Ⅰ 「魔術師」に遇った日(2)

 ――とまあ、そんなこんななことがあり、零は夕方近くまで珠子と駅前で遊んで別れた後、完全な遠回りであるにも関わらず、家とは逆方向のこの場所へとやって来たのだった。


 無論、「誰にも知られずに…」という話なので、珠子にも内緒でだ。


 一般論的に珠子はああ言っていたが、零としては逆に魔犬の出るという恐ろしい場所へ独りで行くことよりも、憧れの先輩に対して自分から積極的に何かアクションを起すことの方が遥かに勇気のいる行為である。それに比べれば、たとえ魔犬のいる、淋しく不気味な神社であろうとも、お参りに行くことぐらいなんの苦でもない。


 いや、無類の動物好きである零にとっては、むしろ魔犬とはいえワンコ・・・がいてくれた方が淋しくなくていいやとか思ったりなんかもしている。加えてここへ来る道すがら、彼女はちょっと寄り道をして、魔犬を手なづけるためのある秘策・・・を用意して来ていたりもするのだ。


「神さま! お願いします! どうか! どうか宍戸先輩との距離が縮まりますように! そして、あわよくば先輩とラブラブな関係に!」


 零は合わせた手に力を込め、眉間に深く皺を寄せるとさらに強く社殿に向かって祈る。


 とりあえず今のところ、まだ〝魔犬〟らしきものは姿を現していない……はじめ、左右に立つ狛狼・・の石造がそうなのかとも思ったが、ずっと見つめていても動く気配はないし、どうやらそうでもないらしい。


 やはり、願いをかなえてくれる魔犬を呼び出すには、もっと心を込めてここの神さまにお願いしなければいけないようだ……。


「神さま! 魔犬さま! お犬さま! どうか、どうか宍戸先輩とラブラブになれますように! どうか…!」


 ……と、その時である。


「おい、気づいているか知らんが、他人にも恥ずかしい願いごとが駄々聞こえだぞ?」


 突然、耳元でそんな若い男の声が聞こえたのだった。


「……え? ……ひっ…!?」


 その声に、零が目を開けて右どなりを見ると、そこには全身黒尽くめの人物が一人立っていた。


 黒いハイカラーシャツの上には膝まである黒のロングパーカーを羽織り、パンツも黒、革のエンジニアブーツもやはり黒色の、ほんとに頭の天辺から足の爪先まで真っ黒々である。


 フードを目深にかぶっているので顔はよく見えないが、声や細身の体形からして零と同じくらいの歳だろうか? 身長は150cmに満たないの零よりも頭一つ分くらい上回っており、フードの作る色濃い影の中から怪しく輝く瞳で零のことを見下ろしている。


「……あ、あ、あなた……い、い、いつ……から……」


 いったい、いつからそこにいたのだろう? 突如として現れたその怪人物に、零は慄き、一歩足を退いて仰け反りながら、必死に口を開こうとする。


「まあ、祝詞のりとや祭文を考えれば他人に聞こえるのも当然だし、意図的にそうしてるのなら別にかまわんがな。だが、そうやって意識的に強く願えば願うほど、逆に願いはかなわなくなるぞ?」


 しかし、その黒い怪人は動揺する零をまるで気にする様子もなく、落ち着いた口調でさらに言葉を続ける。


「……え? 願いがかなわないって、どういう…」


「そこにいる魔犬とやら! 隠れてないでとっとと出てきたらどうだ? そんなコソコソしていたら、勝ち犬・・・というよりむしろ負け犬みたいだぞ!?」


 その気になる発言に零は思わず聞き返そうとするが、黒い怪人はやはり彼女の反応など完全に無視すると、社殿の方に向かって大きく声を張り上げた。


「………………」


 だが、それへの返事は返って来ず、辺りは夕暮れ時の静けさに再び包まれる。


「……かちいぬ?」


 ……なんなの? この黒い人? ……もしかして、この人が〝魔犬〟さん? ……でも、見た感じ犬っぽくないし……それに、その勝ち犬だの、負け犬だのっていったい……。


 時が止まったかのようなその静寂の中、このわけのわからぬ状況について、零は必死に考えを巡らそうとする……ところが、そうして考えている内にもギイ…と軋んだ音を立てて社殿の扉が開き、中からまた別の人影が姿を現した。


 ……っ!?


 それを見た瞬間、零はまたもや度肝を抜かれる。しかも、その驚きの度合いは今しがた黒い怪人に気づいた時よりもさらに数倍大きなものだ。


 その人物の格好は、これまた奇怪で珍妙なものだった――黒い怪人とは対照的に真っ赤な長いローブで全身を覆い、頭にかぶったフードの下には、白い狐のような仮面が覗いている……いや、それは狐ではなく、犬の面なのか?


