一 ランプブラックより複雑な/02

 八月一日、秋山さんと二人で向かったのは沖縄県の離島。日本最南端といわれている波照間島の少し手前にある小さな島、志嘉良島だ。羽田空港から那覇空港へ、そして飛行機を乗り継いで石垣島へ。そこからさらに、日に五便往復している高速船で一時間かけて志嘉良島に到着したときにはもう、二十時を回っていた。

「意外と暑くないんですね」

 夜の志嘉良島に降り立った僕の感想だった。しっとりした潮風が心地良い。思っていたより涼しく、東京の夜の方が遥かに暑いし、息苦しく感じる。顔面蒼白の秋山さんが、口元を手で押さえながら返事した。

「……陽が出てないときはそんなもんだろう。気温自体は東京の方が高いらしいぞ……うぷっ」

 秋山さんは高速船に乗ってすぐに船酔いしてしまった。ずっと甲板で風に当たっていたので、水気をまとったアフロヘアーはいつものボリュームの半分以下だ。

「大丈夫ですか? 一泊して行った方がいいんじゃ」

「いや、今日中に石垣島に戻らないと仕事に間に合わないからな。俺のことは心配するな。お前は自分のことだけを考えろ」

 虚ろな顔でそう言うと、おぼつかない足取りのままたった今降りた船に乗り込んだ。秋山さんはわざわざ僕の引率のためにここまで来てくれた。絵を描くだけなら沖縄本島でも良いと思うのだが、「どうせ沖縄に行くならもっと自然が残る僻地に行った方が良い」とのことで、この島になった。

 志嘉良島は、沖縄の数ある有人島の中で最も人口が少ない。全島民が三百五十人ほど、そのうち五十パーセント以上が六十五歳以上のお年寄りで、いわゆる限界集落といわれる島だ。コンビニはもちろん、信号機も自販機も無い。

「海斗、民宿の場所は分かるな?」

「はい。アプリに入ってます」

「明日画材が届くからな。何かあったら電話しろ。一日一枚のデッサンも忘れずにな」

 秋山さんがそう言った直後、ぽーっと汽笛が鳴る。秋山さんはひっと短い悲鳴をこぼし、手すりに両手で?まった。高速船が出港するようだ。

 画材は全て配送に出しているので、僕の荷物は着替えが入ったリュック一個で済んでいる。

 白い煙を吐き出しながら暗い海に消えていく船を見送った。船が去った後は静かで、波の音しか聞こえない。誰もいない船着場は世界から切り離されたようで、こんなに静かな夜は生まれて初めてかもしれなかった。

 忙しい中、船酔いするのにここまで付いてきてくれた秋山さんに感謝しつつ、僕はこの島で明日からどう過ごすかを考えた。

 八月一日である今日から二十日まで、二十日間をこの島で過ごすことになる。目的はグランプリ用の油絵を描くことだ。

 明日画材を受け取ったら、さっそく風景画を描くためのロケーションを探さなければならない。より沖縄らしい場所がいいだろう。綺麗な入江とか、珍しい植物が群生する密林、もしくは幻想的な洞窟などが望ましい。なぜなら僕は、実際に見たものをその通りにしか描けないから。

 イメージ上で創作し、そのままキャンバスに描き出せる天才たちと戦うために、モチーフ自体のもの珍しさを個性にして対抗する。そのためのこの旅なので、場所選びは最も重要だ。

 窓口を通って外に出ると、港の入り口には古びた銅像が立っていた。上半身は女性、足は魚の尾ひれになっていて台座に腰かけている。

 ――人魚だ。

 僕の身長と同じくらいの大きさで、ところどころ表面の塗装が?げている。アニメのキャラクターのようなかわいらしさは無く、実際の人間のような頭身でリアリティのあるデザインをしている。台座には古めかしい字体で『おーりとーり』と彫られていた。飛行機の網棚に備えつけられていたパンフレットに、沖縄方言の紹介コーナーがあった。パラパラと眺めていたのでなんとなく記憶しているが、方言でいらっしゃい、ようこそという意味だ。この不気味な銅像と字体では、とても歓迎されているようには思えないが。

 港を抜けると、舗装されたコンクリートの地面は途切れ、踏み固められた土の道となった。軽自動車が一台通れる程度の幅で、その左右を大小様々な大きさの石を積み上げたような石垣の塀が囲んでいる。

