第5話 めぐり合い5

「大丈夫なのか?」

「……問題ない。すぐに、片付ける」


 その答えに頷ける者などいないだろう。

 そもそもゼネカが問うたのは、【倒せるかどうか】ではなく【体の異常】についてであった。


 肩で息をする程の荒い呼吸に加え、尋常じゃない汗の掻き方。それにもかかわらず紅潮するどころか真っ青な顔色。

 一般的なハンターの継戦能力ならまだしも、突出した抗体を有するアストラにしては首を傾げてしまう有り様である。

 

 何より、肩口で拭った頬の傷が今も癒える事なく、嘲笑うかのようにじわりと赤い線をよみがえらせていた。

 抗体の――身体能力や負傷に対する治癒力を飛躍的に高める――機能が異常をきたしている、ゼネカの目にそう映るのも至極当然の事であった。


 そのアストラは、腰のケースから手探りで小瓶を取り出すと、コルクの栓を親指で弾き飛ばし、中に入っている赤い液体を一口にあおる。


「増血剤か。それよりお前、傷が」

「問題ないっ……と、言って……いる」


 ゼネカの言葉を遮ったアストラの強い語気には、いよいよ繕いきれなくなってきた焦燥が滲み出ていた。

 そんな態度に不快感を示すでもなく、ゼネカは激しく上下動を繰り返す少年の肩にそっと手を置くと、


「落ち着け、アストラ。大丈夫、お前ならやれるさ」


 それまでの素っ気なかった口調から一転して、なだめるように、そして諭すように語りかけた。

 その声は、焦燥の連鎖に絡めとられようとしていたアストラにも、不思議と素直に届いたようだ。


「へ!? おにぃさ――」


 明らかに衝動的に、あまりにも不用意に、何やら口走りながら振り返ったかと思えば、その先にあったゼネカの顔を呆然と見つめている。


「おいおい、戦闘中に視線を切るなよ。けどまぁ、見てみろ。あの野郎の余裕ぶった態度。もっと自分の力を試したくて仕方がない、そんなご様子だ」


 苦笑を混じえたゼネカの言葉に、アストラは何か言いたげな素振りを見せた。が、結局は渋々それを飲み込んだといった様子でウイズに向き直る。

 そして、手招きするように不敵な笑みを浮かべるウイズにか、あるいは不甲斐ない自分にか、苛立ちを隠すことなく歯噛みする。


「だから落ち着けって。最初にやられた脇腹も、まだ治せていないんだろ? それに頬の、その程度の傷をお前の抗体がすぐに治せないって事は決まりだな」


 いきなりゼネカが、くつくつと笑い声を洩らした。


「悪い悪い。なるほど、やはり神様は人にもウイズにも、分け隔てなく平等って事らしい。あいつが転移で獲得したのは進化どころじゃない、変異だ。そりゃあ、あんな化け物でも高揚するだろうよ」

「変異?……って、そんなまさか――」


 ゼネカの言葉にアストラは絶句する。


「そのまさかさ。変異によって、今の人間が備える抗体レベルでは太刀打ち出来ない毒素を持つに至った個体。突然変異体、最優先討伐対象だ。その発生する瞬間に巡り会うなんて、お前も大概ついていないやつだ」


 ゼネカはそう言うなり、「今日は完全に厄日だな」、と半ば諦観した面持ちで肩を落とした。


「逆だ、ボクは……ついて、る。あいつを……倒せば」


 アストラが途切れ途切れに絞り出す言葉を、今度はゼネカの冷淡な声が遮った。


「無理だな。あいつの毒素に侵されて、まともに【ねん】を使えていない今のお前では、絶対に無理だ。確実に死ぬ。自分でも分かっているんだろ? その手に握っている剣にしても、燃が使えなければ只のなまくらでしかない」