「貴様、なぜ〝勝ち犬倶楽部〟のことを知っている?」


 その赤ずきん・・・・に犬面の人物が、開けた扉から社殿の縁に一歩足を踏み出すと、黒い怪人に向かってそう尋ねた。仮面のためにくぐもって聞こえるが、若い女性の声だ。


「あんたが〝魔犬の首領チーフ・ハウンド〟か? その〝勝ち犬倶楽部〟のことについて、もう少し詳しく聞かせてもらおうか?」


 だが、黒い怪人は答える代りに、逆に赤ずきんに向かって問い返す。


「……貴様、いったい何者だ?」


 わずかな沈黙の後、赤ずきんは犬の面を傾け、黒い怪人を凝視しているような素振りを見せて再び尋ねる。無論、仮面のために表情は見えないが、その様子にはどこか動揺の色が覗える。


「なあに、あんたと同じただの〝魔術師〟だ。ちょっとあんた達のクラブ活動について興味があってな」


「魔術師? ……フン。おもしろい。そんなに興味があるのなら、いいものを見せてやる」


 黒い怪人の煙に巻くようなその返答に、赤ずきんはそう鼻で笑って言葉を返すと、ローブの下から何か二つのものを両手で取り出した。


「ワンドにペンタクル……?」


 それを見て、黒い怪人が怪訝な声で呟く。


 零も目を凝らして見ると、赤ずきんの右手には両端に花の蕾のような飾りの付いた短く白い木の杖のような物が、左手には小皿くらいの大きさのある、金色の円盤に〝五芒星(※五つの角のある星形)〟の描かれたものが握られている。


「さあ、挨拶代わりに受け取るがいい……ただし、別れの挨拶の方だがなっ!」


 続いてそう告げると、赤ずきんは左手に持った円盤を零達の方へフリスビーのようにして放り、ちょうど二人の足下辺りに落ちたそれに向かって、今度は右手の杖の先を伸ばす。


「しまった…!」


 そして、黒い怪人がそう口にするのと時を同じくして、掲げられた杖の先からは突如、眩い輝きとともに炎の球が放たれる。


「きゃっ…!」


 瞬間、ボォォォォーン! …と辺りに木霊する大きな爆発音。


 某英国の少年魔法使いを描いたファンタジーよろしく、杖から火の球が出るなどというアメージングな現象に驚く暇もなく、その火球がぶつかった円盤はド派手に破裂し、辺りは一瞬にして白い煙に包まれた。


「ケホっ! ケホっ…!」


「くっ…この不快な臭い……おい! 息を止めろ! この煙を吸い込むな!」


 周囲に充満する煙のせいで一寸先すらまるで見えない……そんな中、その変な臭いのする煙に咽る零のとなりでは、黒い怪人が袖で顔を覆いながら厳しい口調で彼女にそう忠告をする。


「ええ!? ……はうっ…!」


 その言葉に零も慌てて鼻と口を手で押さえるが、もうすでにいくらか吸いこんでしまった。なんだかものすごく変な臭いがして、だんだんと頭がクラクラしてくる。


「さあ、よく見るがいい。わたしは貴様のお望み通り本物の魔術師……ほら、こうして炎を自在に操ることもできる」


 その内に煙が霧散して視界がクリアになると、社殿の縁部に立つ赤ずきんはまるでマジックショーを披露する手品師にでもなったかの如く、少々おどけた調子でそう二人に語りかけてくる。


「ええっ!?」


 そして、左の手のひらの上で不意に炎を燃え上がらせ、それを出したり消したり、また手のひらを返しながら炎を手の甲の方へ移動させたりと、本当に言葉通り自由自在に扱って見せ、零はその不思議な現象にまたも驚きの声を上げてしまう。


「なるほど……考えたな。そういう作法・・か……」


 一方、黒い怪人の方は特に驚く風でもなく、何かよくわからないことを言って独り納得している。


「では、さらばだ。どこの馬の骨とも知らぬ黒い魔術師よ。この巨大な炎のトカゲに焼かれて死に果てるがいい……火蜥蜴サラマンドラ!」


 そんな怪人に向かって赤ずきんがそう告げた次の瞬間、またしても零は信じられない光景を目の当たりにすることとなる。


 赤ずきんが右手に持つ杖をくるりと回し、もう一方の先端を前にして腕を伸ばすと、その先からはまたもボォォォンっ! …と、大きなトカゲのような形をした火炎が爆発音とともに勢いよく吹き出し、真っ直ぐ黒い怪人の方へ向かって襲いかかって行ったのだった。


