一 ランプブラックより複雑な/03

 目が覚めるともう朝だった。とにかく蝉の声がうるさい。タオルケットを頭の上まで被ると蝉の声には耐えられるが、今度は暑すぎて、結果、僕は二度寝を諦めた。

 窓から射し込む朝日が眩しい。汗で肌に張りついて気持ち悪いシャツの襟をつまんでぱたぱたしながら、勢い良く窓を開けた。?の声はボリューム調節のつまみをぐいっと回したかのように一段と大音量になり、むわっとした夏の熱気が全身に絡みつくような気がした。

 雲一つない青空。直射日光でもないのに、瞼の裏が痛むほど陽射しが強い。ぼんやりと外を眺めて、ここは志嘉良島なんだなあと実感した。

 居間に行くと、トミさんが座布団に座ってお茶をすすりながらテレビを観ていた。

「おはようございます」

「はいたい。朝ご飯できてるさ」

 トミさんはそそくさと立ち上がった。まるで催促をしたみたいで申し訳ない気持ちになる。

「あ、お構いなく」

「気にしなくていいさ。お客さんだからよー」

 そう言って腰をとんとんと叩きながら、台所に向かっていった。

 僕はとりあえずテーブルの前の座布団に座り、ぼーっとテレビを眺めた。ニュースのスポーツコーナーから朝の占いに変わったところだった。こんな離島でも東京と同じ番組がやっているんだなあ、と失礼なことを考えていると、トミさんがお盆を持ってきてくれた。

 皮が赤い焼き魚に、お米とお吸い物。あと漬物が数切れ、という質素な朝ご飯だ。

「ありがとうございます、いただきます」

 手を合わせて箸を握る。正直に言うと僕は魚より肉の方が好きだ。出てきて嬉しい朝ご飯はウインナーやハムエッグで、焼き魚なんてお腹が空いていたら食べるくらいのものだが、トミさんが作る沖縄の郷土料理はやたらと箸が進む。

 赤い焼き魚は、たまに家で出される赤鯛ではない。魚に箸を刺すと、プチっと皮が弾け、肉汁が滲み出てくる。肉は白身で柔らかく、あっさり塩味。見た目からしてもっと複雑な味がするかと思ったが、上品で淡白な味わいだ。

「これは何の魚なんですか?」

 僕が尋ねると、トミさんはお盆の横に黄金色のお茶が入ったグラスを置いた。中の氷がカランと音を立てる。

「グルクンさ。今朝獲れたばかりの魚だよ」

 初めて聞く魚だ。もっとも、特に魚に詳しいわけでもないけど。そう思いながらお茶を一口すする。さんぴん茶だ。爽やかなジャスミンの香りが鼻から抜けていく。グルクンの塩味とも相性が良くて、毎朝これが良いと思った。

「美味しいです」

 トミさんは、僕の感想を「そうかい」と素っ気なく流した。

 それからは無言で黙々と食べ続けた。テレビの音と咀嚼音、蝉の鳴き声、たまにさんぴん茶の中で氷が割れる高音が響いた。

 無言だったが気まずいとは思わず、むしろ心地良かった。田舎のお年寄りといえば、世話焼きで頼んでもいないのにあれこれ構ってくるというイメージがある。でもトミさんはそういう人じゃないようだ。

 もし僕が地元の人とコミュニケーションを取ることを楽しみにしている観光客だったら物足りないだろうが、僕はこの対応を望んでいる。わずらわしい人付き合いは学校のときだけで充分だ。

 朝食を終え、ぼーっとテレビを眺めていた。トミさんがチャンネルを変えてもいいと言ってくれたので、適当にリモコンのボタンを押した。

 ほとんどが『このチャンネルはご視聴できません』だった。かろうじて映ったチャンネルは四つだけ。しかもうちひとつのニュース番組は、『この番組は七月二日に放送されたものです』というテロップが表示されている。ちょうど今から一ヶ月前の日にちだ。

 台風による高潮被害で、数名の島民が亡くなったという内容だった。

 大して頭に入ってこなくて、リアルタイムじゃないニュース番組に意味はあるのか、と心の中で毒づいた。僕はそっとリモコンを置いた。

 しばらくすると、インターホンが鳴った。トミさんが立ち上がろうとしたので、手のひらを向けて僕が出ます、と制した。きっと僕の画材が届いたのだ。

 扉を開けると、僕より頭一つ分背が高い二十代後半くらいのお兄さんが立っていた。彼は僕の顔を見て眉をひそめた。ダンボール箱を両手で抱えながら僕の横を通過し、玄関に下ろす。

