と呟きながら足元の様子を伺う。しばらく笑顔のまま固まった。
そこには大人しくしているはずだったダイナが、毛糸の玉を完全にほぐしきって散らかる糸の中で絡まりじゃれていたからだ。
「・・・。」
ダイナが一瞬顔を上げる。
「ダイナッ!!あなたって子は!!」
そう血相を変えて怒鳴っては編み物を床に置いて椅子から降り、その場に膝を折って座り込む。逃げようとするダイナをひっかまえ自分と向き合わせた。
「こんな悪いことをして!誰が片付けると思ってるの!?いいこと?貴方は片付けなくていいわ。そのかわり後できっちりお仕置きしますからね!!」
早口で説教をしてみるも猫相手だとむなしいだけ。一方のダイナは前足を舐めていた。アリスは肩をあげてから呆れたようにため息とともに肩を落とす。仕方なくアリスは、ほどけきった毛糸を指に巻き付けてひとつの塊を作ろうとした。それにしたって全部をほどいてしまったものだからやっとにいかない。犯人のダイナはすっかり飽きてしまい、アリスの座っていた椅子に軽々と飛び乗っては丸くなってその場所を陣取った。しかし作業に没頭してしまってはいちいち自分の飼い猫のことにまで気にしていられない。
「全く・・・呆れちゃうわ。いいこと?この糸が全部巻かれるまでに貴方にどんなお仕置きをしようか考えとくからね。」
せっせと左手の平に何周も巻き付けるも、やはり止まらない独り言と、考え事をしながらの作業がスムーズにいくわけもなく。
「そうね。例えば一日ご飯抜き!さぞかしお腹すくでしょうね。もちろん!あなたがほかの子の餌を食べないように私が一日中見張っておくんだから。でもそれも面倒ね。」
アリスはただ、手も動かしながら俯いて真剣な表情で小さな声で呟いていた。
「おしりぺんぺんとかどうかしら。猫って叩かれると痛いのかな?だって、「痛い」なんて言わないもの。」
とだけ言って何か思い付いたようだ。
「ねえ?ダイナ。痛いって言わなければそれは痛くないのかしら?」
手を止め、振り向く。ダイナは金色の丸い目で椅子の上からじっと見下ろしている。アリスもさすがに猫相手に会話を求めているわけではない。全く懲りてなさそうな動物を改めて見てみるとなんだかひどく滑稽に感じたのであった。アリスは自嘲を含んだ笑みをこぼす。
「あらやだ、私ったら突然おかしなこと聞いちゃったわ。」
すると、また突然に今度は玄関からチャイムの音が二回程鳴った。小走りで駆け寄る。
「はーい。」
ぱたぱたと足音。躊躇いなくドアノブに手をかける。まさか、誰がそんな堂々と入ってくる時に「危ないもの」を笑顔で振りかざすものか。
「きゃああ!!!」
悲鳴を上げながら咄嗟の事にアリスは壁にぶつかる勢いで体を捻ってかわす。
「あはは、失敗したなあ。」
そこにいたのはフードを深く被った、声と体格からしたら成人はしているだろう男性。顔は明確には伺えなかった。なのに感じてしまう恐怖と、狂気。手に握られているのは鋭利な凶器。
「あ・・・な、なに・・・!?」
怯えた瞳で壁をつたい後退りする。男は口元に不適な笑みを浮かべ一歩、また一歩と詰め寄る。蛇に睨まれた蛙のようだ。しかし、このままのわけにはいかないとすぐさまアリスを次の行動に走らせた。
「いやっ!!」
アリスはリビングに逃げた。
「まあ待てよ!!」
余裕に満ちた男は凶器・・・もとい、ナイフを片手にすかさず後を追う。
「いや、こっち来ないで!」
