ⅩⅢ 「皇帝」の正体(2)

「さっきの〝メデューサ〟のお返しだ。ただし、我はギリシア神話よりも北欧神話の方が好みなのでな……テュールよ、二度ふたたびその名を唱えし者に勝利を与える軍神テュールよ! 汝の文字を刻みし我がこの手に宿り給え!」


 宍戸は軽口を叩いた後、両手に嵌めた「↑」という記号の描かた革製指抜きグローブを顔の前に掲げて見せる……知る者にしかわからぬことながら、そのラテン文字で「T」に相当する奇妙な記号は、ゲルマンの魔法で使われる神秘文字〝ルーン〟の中で北欧神話の軍神テュールを表すものである。


「ルーン文字……?」


 その文字に怪訝な表情を浮かべる久郎の前で、続いて宍戸は羽織っていた黒いローブを脱ぎ去ると、そういう仕掛けでもついてるのか? フードにすっぽり黒犬の面を嵌め、その首にローブの帯を結わい付ける……そして、その大きな黒い犬のようにも見える黒色のローブを抱きかかえ、その飼い主ででもあるかのように、帯をリード代わりにして「↑」の描かれた手にそれを握った。


神々の黄昏ラグナロクにて最高神オーディンを飲み込む〝フェンリルヴォルフ〟の話は知っているだろう? そのフェンリルに唯一、餌をやることのできたテュールを宿した我にとって、こいつがそのフェンリルだ。そして、この帯はフェンリルを縛ったという魔法の紐〝グレイプニール〟。このグレイプニールを用いて我はフェンリルを自在に操ることができる」


 そう嘯く制服姿となった宍戸を見ていると、彼の腕の中のローブが、なにやら本当に大きな猛犬のように見えてきてしまう……黒い布でできた背が小刻みに震え、その仮面の眼は赤く爛々と輝き、半開きに牙を覗かせるその口からは、ハァ、ハァ…とお預けを食らった犬のように荒くおぞましい息遣いまでが聞こえてくるようだ、


 無論、それはローブと仮面でできた幻の魔犬であるが、トランス状態でそれが神話で語られる〝フェンリルヴォルフ〟であると思い込まされた者にとって、襲われれば本物の狼に噛みつかれたのと同様の傷を、暗示に騙された無意識が肉体にも与えてしまうことであろう……その傷が深ければ、その者の命をも奪うくらいに……。


「なるほど。それでテュールを宿したというわけか……で、これからそのワンちゃんとお散歩にでも出かけるつもりか?」


「フン。減らず口を利いていられるのも今の内だ。貴様もこの餓狼の牙にかかり、アース神族よろしく消え去るがよい……行け、フェンリル!」


 その恐ろしい幻覚を見てもなお怯むことなく、挑発するような態度をとる久郎目がけて宍戸はローブの狼を放り投げる。


 すると、そのフェンリルは本当に生きた狼の如くガルルル…と餓えた喉を鳴らし、月影の蒼い夜気に満たされた空中を大地の様に駆け、獲物である久郎を食らわんと勢いよく襲いかかって行った。


「南無、摩利支天まりしてん……」


 対して久郎も瞬時に摩利支天を宿すと、その狼と化したローブを素早い動きで軽々と避ける。


「マリーチか……ならば猪狩りといこう。フンっ!」


 だが、宍戸は〝グレイプニール〟に見立てた帯を巧みに操り、方向転換させたフェンリルを続け様にけしかけてくる。


「チッ…だが、確かグレイプニールで縛られたフェンリルは……テュールの右手首を食い千切ったんじゃなかったか? ……おまえも飼い犬に手を食われないよう……せいぜい気を付けることだな……」


 それでも、その魔犬の追撃を縦横無尽に走り回って退けながら、なおも久郎は余裕の態度で神話に語られるエピソードを踏まえつつ宍戸に軽口を叩く。


「フッ…カテゴリ〝タワー〟の言霊攻撃か……だが、そんな心配は無用だ。我はフェンリルを拘束するのではなく、むしろこうして自由に遊ばせてやっているのでな……おまえという餌を与えてなっ!」