「これ、お前の荷物か? ここで何してるか?」

 お兄さんは帽子を脱いで、袖で額の汗を拭った。髪は赤寄りの茶髪。ムラがあるので、染めているというよりは日に焼けて色が変わったという感じかもしれない。眉はかなり細く、眉尻が鋭角にカーブしている。運送屋の水色の制服を着ているが、シャツのボタンが三つ目まで開いていて着崩している。見た目はヤンキーの兄ちゃんという印象だ。

「あ、はい。えと、昨日から泊まってます」

 その威圧感に怯えながら返事する。すると彼はこれでもかというほど眉を釣り上げた。

「は? 泊まってるだあ? なんで……」

「はいたーい! 大地だいちにいにい、お仕事おつかれさまっ!」

 すると言葉を遮るように、彼の大きな背中の横からひょっこりと顔が出てきた。風乃だ。今日もTシャツに短パンというラフな服装をしている。お兄さんの剣幕に縮み上がっていた僕は、その明るい声に心底ほっとした。

「海斗、昨日ぶり! よく眠れた?」

「ああ、うん。おはよう」

 風乃に返事すると、お兄さんはまた眉間にシワを作って僕を見下ろした。

「風乃、こいつと知り合いか?」

「うん。昨日友達になったさー。海斗だよ。この人は大地にいにい。二人とも仲良くしてねっ」

「よ、よろし……」

「はあ? ふざけてるば?」

 頭を下げようとすると、大地さんはドスをきかせた声で凄んだ。怖い。なぜこんなに怒っているのだろうか。

「大地、私の知り合いさ。威圧しないでくれ」

 そこへトミさんがやってきた。大地さんはトミさんに何かを言おうとして大きく息を吸ったが、やめた。代わりに僕の耳元に顔を近づけて、低い声で囁いた。

「やー、風乃に手え出したら死なすからな」

 真夏の沖縄だというのに、体が芯から冷え切ったような感覚だった。恐怖のあまり、爪先から頭の頂上まで順々に鳥肌が立つ。

 大地さんは玄関に置いたダンボールの他にも平べったい大きな荷物を車庫の中に立てかけて、トミさんに判子をもらい、帰っていった。

 その間、立ったままガチガチに硬直していた僕の背中を、風乃がバンバンと叩く。

「あはは! 海斗、大丈夫?」

 大丈夫じゃない。単純に怖い人に脅されて震え上がったし、そもそも他人から悪意を持った視線で睨まれるのは苦手なのだ。

「あの人、何であそこまで怒ってたの?」

「怒ってないし。気のせいさ」

「いやいや、怒ってないと言い切るには無理があるよね?」

「大丈夫大丈夫! 本当に死なすわけないし! 大地にいにいは優しいから」

 あれで優しい?

 風乃に手を出したらというのは、つまり男女の関係になったらと言うことか?

 なぜわざわざそんなことを釘刺したんだろう。

「もしかして、風乃の彼氏?」

 すると、彼女は腹を抱えて笑った。

「あーはっは! 冗談やめるし! 絶対無いから!」

「じゃあ、実の兄とか」

 息もできないくらい笑いながら首を横に振っている。恋人でも血縁者でも無いらしい。でも島の人は全員家族のようなものと言っていたし、きっと妹に手を出すなと怒る兄的存在、という感じなのだろう。風乃は他人との距離感が近すぎるので、身内目線だと心配してしまう気持ちは何となく分かる。