そう、リビングには玄関に通じる大きな窓がある。そこを抜けて一通りの多い所に駆け込もうとしたのだ。慌てて開けようとした。だが、鍵が開かない。
「えっ、なんで?どうして!?」
どれだけ力を入れても開かない。何かに壊されたのだろうか見覚えはない。必死になってるとリビングにはもう男がいた。アリスはガラスに背中を張り合わせる。顔はひきつり血の気も引いてまるで蒼白。男が近寄る度に「可能性」が奪われていく
「貴方・・・誰なの・・・?」
震える声で現実を否定するかのごとく首を横に振り尋ねる。
「俺?ナイショ。てか言っちゃったらダメなやつっしょ。」
男はナイフをちらつかせつつじりじりと距離を詰め、すっかりすごんでしまったアリスの髪を撫でた。
「ひっ・・・!」
その行為も気持ち悪く肩が跳ねた。
「いい鳴き声だねー。あ、別にそんな趣味じゃないから。俺はいじめるのはキョーミないの。」
髪からすっと手を離すと今度はナイフを唇にあてる。随分と狂気的に。笑う。
「俺はね、殺すことがね、好きなの。」
アリスが僅かに芯の強さを見せた。顎を引いて睨む。
「だってさ、毎日「いつ死ぬかわからない」なんて思って生きてる奴なんかいないでしょ。特に君みたいな生まれたときから幸せそうな奴はね。」
男はアリスの反応さえ愉しんでいるみたいだ。
「そーゆー奴が突然死ぬのって最高でさぁ。でも、それは突然の死でないと個人的につまらないわけ。君もさっきの一発で殺すはずだったんだけど。」
他人事のように話す男。恐怖に打ち勝つ強い感情がアリスの口を開いた。
「それが殺していい理由にはならないわ。」
すると男の顔から一瞬笑みが消えた。
「それじゃなかったらいいのかい?」
でもすぐに、不気味に口が歪んだ。
「じゃあなんか適当な理由こじつけて殺しちゃおーっと!」
次の瞬間男はアリスの首もとを押さえイフを持った右手を後ろに引いた。
・・・だが、ほんの刹那、アリスは男の急所を渾身の力を込めて勢いよく蹴り上げた。
「あ、ぅああ!!」
どんな手慣れた殺人鬼も男性である以上この攻撃に耐えられるものはいないだろう。力の抜けた掌からナイフは落ち、重い呻き声を上げながらその場で悶絶している。
「・・・!!」
今しかない、と、アリスは逃げる。だがいざとなったらそれが出来ない。果たして本当に逃げ切れるのだろうか。一度大打撃を与えた分次に捕まったなら絶対ただでは済まない。そんなことさえ考えなければ!
「ぅぐ・・・君、中々ッ、ふふ・・・。」
鈍い痛みを歯をくいしばってようやく耐えている男は怒るどころか更に笑っている。覚束ない足で立ち上がる。
「来ないで・・・。」
アリスの頭はフリーズした。もう何も頭に浮かんでこない。
「誰か・・・助け・・・。」
最終的に頼るのは神。恨むのは自らの運命。それらが存在するものではなく、存在してほしいものだと心の隅ではわかっているはずなのに。勿論、家族は出掛けておりいつのまにかペットの猫もみんないない。いるとしたら、妹のアンだ。もし自分が死んだら、アンが危ない。
―それだけは、絶対に避けないと。―
「そうよ、アンは・・・って。え?」
自然に、ごくごく普通に、誰かと会話するみたいにアリスが答えた。でも、まるで頭に直接語りかけるかのような声の主はどこにも見当たらない。
―今のは関係無い。アリス、本当に逃げ場がないのなら。飛び込め。―