 宍戸もそれに冗談めかした顔で返すと、さらにフェンリルの猛襲を続けた。


 蒼白い月明かりにぼんやりと浮かび上がる、静寂に支配された幻想的な板葺きの舞台の上で、黒い魔術師と黒い狼が、まるで二つの旋風つむじかぜのようになって追い駆けっこをしている……。


 一方、常識外れな展開にまるでついて行けず、独り蚊帳かやの外に取り残された零は、石化させられたわけでもないのに身動き一つできず、じっと二人の争いを傍らより眺めていた。


「ハハハハ! 逃げろ! 逃げろ! そうでないと狩りはおもしろくないからな!」


 今、目の前では自分の憧れる人物が、それまで見せたこともない狂気の笑みを嬉々として浮かべ、逃げ惑う友人に容赦なく猟犬をけしかけている……こんなこと、あの大好きな宍戸がするとは到底思えない……いいや、宍戸に限ってするはずがない。


「先輩、もうやめてください!」


 気がつくと、零は思わず彼に向かって叫んでいた。宍戸の操る恐ろしい魔物への恐怖心なんかよりも、そんな彼の姿を見ていることの方がどうにも居た堪れなかったのだ。


「先輩がこんな怖いことするはずないです! きっと、これは夢か何かなんですよね? でも、たとえ夢の中だったとしても、優しくて、正義感の強い先輩がこんなことしちゃダメですよ。こんな、人に狼けしかけるだなんて……」


「無駄だと言ったろう! それにこれは夢でも幻でもなく、まぎれもない現実だ!」


 とても淋しげな顔をしてさらに宍戸へと語りかける零に、久郎はフェンリルをかわしながらも説教するかのように叫ぶ。


「こいつはもうおまえの知ってる宍戸毅じゃない。おまえが惚れたのはオリジナルの方だったかも知れんが、時とともに人間は変わる。いつまでも同じ人間だと思っているのは主観的な幻想だ。ましてや、こいつはその頃の自分を表のペルソナとして切り離し、今、おまえが見ているような歪んだ実力主義の権化へと自らを純化させた……おまえには残酷な話だが、もうおまえが好きだった頃の宍戸毅はどこにもいないんだ!」


「そんな……ううん。そんなことあるわけないよ! やっぱりこれは夢か幻だよ! だって、こんな大っきな狼さんが学校の体育館になんかいるはずないもん! それに、あたしの知ってる宍戸先輩がこんなことするはずないし……」


 だが、目の前のありえない非現実的光景を根拠に、彼女は久郎の言葉を頑なに信じようとしない。


「ああ、そういえば、おまえはペルソナではないかつての・・・・我を知っていたのだったな? だが、そこの魔術師が言う通りだ。あの頃のムカつくほど甘ちゃんだった宍戸毅は我自身の手で我の中から消し去ってやった。もっとも、おまえが常日頃会っていたように、世を欺く仮のペルソナとしては残してやっているがな」


 しかし、そんな零の儚い現実逃避を宍戸自身の口が完膚なきまでに打ち砕いてくれる。


「そんな……先輩、なんでそんなこと言うんですか? ……あたしの好きだった先輩が……もう……いないだなんて……」


 そういった魔術のことを、零は久郎に教わっている……いくら超常的光景が目の前に展開されていようとも、これが嘘でも夢でもないことは最初からわかっていた……ただ、なんとか言い訳を見つけ出して、無理やりにでもそれを否定したかっただけなのだ……。


「そんなの……嘘に……グス…決まって……ますよ……」


 知らず知らずの内に、彼女の両の瞳からは大粒の涙が溢れ出していた。


「…ん? ちょっと待て。おまえ、こいつが狼に見えてるのか!? チッ…ったく、最悪だ……おい、とっととどっか隠れてろっ! 巻き込まれたらおまえも食い殺されるぞ!」


 一方、なおもフェンリルの追撃に晒されている久郎は、零の涙よりもその発言内容に関心を示し、今さらながらに気づいた重大事に慌てて退避を彼女に促す。


 そう……周囲に充満するイランイランの香りや彼らの暗示を促す言動、さらに衝撃的すぎる事実に大きな隙のできた零の心は、いつしか彼女の意識をトランス状態へと導いてしまっていたのだった。