「もし次会ったらどうしよう」

「はいさい! って笑顔で挨拶すればいいさ!」

「いやいやダメでしょ! もし風乃と一緒にいるところを見られたら……」

「私は私がしたいことをするから。大地にいにいに止められても、海斗と会うのをやめないし!」

「風乃は許されるかもしれないけど、僕はボコボコにされるよね」

 渋る僕を、トミさんがなだめた。

「心配ないさ。大地はああ見えて真面目だからよ、よほどのことがない限りは手を上げたりはしないさ」

 あれが真面目か? 完全にヤンキーだったのに。

「そうは見えませんでしたけど」

 いまだ疑う僕の肩を、風乃が叩く。

「本当さ。大地にいにいは青年会のリーダーだから、海斗も悩み事があったら相談したらいいさー! きっと力になってくれるよ」

「青年会?」

「うん。青年会は行事を仕切ったりするんだよ。他にも、この島はお年寄りが多いから、電球替えたり重いもの持ってあげたりもするさ。みんな大地にいにいを頼ってるよ」

「そうなんだ」

「今はお盆前だからピリピリしてるだけ。沖縄にとってお盆は一番大事な行事だからさ。正月は帰らなくても、お盆だけは帰って来いって言われるくらい」

「ふーん、分かったよ」

 僕は納得したようなしてないような生返事をした。地元の人たちのことに興味はないし、大地さんに頼るなんて天地がひっくり返ってもありえない。

 荷物を部屋まで持って行き、平らな方は車庫に置いたままにした。そうして大地さんに怯えながら、約束通り風乃に志嘉良島を案内してもらう名目で、風乃と二人で出

かけることになった。

 外は炎天下で、ただ立っているだけで汗の雫がだらだらと垂れるほど暑い。

 沖縄は東京よりも気温が低いらしい。その理由は海が近く、海風がなだれ込んでくるのを邪魔する山がないから。つまり陽射しは強いが、風もあるから気温は下がると

いうことだ。

 今日も天気予報によると東京が三十七度に対し、沖縄は三十三度と低い。しかし快適で過ごしやすいかと言われれば、決してそうではない。

「あっつ……」

 僕は南風荘から徒歩一分の距離にあるこぢんまりとした小さな商店、『伊波いは商店』のガラス戸の前で一人立っていた。

 額の汗が目に入る。それを拭いながら、地面に映る自分の丸い影を見下ろしていた。陽射しが強いので影が濃い。境目がくっきり見える。風はあってもぬるいし、何より全てを帳消しにするような灼熱の太陽。これは何の修行だろうか。

「おまたせ! 風乃ねえねえがつめたーいアイスを恵んであげるさ!」

 ガラス戸が開き、風乃が水色のアイスバーのアイスを二つ持って出てきた。このタイミングで食べるアイスはさぞ美味しいだろう。意外と気が利くんだな、と感心する。

「ありがとう。いくら? 財布は置いてきたから後でお金払うよ」

「いらない。タダで貰ったし」

「タダで?」

「島の人はみんな、私がお願いしたら何でもくれるから!」

 風乃がアイスを差し出したので、僕はおそるおそる受け取った。

「これ商品じゃないの?」

「そう! 本当、志嘉良島は優しい人たちばかりさー」

 お願いしたら何でもくれるなんて、甘やかし過ぎじゃないか。

「もしかして親が村長とか?」

「ん? いーや、普通に漁船やってる」

 謎は深まるばかりだ。きっと単純にみんなと仲が良いんだろう。

「さて、絵を描く場所、探さないとね。どんなとこが良いか希望はある?」

 風乃がアイスをくわえながら尋ねる。僕は少し考えて答えた。

「出来るだけ自然がそのまま残ってるところがいいな。人が滅多に入らないような場所とか」

 少しでも絵に個性を乗せるためには、そういう場所がいい。

「それは……」

 何でも即答する風乃にしては珍しく、返事に詰まった。

「無い?」

「……ある。あるけど、ただちょっと、海斗が危険だからためらった」

「危険な場所なの? 沼とか?」

「ううん、島民にとって神聖な場所だから、そこに近付いたら……、大地にいにいに殴られる程度で済めばいい方、って感じ」

 脳裏にあの強面の顔が浮かぶ。

「じゃあそこはやめよう」

「いや! 連れて行きたい。行こ!」

「でも立ち入り禁止の場所なんでしょ?」

「島の人以外はね。でも私がいるからギリ大丈夫!」

「本当に、無理しなくていいよ」

「でも志嘉良島を紹介するからには、絶対にあそこを見て欲しいから。何があっても行くし!」

 そう言って風乃が歩き出したので、仕方なくついていく。

 島民にとっての聖域で、よそ者は立ち入り禁止の場所。

 そういうオカルトじみたものが好きな人はわくわくするだろうが、僕としては最終的にその場所を絵に描けないと意味がない。さすがにそこまで島民が大事にしている風景を無断で描いてグランプリに出すほど非常識ではないので、見てもしょうがないとは思うのだが、風乃は一度やると決めたら何があっても譲らない子だ。

 途中、何人かの島民とすれ違った。その全員がお年寄りだった。風乃は「はいたい!」と元気に挨拶していた。

 ちなみに風乃がよく使っているこの言葉は沖縄方言だ。男性ははいさい、女性ははいたいと言う。おはよう、こんにちは、こんばんはの三つの意味を兼ねる万能の挨拶だという。

 島民たちは風乃を見て微笑んだ後、僕を見て驚き、次に嫌そうに眉をひそめるというのが定番だった。そのリアクションを不愉快に思うよりまず困惑してしまったが、そのうち慣れた。大地さんの威圧感に比べたらまだ耐えられる。