どこか懐かしい、少年の呼びかける声。時間が止まり、何故だか途端にふっと体の緊張が抜けた。無論そこにいる男には聞こえておらず、アリスがわけのわからない独り言を呟いてるようにしか見えない。
「怒ってないよ。あはは。」
鋭い刃を隠し、詰め寄る。本当に愉しんでいる。幼い無邪気な残酷さが見え隠れしている。
「どこに飛び込めばいいの?」
まさか窓を突き破れ、とは言うまいと考えてもこの部屋に飛び込めるような箇所はどこにもない。
―・・・鏡だ。そこの鏡に飛び込め。―
アリスはこの部屋に唯一存在する化粧台の鏡に目を向けた。部屋の景色、鏡に映る自分に疑心暗鬼に睨み返される。ありのままをそのまま映し出す壁のようなものに何が悲しくて飛び込まなくてはいけないのだ。そもそも鏡に向かって飛び込むなどいずれにせよ狂気の沙汰だ。頭がおかしい奴だと逆に呆れて手を引いてくれないだろうかと割りと呑気なことを考えられるぐらいには落ち着いてきた。恐怖は刻々と迫っているのに。
「無理に決まってるでしょ!」
と普段なら言うべきところを、ほぼ無意識に、息をするみたいに、ぽっと口から出た言葉は。
「もしかしたら、いけるかも・・・?」
そう言ったアリスに躊躇いはない。その足は誰もが思わない方向へ駆け出した。迷いは多少はあったが藁にも縋る思いが体を衝動的に動かしたのか。
「んん?どこへ逃げ・・・。」
走っていった先は化粧台。アリスのとった行動、それはなんと化粧台の上によじ登ったというこの状況からしたらとんでもない奇行だった。男は何がどうなったか逆に今度はこちらが混乱するはめになった。
「は?え?なになに?」
他人の声も聞こえない。アリスは違う空間にいる感覚に体が一人歩きしている。
「本当にこの奥に何があるのかしら?」
アリスにとってもはや逃げることではなく、行ってみたいという気持ちでいっぱいだった。香水の瓶が散らかっている化粧台の上に膝をたてて誘われるように右手を伸ばす。
「!!」
なんということだろうか。中指が触れた瞬間、鏡は一滴の雫が落ちた直後の波紋の如く広がって消えていくではないか。半信半疑だったのかもしれない。だが、これで確信した。
「行けるわ!」
アリスは手を更に伸ばした。波紋は大きくなり鏡が水面となり腕を、肩を吸い込む。
「はあ!?ちょっ、なんだあれ!!」
フードに隠れた顔はさぞかし間の抜けた表情をしているだろう。そりゃあそうだ。すぐ目の前でこの世界の常識や物理法則を超越したありえない非現実的現象が起こっているのだもの。立ち尽くすほかない。こうしている間にもアリスの体はどんどん吸い込まれていく。
「・・・逃がすかよ!!」
色々考えるより、今は獲物を逃すわけにはいかない。男は化粧台に乗りアリスを引きずり出そうと腕を掴んだ。だが、力を入れるにもアリスの体は掴まれている腕だけが出ている状態で重力と共に傾いた体は向こうに落ちかけてる。
「う、わ、あああああぁ!!?」
アリスの体は完全に鏡の中に消え、男もまた一緒にになって向こう側に消えていった。
――――――――・・・。
「わぶっ!!?」
アリスの体が勢いよく落下した。頭から真っ逆さまに落ち、足が重力によって空に軌道を描いて振り下ろされ体は前転。おかげで背中と足を強く打ち付けた。
「ん・・・んん~~~・・・ッ!!」
頭を手で覆いのた打つ。痛いも何も、下手すれば首の骨も折って地面に落下してすぐに天国に昇ることになっただろう。・・・というのも大袈裟だが、とてつもなく痛いのだ。今のアリスを例えるなら殺虫剤をかけられた瀕死の虫みたいに滑稽だ。
