その日、僕は初めてコンドームを買った。

Askew(あすきゅー)

東京、マンション階下のコンビニにて


 その日、僕は初めてコンドームを買った。


 知識としては知っていた。コンビニの一角。文房具、ティッシュなど身近な生活用品を置いてあるコーナーにそれはある。おにぎりや季節限定スイーツなどと肩を並べて、当たり前のように陳列されているその姿を横目で見るたび、得も言われぬ非現実感をいつも燻ぶらせていた。カレーの中に紛れ込むパイナップルのように、六本木の賑やかなクラブの片隅で一人でビールを飲む僕のように、一見すると見逃してしまうが、よく見ると強烈な違和感を放つ存在。それがコンビニのコンドームであった。


 僕は、Kちゃんがトイレに消えた瞬間、運動神経を無駄に総動員して全力でコンドーム売り場へ走った。そして、到底消費しきることは出来ないと思われる量のチューハイとおつまみの山をかき集め、Kちゃんがトイレに行っている間にすべての会計を済ませて、レジ袋の底にそれを隠した。

 終電の無くなった駅チカのコンビニの前で一人立ち尽くす。お酒で火照った身体がコンビニエンスな光に照らされていた。簡素なプラスチック袋は地球に引かれて僕の指に食い込む。ビールを大量に買った時の比ではないその重さは、間違いなく飲み物とおつまみの底に埋もれている超自然的な密度を湛えた0.02㎜が原因である。しばらくして呑気な入店音と共に出てきたKちゃんに続いて、形容しがたい右手の重さに顔をしかめないよう注意して階段を上った。そして、ついに僕は人生で初めて異性の家に単身乗り込むことになる。


 〇


 三週間前、僕は新宿の雑居ビルで飲んでいた。僕の横には同じ大学卒の男友達が二人、そして、目の前には女友達と見知らぬ女性が座っている。いわゆる、合コンである。


 社会人になって一年が経ち、関西の実家を出てテレビでしか聞いたことのない街の中を飲み歩くのは楽しかった。何もかもが新しく、どこに行っても自分の場所なんてない気がした。だからこそ気楽だった。東京で毎日のように飲みに出かける日々。会うのはもっぱら大学が一緒だった男友達だ。

 みんな、大学の時からなぜか女っ気がなかった。顔が悪いわけでも、清潔感がないわけでもない。サークル中で彼らのことを推している後輩も複数いた。でも、彼女は出来ない。そんな奴らだった。僕らはいつも聞きなれない街の中でお互いを馬鹿にし合い、現状を嘆いた。


「合コンしよ」


 良く飲みに行く共通の女友達にそう持ち掛けたのは自然な成り行きだった。そして、僕たちは路地裏で集まるネコのように入り組んだ新宿のビルの中で相まみえた。


 お酒を飲み、とりとめもない会話で時間を消費して、お金を払う。店を変え、また全く同じ行程を繰り返して、またお金を払った。ありきたりな合コンだった。楽しいといえば楽しいし、特徴がないといえば特徴はない。そんな合コンだった。こうして東京に集まってきた人間が、その張り巡らされた毛細血管の片隅で更に凝集しているのだと思うと、また非現実感が湧き上がってきた。ふと、狭いビルから山手線の高架を眺めると、光と金属の摺動しょうどう音と共に多くの人が運ばれていった。


「Kちゃん、○○のこと気になっているんだって」

 幹事の女友達にそう言われたのは二日酔いで午前中を無駄にした土曜日の午後だった。僕はとても驚いた。どこに惹かれる要素があったのか、と聞くと「雰囲気が良かったらしい」とそっけなく返ってきた。「Kちゃんは親友だから、ちゃんと考えてあげてね」と一言添えて友人は念と僕の情けない背中を押した。


 そして、ほどなくして再び新宿東口、新宿アルタ向かいのライオン像前で、僕たち二人は会うことになった。


 雰囲気の良い個室居酒屋でKちゃんとお酒を飲む。刺身盛り合わせ、枝豆、たこわさ、唐揚げ。無難なメニューがテーブルに運ばれてくる。目の前でチューハイを飲むKちゃんはどことなく柔らかい雰囲気をまとっている。

 見た目は少し派手だ。顔立ちやメイクというよりも服装が明るく、着丈が短かった。しかし、よくよく話してみると思ったよりインドアである。人の多いところは苦手だし、大きな声を上げない。そんなどこかチグハグな印象を残す女の子だった。そして、僕のつまらない話を聞く彼女はとても楽しそうだった。


 二十数年彼女がいたことがないとはいえ、人の感情くらい分かる。ましてや今回は確定的な前情報がある。間違いようがない。明らかにKちゃんは僕に気がある。だから、どんなつまらない話でも聞いてくれた。


 正直に言って、僕に好意はなかった。もちろん嫌悪もない。知り合ったばかりの友達という感覚だった。深い話もしない、無難な話題だけでなんとか会話する。それでも、笑ってくれる。楽しそうにしてくれる。