「ごめん、海斗。みんな外の人間に抵抗があるからさ。海斗は肌も白いし、いかにも内地の人って感じで、すぐに観光客って分かっちゃうし」

 風乃が申し訳なさそうに苦笑する。僕はなるべく明るい声で返事した。

「別に気にしてないよ」

「特に今年は観光客が少なくて目立つし」

「確かに。全然いないね」

 八月の沖縄の離島といえば観光客で賑わっているイメージがある。ところがまだ島に来て、それらしき人には一度も出会っていない。行きの高速船も、乗客は僕と秋山さんの二人だけだった。珍しいことがあるものだ。

「ま、でもある意味ラッキーだし! おかげで私を独占できるさ!」

 風乃は後ろ向きに歩きながら、首を傾げて笑った。

「他にも観光客がいたら、僕なんか相手にされないもんね」

「そういうこと!」

 明るく肯定し、くるっと前を向く。

 確かに、昨夜秋山さんも言っていた通り、僕が自主的に現地の人に声をかけて案内してもらうなんて絶対に無理だ。良い絵を描きたい気持ちより、他人と関わりたくない気持ちの方が先に来る。風乃がいなかったら灼熱の太陽の下、やみくもに歩き回ることになっていただろう。

「ところで、これから行く神聖な場所って具体的にどういう所なの?」

 僕は大股で歩いて、風乃の隣に並んだ。彼女は至って真面目な表情で答える。

御嶽うたきっていう、神さまが降りてくる場所さ。沖縄本島や他の離島にも集落ごとにいくつかあって、おんとか、わーって読む地域もあるけど、志嘉良島ではうたきと読む」

「沖縄の神社みたいなもの?」

「近いけど、建物じゃないさ。場所によっては石でできた祠や祭壇があったりする。志嘉良島の御嶽は塔みたいな高い大岩で、その辺りはほとんど手つかずの自然が残ってるから、楽しみにしてて!」

「でも立ち入り禁止で、バレたら殴られるんだよね?」

 風乃は返事せず、にっこりと微笑んだ。無邪気な笑顔の中に何ともいえない迫力がある。

「やめよう」

 僕が立ち止まるのと、風乃に手首を?まれるのはほぼ同時だった。いつでも自分がしたいことを全部すると宣言している風乃。その意志の強さは、死ぬ覚悟でウミヘビを手掴みしたことで証明されている。

 観念し、むりやり引かれるままについて行った。

 十分ほど歩いたところで、踏み固められた土の道が途絶え、目の前は木が生い茂る森になった。

「ここから先は、私とはぐれないように気をつけて。もし一人でいるところを見られたら大変だから」

 風乃は真面目な顔でそう言って、きょろきょろと辺りを見渡した。

 そこは、ガジュマルの森だった。細い木同士がいくつも絡み合うような独特な幹が密集している。それらが塊となって、何人もの巨人が腕を広げているようだ。不自然なほど静かで、なぜかこの森からは?の声がしない。上で葉っぱが重なり合い、陽射しを塞いでいるせいで、気温が低くて空気がしっとりしている。

 腰の辺りまで雑草が隙間なく生え、本当にこんなところに入るのかとためらっていると、風乃が迷いなく踏み入った。僕もおそるおそるついて行く。

 森の中を歩き慣れていないのですぐに差が開くが、風乃は律儀に立ち止まって待ってくれた。必死に追いつくと、よくできましたと言わんばかりに微笑んでくれるので、なんだか母親に褒められているようなこそばゆさを感じた。