「いった~い!誘ったのならクッションぐらい用意してよ!」
仰向けからゆっくりと体を起こす。無茶な話だ。
「・・・うぅ・・・。前にもこんなことあったわよね。あのときは私が勝手についていったんだけど・・・って、あれ?」
そして立ち上がる。不思議そうに呟いた。今のアリスの脳内には一瞬にして彼女が訪れた異世界での覚えている限りの記憶が溢れるように流れ込む。そのため、少しの間脳の処理に時間がかかりぼーっとしていた。
「なんで忘れていたのかしら。「あんな事」。普通、頭を打ったら忘れるものよね?待って?今まで忘れていたことを思い出したのならそのかわりまた何か一つ頭から抜けたんじゃないかしら!」
ほんの呟きがまた病的な独り言の域に。なんで忘れていたかを疑問に思いながら、自分の置かれた状況に新たな疑問符を浮かべた。その場に突っ立って周辺を見渡す。木の板を列べた床はピカピカに磨かれ、その上をこれまた高級感溢れるふかふかの赤いカーペットが敷かれていたアリスが入り込んだ出口側の鏡も化粧台の一部になっており、こちらは金色に輝いていた。部屋はとにかく広い。アリスのいた部屋も広いが、比べ物にならないぐらい広い。民家の部屋から王家の部屋に飛び込んだよう。白亜の壁の所々に金の枠にはめられた絵画が飾られている。窓枠やドアノブまで金。極めつけは天蓋つきの一人で寝るには勿体ないぐらい大きなベッド。滅多にお目にかかれない代物を目の当たりにしてアリスは唖然としている。
「・・・理不尽だわ。こういうの不公平だわ。鏡って全く同じ景色を映してるのにこんな世界を隠していただなんて!」
あまりの差を見せつけられ思わず訳のわからないことを口にした。特に気にくわないわけでもないが。ふと天蓋の奥に何か置かれているのがアリスは気になり、忍び足でそーっと歩み寄る。なんとなくこの部屋の雰囲気が彼女をそうさせたのだ。恐らく部屋の主からしたらアリスも不法侵入になるのだろう。たまったものではない。そんなことを考えつつ好奇心には勝てなかった。
「あら?ぬいぐるみ?」
枕の周りには熊や動物のかわいらいぬいぐるみや女の子の着せ替え人形が寄せ集められている。他にも絵本などがある。
「うふふ・・・ここは子供部屋なのかしら?」
萎縮してばっかりだったので、つい微笑ましくなる。しかし子供が過ごすにしては尚更不相応な部屋な気もしてきた。
「だとしたら私、こんなに広い部屋に一人だなんてとても落ち着かないわ!あ、もしかしてこのぬいぐるみ達・・・。」
片付けずあえてここに集めていることに余計なことを察しかけていた。
「のわあっ!!!」
突然、男の声が後ろの方で物にぶつかる音と共に穏やかな雰囲気を打ち破った。アリスの背筋が凍り息が詰まるような緊張感に襲われる。
「いたた・・・え?どこだ?ここ・・・。」
間違いない。あちら側の世界で自分の命を狙った男がここまで追いかけてきたのだ。招かざる来訪者はそれっきり何も言わない。口にしないだけできっと先程のアリスと似た心境なのだろう。しかもアリスほど飲み込みが早いわけでもない。
つまり、隙だらけ。
なのにアリスの頭は一瞬にして真っ白になり鼓動も呼吸も段々加速していく。
「・・・あ、あ・・・。」
今ならあの大きなドアを抜けたら密室からは逃げられる。とはいえ初めて訪れた場所。このドアの先には何があるのか?