 塀の上からは先の尖ったアダンの葉が飛び出ているし、足もとには真っ赤なハイビスカスが咲いている。いかにも南の島という感じで新鮮だ。

 いくつか見える赤瓦の屋根の建物はどれも平屋で、二階建ての建物は見当たらず、ポツンポツンと電柱が等間隔に並んでいる。空が広いとはこういうことを言うのかと思いながら上を見た直後、思わず声が漏れた。

「うわあ」

 圧倒される星空だった。

 無数の光の粒が視界を埋め尽くしている。東京なら一番星でも見えたら充分なのに、この志嘉良島では数え切れないほどの星が煌めいている。

 夜空の色は黒だと思っていた。しかし空気が澄んでいるからか、星の光が強いからか、この空は青みがかったインディゴブルーに見える。同じ夜空でも、見え方が違う。

 しばらく立ち止まってぼーっと眺めていると、白い点の集まりの中、右から左へ一本の直線がすっと描かれ、すぐに消えてしまった。それが流れ星だったのだと気付いたのは、また別の直線が描かれてからだ。

 生まれて初めて見る流れ星。当たり前のように見えるそれらを五回見送ったのち、僕は正気に戻り、再び土道を歩き出した。

 まるで映画のセットのような民家は、ほとんどは明かりが消えている。まだ二十時すぎとはいえ高齢者が多いようなので、すでに寝ているのかもしれない。と思えば、不用心に扉を全開にしている家もある。三線の音色も聴こえてくる。

 周囲をきょろきょろと見渡して、地図アプリを確認するため、スマホ画面に目を落とす。星空を堪能した後の液晶の人工的な光はとても冷たく感じられて、思わず画面を消した。どうせ一本道なので迷うことはないと思った。

 五分ほど歩いたところで、民家の隙間から海岸が現れた。現地の人からしたら台風や雨で増水したときなどは大変かもしれないが、住宅地の中でも当たり前のように海が見えるなんて羨ましい。流れ星もハイビスカスも、民家の中に突然現れる砂浜も、何もかもが新鮮だ。

 アプリのルートから少しだけ逸れて、夜の砂浜へと寄り道した。もしかしたら早くも良い風景が見つかるかもしれない。

 スニーカーで砂浜を踏む。砂が擦れる音がした。辺りを見渡しながら海岸沿いを歩く。整備されたビーチじゃない、あくまで自然の砂浜。打ち上げられた流木が散乱している。

 どこからか歌声が聴こえてきた。鼻歌のようだ。

 そう思った矢先、下半分を長年波で削られ続けたような逆三角形の大岩があり、その上に腰かけた一人の少女が夜空を見上げて鼻歌を奏でているのを見つけた。

 肩につかないくらいの短髪。しっとりと肌にはりつく濡れた白のTシャツと短パン。薄暗くてぼんやりとしか見えなかったが、非日常の幻想的な空間に佇む彼女はまるで、この世のものじゃない、空想上の生き物に見えた。そう、例えるなら。

「……人魚だ」

 心で感じたことが無意識に口から漏れた。港の不気味な銅像なんかより、彼女の方がよほど人魚らしいと思った。

「……だれ?」

 岩の上の人魚は僕の声に反応し、鼻歌を止めた。こちらに首を向けて質問を続ける。

「観光客? 何しに? 何で?」

 彼女は僕の足から頭までをさらっと見渡して、周囲には誰もいないことを確認した。

「え、えーと、はい。観光で来ました。船で」

 たどたどしくも質問に答える。彼女は僕の身長ほどある大岩から身軽な動きで飛び降りた。とん、と体重を感じさせない音で着地し、砂浜を裸足でざくざくと力強く駆け、僕の目の前で止まった。