「本当に普段は人が来ないんだね。人が通った痕跡が全然無い」

 息切れしながら言うと、風乃はいつもより声量を落として答える。

「私はたまーに来るけど、基本的に誰も来ないさ」

「そうなんだ」

「何十年かに一度、島民全員が御嶽に集まるときがあるらしいんだけど」

「何それ」

「私もよく知らない」

 風乃は振り返らずに返事した。さすがに神聖な場所だけあって、口数が少ない。

 それにしても、僕からしたらずっと同じ景色が続いているのだが、風乃は迷うことなく進めているのが不思議だ。

「どうやって方向を判断してるの?」

 僕が尋ねると、風乃は立ち止まって人差し指を口元に立てた。

「……波の音。聞こえない?」

 両耳に手を当てる。何も聞こえない。首を横に振ると、「まだまだだね」と笑われた。インドアな都会育ちには難し過ぎる。

 そうして二十分ほど歩いたあたりで、緑と茶色ばかりだった前方の景色に青色が差し始める。

 ほどなくして森が終わり、目の前は快晴の空が広がった。乾いた風が吹きつける。植物の匂いから、海の匂いに変わった。遠くの方で白い鳥が列をなして滑空している。

 地面はゴツゴツした岩で、五メートルほど先は崖になっている。波がぶつかる音がするので、崖の下は海だろう。結構高さがありそうだ。

「海斗、スマホ持ってる?」

「うん」

 風乃が尋ねながら手を差し出したので、僕はポケットからスマートフォンを取り出して手渡した。

 何に使うんだろう。疑問に思っていると、風乃はそれを地面に置いた。

「どうしたの?」

 風乃は答えない。無言でにやりと笑い、僕の左腕を?む。

「行こっ!」

「へ? どこに」

 そう言って急に走り出した。

 僕は前のめりにバランスを崩して、もつれそうになる足を必死に回転させる。

「え、いや、風乃!? 危っ……はっ!?」

 そして何を血迷ったのか、そのまま岩場を駆け抜け、崖を飛んだ。

「うわああああ!」

「きゃ――――!」

 僕は驚愕の悲鳴を、風乃は楽しげな絶叫をあげる。

 数秒の落下の時間を経て、体を海面に打ち付ける強めの衝撃があり、聴覚が途切れた。汗だくで火照っていた全身を海水が包み込んだ。

 そのままずんずんと沈んでいく。下に向かうにつれて水温が低くなり、ひんやりしている。

 僕はとっさに、右手を握って、開いてを繰り返した。正常に手が動くか、怪我ががないかを確認した。崖から海に飛び込むなんて危険なことをして、もし右腕を骨折でもしたら絵が描けなくなってしまう。そんなことになったら大変だ。

 右腕に異常がなかったので安心し、次に海に飛び込むからスマホを置いたのか、と納得した。

 着替えが無いけどどうしよう。

 びしょ濡れのまま帰ってきたらトミさんに何て言われるだろうか。

 それにしても、結構深いぞ。

 大丈夫なのか? ちゃんと陸に帰れるのか?

 目をつぶりながら、頭の中をいろんな思考が駆け巡る。際限なく体が沈んでいく。

 もしかしてこのまま?れるんじゃないか。

 徐々に不安で、心細くなってくる。

 そんな中で、左腕を?んでいる風乃の手のひらの温かさだけが頼りだった。

 やがて下降が止まり、ゆるやかに上昇し始める。

 水中でゆっくりと目を開けた。

 ふと横を見ると、風乃が真顔でじっと僕を見ていた。

 目をつぶっている間、ずっと顔を見られていたのか?

 それにしては、不安に震える僕を面白がっているという感じではない。

 初めて見る、真剣な表情だ。

 風乃の髪は逆立っている。体の表面には光の反射でできる網目模様が映っていて、ゆらゆらと揺れている。

 ほんのり緑がかった青色を、マーメイドブルーと呼ぶ。

 志嘉良島の海はまさしくマーメイドブルーで、そこに漂う彼女は疑いようもなく、人魚だった。

 僕らはうつ伏せの姿勢のまま、背中からゆっくりと海面に向かって浮上していく。

 時間の流れが遅い。

 風乃と僕の体の間を、黄色と黒の縞模様の小さな熱帯魚がすり抜けていった。

 なんか、すごく良い風景だな。

 だいぶ思考に余裕が出てきた。海面に近づくにつれて、海の中が明るくなってきたからだ。もし息が続くなら、ずっとこのままでいたいくらいだ。

 そんな中、風乃の右手が僕の肩を掴んだ。

 そのまま海水の抵抗を受けながら、ゆっくりと体を引き寄せられる。人魚の顔が近付いてくる。

 近い。

 と思った瞬間、風乃と僕の唇が重なった。

「…………!?」

 驚いて、予想外過ぎて、理解が追いつかなくて、体内の全ての酸素を吐き出してしまった。唇の隙間から大量の気泡が噴き出た。それらはそのまま上に昇っていく。

 人生ではじめてのキス。

 水中なので感触は曖昧だ。でも、確かにお互いの口と口が重なっている。

 もうかなり海面に近付いていて、まもなく顔を出せる。息が吸える。海水を透過する太陽光がキラキラと輝いていて眩しい。

 もう何も考えられない。混乱しているのに加えて酸欠のせいだ。

 頭は真っ白で、考えが整理できない。

 そんな中、僕はきっとこの風景を一生忘れないだろうな、と思った。

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第27回電撃小説大賞《メディアワークス文庫賞》受賞作/『僕といた夏を、君が忘れないように。』 国仲シンジ/メディアワークス文庫 @mwbunko

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