「もういい。キミは、逃げろ……足手まといだ。ボクが、切り込んだら……すぐに行け。それと、……やれるかどうか、ではない。やるんだっ」


 気丈に返したアストラからは、自棄や悲壮感といったものは微塵も感じられなかった。

 あるのは純然たる決意。その証拠に、ウイズを睨み付ける朱い瞳には意志の炎が朗々と灯されている。

 それでもゼネカの指摘した通り、状況はかなり厳しいと言わざるをえなかった。


(やっぱり、面倒な事になった。まったく、本当に面倒だが――嫌いじゃない)


 ゼネカは心の中で愚痴る一方で、何とも言えない感情が久方ぶりに心を満たしていくのを覚えていた。

 本人は否定するだろうが、どこか機嫌良さげなゼネカがアストラの横に並び出た。


「無理だよ、お前一人じゃな。だから、俺が時間を稼ぐ」


 ウイズを睨み付けていたアストラが、怪訝けげんそうに眉をひそめた。


 時間を稼ぐ、それはつまり、あのウイズと一対一でやりあうという事に他ならない。並外れた抗体を備えるアストラでさえ窮地に立たされている、あの突然変異体とだ。

 ましてやそれを、ハンターですらないゼネカがやるとなれば、それはもう自ら死にに行くと言っているようなものである。


 その真意をアストラが測りかねたとしても、なんらおかしな事ではなかった。

 付け加えると、ちらりと横目で窺ったゼネカの表情が、見ようによっては笑っているようにも見えたのが、アストラの中でそれをより難解なものとしていた。


「本気、か? キミが、……時間を稼ぐ?」 

「ああ。だからその間、お前はこっちの事は気にせず、燃で体内の毒素を抑える事だけに集中しろ。戦いながらでは無理でも、お前の抗体ならそれでどうにかなるはずだ。とは言っても、なるべく早く頼むぞ?」


 即答したゼネカは、まるで決定事項だとでもいうふうに淀みなく言葉を続けた。

 対照的に、アストラはしばしの沈黙を挟み、


「たぶん、それなら……。けど、……出来るのか? あれを、相手に」


 と、端正な顔を苦しげに歪めて言葉を絞り出した。

 それが、単に異常をきたしている体調のせいだけではないという事をゼネカも理解している。

 だから、


「【やれるかどうかではない、やるんだ】、だろ?」


 と、ふてぶてしいまでの物言いで返したのだ。


 今のアストラの表情を例えるとしたら――不意打ちで頬を張られたような――そんな顔をしている。実際、気持ち的にはそうなのだろう。おかげで葛藤が霧散したようだ。

 苦しげな息遣いは変わらない。

 それでも、揺らぎの消えた朱い瞳で敵を真っすぐに見据えると、


「――その通りだ。分かった、絶対に……キミの死は無駄にしない」


 と、宣誓さながらに思いを口にしたのだった。

 唖然としたのはゼネカである。


(今、なんて言った?)


 思わず顔を向けると、アストラも視線を寄こして頷き、ふっと笑みを浮かべて見せた。

 察したゼネカは盛大に嘆息する。どうやら今回は、残念ながら聞き間違えてはいなかったらしい。


「とりあえず、称賛するかのようなその笑みをやめろ。お前、ちゃんと聞いていたか? なんで、俺の尊い犠牲が前提になっているんだよ。そんなつもりは毛頭ないからな? そうならない為に、なるべく早くって頼んだんだろ」


 言われたアストラが不服そうな顔をしている。

 どうしてそんな顔をされるのか問い質したいゼネカであったが、


「とにかく、燃が制御出来るようになったら後はお前次第だ。俺が隙を作ってやるから、あの野郎にとびっきりの一撃をお見舞いしてやれ。……あと、これは他人の受け売りなんだが、【人は守りたいものがあれば、どこまでも強くなれる】、だそうだ。頼んだぞ、アストラ」


 外套を脱ぎ捨てながらそう言い残し、突然変異体であるウイズへと向かって歩き出した。

 横柄な物言いにアストラはさぞや憤慨しているかと思いきや、意表を突かれたような顔つきでその背中を見つめていた。

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