 僕は人付き合いが好きじゃない。だから現地の人と積極的に関わるつもりなんてなかった。さっさと場所を見つけて、グランプリ用の絵を描きあげるつもりだったのに。

 砂浜に寄り道なんてしなければ良かった、と後悔した。

「ねえ! どこから来たのっ?」

 彼女は神秘的な雰囲気だった先程とは違って、明るい口調で尋ねてくる。人懐っこく首を傾げて、僕の顔を覗き込む。

「そ、その。東京の……」

「えーっ、東京!? 都会人さー!」

 大きく口をあけ、上半身を後ろに反ってリアクションした。でもわざとらしいとは思わず、無意識という感じだった。

 身長は百六十センチに満たないほどで、細身。濡れた肌は星明かりを反射し、微かに発光している。

「君も高校生っ? 私は高三! たぶん同じくらいさ!」

 そう問いかけながら、琥珀色の目を細める。知らない人との会話なのに、いつもより緊張しない。まるで昔から知っているような安心感が、彼女の淡い笑顔にはあった。

「はい、僕も高三です」

「一人旅? 家族旅行?」

「一人……いや、途中まで先生と」

「先生!? 学校の? なんで?」

 彼女がぐっと身を寄せる。額に張りつく濡れた前髪が揺れる。大きな瞳は好奇心の塊といった感じで瞳孔が開いている。

 僕は志嘉良島に来た経緯を、脳内でどう説明しようかと組み立ててみる。絵を描きにきた、なんて初対面で言いたくない。例えもう二度と会わない子だとしても嫌だ。

 いかにして誤魔化そうかと言葉を探していると、視界の下の方でうごめく何かが目に入った。

「う、うわっ!」

 砂浜に裸足で立つ彼女のすぐ足下に、青と黒の縞模様のヘビがいた。砂との摩擦を一切感じさせない、ゆったりとした動きで蛇行している。

 ヘビなんて動物園でしか見たことがない。僕は全身に鳥肌が立ち、腰を抜かしそうになる。

「え、何?」

 彼女はヘビに気付いていないようで、僕の大声に驚いている。

 僕はとっさに彼女の手首を?み、思いっきり引き寄せた。

「危ない!」

「わわっ!」

 彼女は片足でバランスを取りながら、よたよたと僕の後ろに回る。

 ヘビは頭から尻尾まで、長さは五十センチほど、太さ三センチはあるだろうか。青と黒の縞模様で、ぎらぎらと光沢のある鱗。見るからに危険な色合いだ。とにかく驚いて心臓が止まりそうだった。

「あーっ! アオマダラウミヘビ!」

 そうして腰が引けている僕の後ろで、彼女が背中から乗り出すようにヘビを覗き込んで叫ぶ。僕の手から離れ、ヘビに駆け寄っていく。

「珍しーっ! この辺りはエラブウミヘビばっかりなのに!」

 ウミヘビ? 脳内で復唱する。熱帯から亜熱帯地方にいる海を泳ぐ蛇。それがテレビの中ではなく、目の前にいる。

 彼女は膝に手をついてまじまじと見つめている。その間、ヘビは動きを止めている。上から見下ろす人間を警戒しているような態度で、舌を俊敏に出し入れしている。

 野生のヘビというだけで僕からしたら未知のモンスターだ。でも彼女はまるで野良猫でも見つけたかのような無邪気な表情で見つめている。その顔だけでも理解できなかったのだが、そのうえ、さらに驚きの行動に出た。

「ほっ」

 短パンからすらりと伸びた素足で、突然ヘビを踏みつけた。

「え、えええっ!?」

 僕は驚きのあまり声をあげたが、彼女は平然としている。踏まれたヘビは頭と尻尾を高速で振り回し、もがいている。そんなヘビの尻尾の方を手でわしづかみにし、ずるずると引っぱった。

 そうして素足から頭が親指ひとつ分くらい出ている状態にすると、その頭を親指で押し潰しながら摘まみ上げたのだった。

「あははっ! 捕まえたー!」

 彼女は目を細めて笑いながら、ヘビの頭をこちらに向けた。

 ヘビは青い頭と白い顎を上下から押し潰されて口が開かない状態にされ、恨めしそうに僕を睨んでいる。青と黒の胴体で彼女の腕に巻きついて、気持ちばかりの抵抗をしているようだ。

「やっぱりアオマダラはいいさー! この色すごく綺麗でかわいくない? やーも触ってみる?」

 綺麗? ヘビ、牙、毒などの全ての要素を抜いて色だけに限定したら、確かに綺麗と言えなくもない。

「……い、いい! いいです!」

 しかしヘビはヘビだ。僕は喉から声を絞り出し、かろうじて首を横に振った。

「しかばーだなー。気持ちいいのに!」

 うっとりとヘビの表面を眺める彼女。子猫の肉球を押すかのごとく、ヘビのお腹をむにむにと突いている。しかばーとは沖縄方言だろうか? 態度から察するにビビりとか小心者とかいう意味だろうか。