「すげェ!!お金持ちの家みたいだ!」
男が言葉を発する度に肩が跳ねる。気のせいか声が若くなった。でも気にしない。
「こんなでっけ~部屋初めてだ!すげー・・・部屋じゃなくて家じゃないのか!?」
気にしない、気にしない・・・。
「あれ?俺、今まで何してたっけ?」
気のせいなんかではない。明らかに言っている台詞がさっきの状況とあっていないというか。とにかくなにもかもがおかしいのだ。混乱するアリスはそうだとしか考えられなかった。
「おい!お前、ニンゲンか?」
言葉につまる。どうしたらいいのか。全く違う別人がそこにいるみたいだ。でもそうじゃなかったらどうしようとか。
「さっきちょっと動いたから人形じゃねーな。」
と、今度は向こうから近寄ってくる。怖い。怖いけど、アリスは思いきって、振り向いた。
「ま、まだ言うか!!」
尖り声で血相を変えてみせた表情で勢いをつけて振り向く。
「ひょえ!!?」
男はすっとんきょうな声を上げて驚きその場に立ち止まった。
「え?・・・え、えぇえ!?」
アリスの虚勢は脆く崩れあんぐりと口を開けた顔は間抜け面。男が驚いたのはアリスのあまりの剣幕に対してだが、アリスはそれとはまた違う次元の話だった。
「あなた誰!?」
そこにいたのは自分を執拗に追い詰めていた男ではない。そもそも、人間というのも疑わしい何かがそこにいたのだ。まず、服が違う。白い半袖のブラウスの下に手も隠れるほど長いピンクと黒のTシャツを着ている。赤いネクタイ、統一された黒いベストとズボンもきちんと着こなしているようには見えない。片足だけまくり挙げられこれまた色鮮やかな靴下が覗く。靴は真新しいローファー。
「お前こそ誰だよ。」
声もやはり若い。髪はピンクで三白眼気味の黄色い瞳。そして頭から生えている「茶色く長い獣の耳」。まごうことなくそれはウサギ特有の長い耳でたまに小刻みに動いたりする。本当に、この人は誰なんだろう。さっきの殺人鬼と同じ人とは思えない。色々な意味で。
「・・・貴方に教える名前は無いわ。」
「そンなわけないだろ!」
少年はむきになる。なにもかもが面倒になり、この人がどんな人か明らかになっても理解できるかどうかわからない。でも、何もかもわからないままはもっと不安だから。
「貴方が何者か教えてくれたら私も教えてあげる。名前だけよ。」
すると少年はとたんに嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「俺はシュトーレンだ!さんがつうさぎのシュトーレンだ!」
自信満々に甘いだけのお菓子の名前を羅列する。本当に別人のようだ。だが警戒心はまだ解いちゃいない。
「私はアリス。貴方は私を殺そうとしてあの鏡を越えてここに一緒にやってきた男なの?」
あくまで冷静を装って淡々と問う。シュトーレンは小首を傾げた。
「何いってんだ?お前のことなんか知らねーし、殺したら死んじゃうだろ?」
それはこっちの台詞だ。男はそれを承知するどころか自ら望んで行動に至ったのだ。と、口には出さず喉に飲み込んだ。
「殺したら死んじゃうからな!」
同じことを二度主張した。これは狡猾な殺人鬼の知能ではない。アリスは考えた。本当に今目の前にいるこの少年があの男なのか。もはやここは全くの別人とらえてもよいのだろうかと。あの鏡を飛び越えてから変化が起こったのはアリス自身もだ。今まで忘れていた「思い出」がここにきて甦った。でも、あの男とシュトーレンになんらかの接点があるとしたなら尚更ここは全くの異世界ではないとも考えられる。いや、そういうことじゃなくて。そもそもここはどこだ?考えれば考えるほど謎が深まっていくばかりだ。急激に色々なことが起こりすぎて思考を停止したくなる。
「シュトーレンは長いから親しみをこめてレンさんって呼んでいいぞ!」
会ったばかりでどう親しみをこめろというのだ。愛称ではなく、略称として呼ばせてもらうことにしよう。
「レンさん・・・ね。ここにくる前のこと、本当に何も覚えていないの?」
「あるぞ!淘汰の国のお茶会していた!」
自慢げにそう言い張る。お茶会、淘汰の国と言われて懐かしい景色が思い浮かぶ。ひとまずアリスを襲った男とは無関係と決めた。
