Ⅺ 「節制」下の闘い

Ⅺ 「節制」下の闘い

 翌日の放課後……。


「――風生さん? うっ……ガス臭い……」


 引き戸を開け、第二理科室に足を踏み入れた当麻亜乃は、瞬間、鼻をかすめるその嫌な匂いに口元を手で覆った。


「もう! 誰かガス栓開けっぱなしで帰ったわね。危ないじゃない……」


 暖かなオレンジの陽光と淋しげな影だけが残る静かな理科室内を、亜乃は臭いのもとを探してぐるっと周囲を見回す……主に化学の授業で使われるこちらの理科室には、島状に配置された各四人で使える大机に実験用のガス栓があり、おそらくはそれの閉め忘れであろう。


「もしかして授業終わってからずっとなの? まったく、先生もちゃんと確認してから帰ってほしいわね。もし風生さんに呼ばれていなかったら大変なところよ?」


 文句を口にしながら亜乃は最寄りの机に近づき、伸びた短いホースからシューと音をさせている栓を捻る。


 科学部員の亜乃であるが、彼女が今日、ここへ来たのは部活のためではない。じつは昨日の晩、零から「アロマペンダントの匂いが薄れてきたから作り直してほしい」とLEY-LINEレイラインでメッセージが届き、とりあえず時間は空いていたし、急遽、ここへ来てもらって調整することにしたのだった。


「……? 一ヶ所だけじゃないの?」


 今、ガスの元栓を閉めた亜乃であるが、まだ耳にはシューシュー言う音がどこからか聞こえてきている……どうやら他にもガスの漏れている所があるようだ。


 しかも、なんだか一つや二つじゃないような……。


「これは窓を先に明けた方がよさそうね……」


 ……それにしても、こんなにもみんな閉め忘れるものだろうか?


 そうした疑問を抱きつつ、亜乃が窓の方へ歩み寄ろうとしたちょうどその時、背後でぴしゃりと引き戸の締まる音が突然、聞こえた。


「…!?」


「ちょうど科学部が部活休みの日でよかった。でないと、こうしてここも貸し切りにできんからな」


 驚き、慌てて振り返った亜乃のメガネレンズに、そう嘯きながら引き戸に手をかけて立つ、有栖久郎の姿が映る。


「おまえは……」


「フン。だいぶ驚いているな? まさか、風生の代りに俺が現れるとはさすがに思いもしなかったか?」


 緑色に反射する透明なレンズの奥で、亜乃の瞳に驚愕の虹彩が浮かぶのを久郎は見逃さない。


「風生にLEY-LINEレイラインを送らせたのは俺だ。どうやら風生とおまえは大の仲良しで、俺の観察日記をしょっちゅう送り合っていてくれたようだからな。いやあ、そんなことぜんぜん知らなかったんだがな、つい先日、夢現ゆめうつつにも、おまえがアロマに詳しいことなんかともども風生が話してくれたよ」


「………………」


 惚けた口調で語る久郎に、亜乃は体を硬くして彼を見据えたまま、何も言おうとはしない。


「初対面でもなし、もう少し愛想よくしてもらってもいいだろう? それとも、素顔で人前に出るのはやっぱり緊張するか? それなら、この前みたいに赤ずきんと犬の面を被ってもらっても構わないぞ? 当麻亜乃」


「……貴様、いったい何が目的だ?」


 ずいぶんとおちょくった態度ながら、すべてお見通しだとでも言いたげなその台詞に、最早、誤魔化すのは不可能と諦めたのか? 亜乃はあの神社で聞いたのと同じ口調で問い質すと、ブレザーの懐へ右手を挿し込む。


「おっと! 下手な手品はやめておけよ? 科学部員やアロマ好きでなくとも、この状況でお得意の火など使った日には、お互いどうなるかはよくわかってるはずだ」


 そんな亜乃の動きを見て、久郎は手を上げて彼女を制すると、周囲に漂う重く嫌な臭いをヒクヒクさせた鼻で指し示す。


「くっ……そのためにわざとガスを……」


 それを聞いた亜乃はすぐにその言葉の意味を理解し、ぴたりとその動きを止めて苛立たしげに歯軋りをした。


 このガスの充満した部屋で火の出るものを使えば、大爆発を起すこと必至である……彼女の得意とする炎の魔術を封じるため、久郎は亜乃よりもわずか先に来て、ガスの栓をすべて開けておいたのだった。


「……フン。それでわたしの力をいだつもりか? だとしたら、甘ちゃんのド素人もいいところだ……だが、そんな素人魔術師でも、すぐに自己暗示がかけられるよう今もトランスはしているな?」


 しかし、亜乃はなぜか鼻で笑うと、どこか朦朧としたレンズ越しの瞳で久郎を見下すように言いながら、再びブレザーへ挿し込んだ手をゴソゴソと動かし始める……数秒の後、戻された彼女の右手には、肩掛けのホルダーから引き抜かれた両刃の短剣――近代西洋魔術では四大元素の〝火〟(※流派によっては〝風〟)を現す魔術武器〝ダガー〟が握られていた。


短剣ダガー……ほう。凝ったデザインだな。手製か? ワンドといい、やはりカテゴリ〝女帝エンプレス”〟の魔術も得意と見える」


「そんな余裕の顔をしていられるのも今の内だ……四大の一つ、火の化身・火蜥蜴サラマンドラよ、我が剣に宿り、その刃を灼熱の炎で焼き上げよ……そして、十四万四千の能天使エクスシアイの指揮官、格闘と破壊を司る火曜の守護天使カマエルよ、我と一つとなり、この身を地獄の男爵、堕天の赤き豹と化せ!」


 久郎が興味深く目を細める中、亜乃はダガーを顔の前に掲げ、何か唱え言をする……すると、彼女の言う通り今も催眠状態でいる久郎の目には、その火蜥蜴サラマンドラの模様を刻んだダガーの刀身が焼けた鉄の如く橙色オレンジに輝き出し、非力な少女然りとした体つきの彼女も、なんだか威圧感漂う格闘家ででもあるかのように見え始める。


「なるほど。カテゴリ〝女教皇ハイプリーテスト〟と〝パワー〟の合わせ技か。いい判断だ。幻の炎ならばガス爆発も起きないからな……が、太陽と月の威光、陽炎かげろうの化身マリーチよ、我にその隠形おんぎょうと疾走の力をもたらせ……南無摩利支天なむまりしてん…」


 しかし、久郎は微塵も動じることなく、むしろ彼女の術に感心するような口振りで自身も呪文を口にする。


「なっ…!?」


 その瞬間、不思議なことが起こった。亜乃の目の前で久郎の姿がぐにゃぐにゃと歪み始め、まるでそれまでは幻影でも見ていたかのように何処いずこかへと消え失せたのである。


「しまっ…うぐっ!」


 刹那、自身も幻覚を見せられていることに気づき、慌てて身構える亜乃だったが、その時にはもう、日の光の速度を持つ〝摩利支天まりしてん〟のイメージで肉体強化した久郎が、瞬時に距離を縮めて彼女の鳩尾みぞおちに拳を沈めていた。


「………………」


「〝パワー〟の魔術はもとの身体能力に比例する。いくら暗示で肉体を強化したところで、所詮、おまえの華奢な腕っ節では俺に勝てん……さてと、おとなしくお寝んねしてる内にやること・・・・をやっておかないとな……」


 気絶し、ぐったりと倒れ込む亜乃をそのまま抱き止めると、ごくごく普通のカワイらしい女子高生のものに戻った彼女の顔を覗き込みながら、久郎は独り、長い影を引く夕暮れの理科室の中でそう呟いた。

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