 だから、申し訳なかった。それはいびつな感情だった。相手と同じ感覚になり得ないという確定的な予感と、自分を過大評価されているような気恥しさばかりが募っていった。どうなればいいのか頭では理解していたが、感情がついてこなかった。僕はどうしてもKちゃんを彼女として見れなかった。その時点で決まっていた。僕はあの時点で帰るべきだった。そして、僕は徹底的に間違えた。最悪のルートへ突き進んでいった。


 適当に近くの店で飲みなおしてアルタ前広場に戻ってきた時、僕の口は「またね。楽しかった」という言葉を用意していた。そして、Kちゃんに向き合った時、僕の鼓膜は人生で初めての振動の仕方をした。


「ウチ、来る?」


 理性が性欲に負けた瞬間だった。


 〇

 

 Kちゃんの家は東京の一人暮らしにありがちな小さいワンルームだった。入ってすぐ右側にお風呂と洗面所があり、短い廊下の奥には六畳ほどの部屋が広がる。左側はベッドが居座り、小さいテーブルを挟んで、右側にテレビが置いてあった。部屋の各所に置かれたピンク系のパステルカラーが印象的だった。


 僕はすぐにいくつかのチューハイとおつまみを出し、レジ袋の中にコンドームを残したまま部屋の隅へ追いやった。「あくまで紳士」を貫こうとする性欲の塊は、ハリウッドスパイ映画のような緊迫感に圧倒されながらも、平静を装うために「ほろよい」をあおった。バレてないはずだ。緊張からか、アルコール度数の低さからか、その真相は分からないが、このチューハイはやけに飲みやすい。とはいえ、ほろよいの域は飲み始める前からすでに超えているのが皮肉っぽくて可笑しかった。


 くだらない深夜番組を見ながら、お酒を飲む。今まで彼女なんていない。雰囲気の作り方なんてわからない。テレビでボケをかます芸人に合わせて笑い、お腹いっぱいなのにつまみを食べる。アルコールは更に冷静さを脳から奪い去る。


 訳も分からないままシャワーを浴び、歯を磨いた。そして、テレビを消して、電気を消した。窓から光が入って来ていた。東京の夜は明るかった。僕にはそれが月の光なのか、人工光なのかもはや判別がつかなかった。ただ、おつまみの下に潜む非日常的なパッケージに手を伸ばすことはあるのか。それだけが気がかりだった。


 一つしかないベッド。僕は何も言わず彼女の横へもぐりこむと、彼女は何も言わなかった。僕は人生で初めて異性と同じベッドに入った。そして、手を握った。身体が触れた。キスをした。


 感情は何もない。好意も、後悔も、達成感も、嫉妬も。何もない。ただあるのは性欲だけだった。僕は最低な行為をしていると思った。人の好意と友人関係に泥を塗っていると思った。でも、性欲はそれに勝った。隠し通してきたみじめな男が顔を出していた。紳士ぶっていたくすんだ欲望がその色を更に汚く滲ませていた。


 そして、僕の手が相手の腰から下に流れていこうとした時、僕の耳は震えた。


「ダメ」


 僕は彼女と目が合った。

 僕の瞳孔は開いた。そして、彼女の瞳はまっすぐだった。


 その時、友達の言葉が頭に浮かんだ。

 ――あの子は見た目はあれだけど、彼氏としかしないから 


 そして、すぐに理解した。彼女が何を待っているのかを。先に進むには何が必要なのかを。この目の奥で僕の言葉を待っている切実な感情が僕の目を通してまっすぐ入ってきた。僕の手は止まった。頭はなんとか動いている。言うのか。言えるのか。下腹で不規則にエゴが渦巻く。目は動かせない。


 彼女の体の奥から放たれた光は、二枚のレンズを通して集まり、僕の瞳孔の奥に刺さっていた。そのエネルギーの大きさを知った。その明るさに気付いた。


 時間にして一秒にも満たない瞬間。


 そして、体の力は抜けた。僕の口はついに動かなかった。相手の希望は粉々に砕いた。もう僕は目を見れなかった。それでも、集まったエネルギーは僕の中の情念に火をつけて、醜いエゴは燃えカスに変わって行く。明るい夜に照らされながら、僕は灼けるような後悔に包まれて眠りについた。


 〇


 数日後、仕事終わりの有楽町駅のプラットホームでメッセージが届いた。

「好きでした」

 知ってる。悔しいほどに知っている。現実感のない文字列と、息が詰まるような人の多さと、自分への嫌悪感にくらくらしながら「ありがとう」とメッセージを返した。


 電車に乗り込んで、大勢のサラリーマンと共に東京を運ばれていく。この腐るほどの人込みのなかではもう会うことはないだろう。ほっとしている自分が心底汚いと思った。




 一年後、転勤で東京を離れるとき、身に余る荷物は後輩へ譲った。いらないものを押し付けたともいえる。その中にはそれも含まれていた。

 

 その日、僕は初めてコンドームを買った。

 透明な包装は破られなかった。それだけが救いだった。


 おつまみの下で佇む異様な重みは、もうない。

 

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