「ん~・・・ますます引っ掛かるけど、ひとまず外へ出ましょう?」
「ん?あぁ、おう・・・。えっと。」
いくら誘われたからといって「はいそうですか」の一言で不法侵入者を見逃す家主はどこの世界でもそうそういないし、ここには助けてくれる人もいない。詮索より一刻も早くこの場所を出ていかないと、「鏡に誘われてやって来ました」なんて事実がまかり通りそうにないし。得体の知れない人を連れるのは腑に落ちないが。
「決まりね。じゃあ早速ここを出ましょう。」
そこまで言いかけた言葉を止めた。
「え?な、なに・・・!?」
突然シュトーレンがアリスの肩を掴みそのまま無抵抗の体を押し倒した。衝撃はベッドが和らげてくれて軽く沈む。驚きに丸くした瞳が映したのは好奇の目を浮かべた無表情。ここでアリスは忘れていた恐怖を思い出す。
まさかと思った。恐怖が蘇る。
―殺される―
「いや!やだ!!殺さないで!!」
首を横に振って拒絶の意を見せるもそのたび肩に加わる力が強くなる。
「誰か!!いやぁぁああ!!」
アリスは半狂乱的にわめき散らかした。きっとこの状況を見たら助けてくれる。だからお願い、まずは誰か気付いて、と。
「だから殺さねえつってんだろ!!暴れるな!!」
「嫌だ!私をどうするの!!?」
さっきだって殺されそうになったアリスが信じられるわけがない。殺す以外にこんなことする目的がわからない。
「じゃあどうするの!?」
アリスは両手で腕を掴み離そうとするもびくともしない。強く睨む。微動だにしない。
「え!?どうする・・・って。どう言えばいいんだ?」
目を丸くしてしばらくこっちを見つめる。
「・・・は!?」
「えっ!!?」
アリスの声に今度は相手が驚く始末だ。そろそろ相手が本当に何を考えているかさっぱりわからなくなってきた。
「俺にもよくわからねえけど、いてもたってもいられなくなったんだもん!」
アリスだっていてもたってもいられなくなった。
「なんなのよ!もう!いやだ!どうしたいのよ!!」
意地でも抵抗する。シュトーレンもやけくそに言い放った。
「子作りしたい!!!」
そう言ったが最後だった。一瞬にして吹っ切れたアリスは勢いよく片足を上げ弧を描き見事急所にとどめを刺した!
「いってええええええ!!!」
手応えはあった。あの男にも喰らわしたように、いや、心に恐怖という箍が外れたぶん更に力強く。速い呼吸を落ち着かせながらゆっくり起き上がり「いい気味だわ」と吐き捨てた。ここまで派手な反応してくれたら気持ちのいいものである。
「何すんだよ!!」
回復が早い、が痛いのは変わらず。目に涙を浮かべて起き上がる。
「お仕置きよ!!」
アリスも起き上がり、たいそう憤懣した様子で言い返す。お仕置きと言うが正当防衛をこじつけただけだ。
「俺まだしてねーだろ!!」
「してるわよ!!」
なんて言い合っていると、足音が聞こえる。
「誰かおるのかー!?」
ドアの奥の向こうから少女の声が聞こえた。周りの注意を怠り言い争った結果気づかれた。二人は固まり、そーっとドアの方を見る。足音が近くなり、アリスの顔から血の気が引く。
「どど、どうしましょう!」
そんなシュトーレンもあわてふためき一つの方向を指差した。
「あそこから抜けるぞ!」
身の丈以上の大きな窓。脱出するには十分すぎた。
「そうね!」
今はお互いを責め立ててる場合ではない。窓を開けようとするが開かない。
「あ、え?・・・嘘でしょ!?」
更に、鍵のノブをいくら下へ上へ動かしてもガチャガチャと中の金属が動作する音が鳴るだけでびくともしない。シュトーレンも隣で様子を見る。
「壊せ!!」
自殺行為だ。
「無茶なこと言わないでよ!」
ただ無我夢中に鍵を動かす。必死すぎて顔を近づけて額が頭に当たっていた。そしてまた何故かシュトーレンもアリスの肩に手を添えている。何故か。
「んん~・・・か、神様~~~!!!」
その時だった。窓ガラスが急に消えた。ぱっと、突然に、なんの前兆もなく!
「へ・・・?」
ふっと体は軽くなり。
「「うわあああぁ!!?」」
二人は重なりあうようにして真下に身を投げ出した。
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