「……えっ?」


「そうそう。秘密を知ったからにはおまえの口も封じしておかねばな……」


 だが、むしろ久郎のその言葉は呼び水となってしまう……宍戸は零に標的を変えると、今度は彼女目がけてフェンリルを襲いかからせる。


「ひっ…!?」


「チッ……」


 突然迫る魔狼の大きく開かれた口に、蒼褪めた顔を引きつらせてその場に立ち尽くす零……だが、寸でのところで割り込んだ久郎が彼女を抱きかかえて横に跳ぶと、凶暴な牙から辛くもその身を守っていた。


「理解に苦しむな。貴様の主義は〝因果応報〟なのだろう? ならば、なぜそいつを助ける? 貴様が助けずともその者が強ければ死を免れたろうし、弱ければ死すのが自然の流れだ。それこそまさに因果応報……〝弱肉強食〟もまた因果の結果だ。その流れに逆らい、因果を乱すことを貴様も否定していたではないのか?」


「そんな……ひどい……」


 本当に不可解な表情を浮かべながらそう尋ねる宍戸の姿に、久郎の腕の中の零は涙目の顔を歪ませる。


「ハァ…やはりわかっていないな……おまえは〝強さ〟や〝弱さ〟というものを大いに勘違いしている。カテゴリ〝世界ワールド〟を名乗りながら、〝弱肉強食〟も〝因果応報〟も、この世の理をまったくもってわかっちゃあいない。悪いが、それではまだまだカテゴリ〝世界´ワールド・ダッシュ〟といったところだな」


 だが、久郎はその矛盾の追求に怯むことなく、むしろ宍戸を見損なったというように溜息を吐くと、失望したと言わんばかりに首を横に振る。


「……?」


「なに……?」


 その予想外の態度に、零は濡れた瞳で久郎の顔を見上げ、宍戸は眉間に厳しい皺を寄せる。


「いいか? 〝強さ〟や〝弱さ〟は極めて主観的な物の見方だ。すべての事象に普遍的なものなどなく、何にでもメリット・デメリットの両面がある……そんなもの、見る角度によってすぐにころころと変わってしまう、いうなれば騙し絵のようなものだ」


 間近で注がれる零の真っ直ぐな視線を気にすることもなく、久郎は宍戸の方を見たまま言葉を続ける。


「こいつはまあ、非力だし、頭もあまりよくないし、胸は小さく幼児体型だし、お菓子を作ること以外特に取り得もなさそうだし、物事を深く考えずに突っ走ってすぐに危険に巻き込まれるし……世間一般でいうところではどう見ても弱い部類に入る人間だ」


「う……」


 本人がすぐ近くで聞いているというのに、すらすらと言い淀むこともなく欠点を並べ立ててくれる正直な魔術師に、零はものすごく渋い顔で呻き声を上げる。


「だがな、そうした〝弱さ〟というものは時として力を持つ者に〝手助けしてあげたい〟という人間誰しもが持つ本能的な感情を呼び起こさせる……騎士道でいうところの〝騎士は弱者を守らなければならない〟というやつだな。それは強者にはない、弱者のみが持つ利点だ。視点を変えれば、それはむしろ〝強さ〟ということもできる」


「なんか、褒められてるんだか貶されてるんだか……」


「どちらでもない。ただ真実を言っているまでだ……それにな、なんだかんだ言って、こいつにはいろいろと世話になっている。その上、おはぎとかだんごとか、極上スィーツも馳走になったからな。そうした〝恩〟もまたこいつの強み……助けてやる因縁としては充分だ」


「…………!」


 別に優しく声をかけてくれたわけでもないのだが、チラとこちらに冷徹な視線を向け、あくまでも淡々と論理を述べる久郎のその言葉に、零は先程から感じていた、宍戸の考えへの違和感の答えをそこに見つけたような気がした。

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