「くっ…」


 大きく見開かれた零の目の前で、黒い怪人は咄嗟に体を捻り、ロングパーカーの裾をマントのように翻しながら炎のトカゲを紙一重でやり過ごす。


「黒マント……」


 漆黒の、マントのようなパーカーを纏った謎の人物……その姿に、零は先刻見た映画の都市伝説に云われる怪人を不意に思い出した。


 他方、そんな連想を零が抱いている内にも、的を外したそのトカゲは石畳の地面にぶつかり、ボァァァーン! …と四方に火の粉を飛ばしながら砕け散って消える。


「チッ、外したか……なかなか運動神経はいいようだな……」


 それを見て、赤ずきんは犬面の下で舌打ちすると、魔法の杖を持つ右手をローブの中へと引っ込める。


「ずいぶんと熱烈な歓迎ぶりだな。そっちが火蜥蜴サラマンドラで来るならば……南無なむ、ヴァルナ龍王……憑依ポゼッション


 その間に黒い怪人の方は人差し指と中指を立てた右拳を顔の前に掲げ、何かぶつぶつと唱えごとをすると、赤ずきんに向かってこう言い放つ。


「今、この体にすべての龍の頂点に立つ龍王ヴァルナ――水天すいてんを宿した。水を司る最強の龍神と一になった今の俺に、もう炎による攻撃は一切効かん。また、俺の吐く息は即座に龍と化し、いかなる火炎をも瞬時に消しさる……」


 そして、懐から水らしき透明な液体の入ったガラス小瓶を取り出すと、素早くコルクの栓を抜いて一口、それを含む。


「フン! 負け犬ほどよく吠えるものだ……だったら、今度は避けずに受け止めて見せよ! 火蜥蜴サラマンドラ!」


 だが、嘯く黒い怪人に対して赤ずきんはまたも鼻で笑うと、再び杖を取り出して再度、炎の巨大なトカゲを杖の先から放つ。


 刹那、迫り来る炎に向かって、黒い怪人は口に含んだ水をブゥーっと霧状にして吐いた。すると、その霧は瞬く間に龍のような形となって炎のトカゲを受け止め、空中で相殺して飛散する。


「………………」


 目の前で繰り広げられるその非現実的な出来事に、零は口を半開きにしたまま、呆然とその場に立ち尽くしていた……彼らは自分達のことを〝魔術師〟だと言っていたが、今、二人のやっていることは、どこからどう見ても魔法以外の何ものでもない。


「……くっ…」


 だが、驚いているのは零ばかりではなかった。自らの術をいとも簡単に防がれて、赤ずきんも想定外だった様子である。


「さて、今度は熱烈な歓迎に対するこちらからの返礼だ……南無、金剛力士……憑依ポゼッション


 そんな相手に対して軽口を叩くと、黒い怪人…いや、魔術師か? は反撃に転じる。


 彼は再び中指と人差し指を立てて顔の前で印を結び、先程とはまた少し違う唱えごとをした。そして拳を握りしめて力を込めると、衣服の下の彼の腕や脚の筋肉が、心なしか大きく盛り上ったように零の目には映る。


「チッ……神々の使者、伝令と盗人の神メリクリウスよ、我が脚に宿り、その俊足の力を与えたまえ……」


 他方、赤ずきんも何やら呪文を口にし、ローブの下から新たな五芒星の描かれた円盤を取り出す……が、今度は放り投げず、手のひらからまた炎を燃え上がらせると、その上にそれをかざした。


 よく見れば、その円盤からは導火線が垂れ下がっており、シュゥゥゥ…と乾いた音を立てながら、燃え移った炎が徐々にその紐を短くしていっている。


「……ハッ! させるかっ…」


 一瞬、戸惑った後、何かに気づいた黒い魔術師が赤ずきんに向かって飛びかかろうとしたが時すでに遅し。その足下に落ちた円盤は、瞬時に大きな炸裂音を立てて爆発を起した。


 轟音とともに再び煙が辺りに充満し、視界がまたしてもまるで利かなくなる。しかも、先刻のものよりもはるかに濃く、なおかつ大量の煙だ。


「ゴホっ! ゴホっ! …ま、またあ? ……ケホっ! ケホっ…!」


 またもや煙に巻かれ、信じ難い光景を目にした驚きもどこへやら、零はバタバタと手で煙を仰ぎながら苦しそうに鼻と口を押さえる。


「……ケホっ! ……ゴホっ! ……んもう、なんだっていうのぉ……」


 そうしてようやく煙が晴れてきた頃、まだ白く霞む社殿の方を零が涙目で覗うと、もうそこに赤ずきんの姿はなく、入れ替わるように黒い魔術師が同じ場所で左右を見回しながら立っていた。

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