「そ、それ毒とかないの? いかにもありそうな色だけど」

 僕の質問に彼女は大口を開けて、あははと笑いながら答えた。

「毒があるのは牙だけだし」

「やっぱり」

「噛まれなければ大丈夫さー」

「でも、危ないんじゃ……」

 そういえば昔観たテレビ番組で、沖縄ではハブを捕まえたら役場でお金に換えてもらえると言っていた。ヘビを捕まえるということ自体はよくあることなのだろうか。

「それ、よく捕まえるんですか?」

「ウミヘビは珍しいかも。ハブなら慣れてるけど!」

「ハブも毒がありますよね。怖くないんですか?」

「怖くないさー。でもウミヘビはハブの三十倍の毒があるからさ、気をつけてはいる」

「三十倍!? そんなの、?まれたら死んじゃうんじゃ」

 彼女は取り乱す僕をあざ笑った。

「三十分以内に病院で血清を打たないと死んじゃうよ。でも血清は志嘉良島の診療所には無いからさ、石垣島から救急ヘリを呼ぶんだけど、その間に三十分経っちゃうからどっちみち死んじゃう。あはは!」

 右手のウミヘビは脱出を諦めておらず、尻尾でペチペチと二の腕を叩いている。彼女の話が本当なら、今、少しでも指を滑らせて?まれたら死んでしまうということだ。

「よ、よく笑えますね……。そんな危険を冒してまで触る価値があるんですか?」

 彼女は即答でうんと小さく頷いて、波打ち際の近くまで歩き、しゃがみ込む。

 そして、ヘビをそっと砂浜に放した。ヘビはもうこりごりだという感じで蛇行しながら海へ逃げるように帰って行った。

 それをじっと見送り、彼女は膝を抱えながら呟いた。

「私は今、この瞬間にしたいと思ったことを全部する。後悔しないために。ウミヘビに噛まれても噛まれなくても、どうせいつかは死ぬんだからさ」

 穏やかな波の音と同じくらいの、ささやかな声量だった。屈んで背中を丸めた姿は、先程までの快活で無邪気な印象から、岩の上に腰かけていたときのような神秘的な雰囲気に変わっていた。

 人がいつかは死ぬなんて、分かり切ったことだ。

 こんな悟った台詞を学校の同級生が真面目に言っていたら笑ってしまうが、彼女の口から零れると何ともいえない説得力がある。おそらく、実際に好奇心のためだけに恐れずヘビを捕まえたところを目の当たりにしたからだ。彼女は本気でそう思っているのが伝わる。

 自分から聞いておきながら返事に詰まっていると、彼女はこちらを向いて照れ臭そうに眉を寄せて笑い、立ち上がった。

「……なんてねっ! いやー、東京の高校生から見たらいかにも田舎の娘って感じではしたなかった? おほほ、ごめんあそばせ」

 口を右手で押さえて、演技がかったように小首を傾げる。

「いや、そんな……」

 いろいろ衝撃的すぎて、適当な返事が思いつかない。そんな僕に彼女はふっと距離を詰め、僕の右手を両手で包むように?んだ。

「ねえねえ、いつまでいる? 友達になろう!」

「えっ?」

 心臓が跳ねる。顔の造形自体もかわいいし、愛嬌のある表情や人懐っこい距離の詰め方は、どこに行っても人気者になれるだろう。潮の匂いに混じって爽やかな柑橘系の香りがして、つい照れてしまう。自分の顔にみるみる血が集まっていくのが分かった。きっと昼間だったら赤面しているのに気付かれていた。夜で良かった。

「私、伊是名いぜな風乃! 君は?」

「僕は……、海斗。高木海斗です」

「海斗! うん、よろしく!」

 いぜなってどんな漢字なのとか、いきなり呼び捨て? など、とにかく取らないといけないリアクションがたくさんあるはずなのに、風乃の元気さと言うか純粋さと言うか、ある種の生きているエネルギーみたいなものにあてられて、僕は終始うろたえるだけになってしまった。

 泊まる予定の民宿に案内してあげる、と風乃が提案した。僕は断ったが、そこのおばあちゃんとは仲良しだから任せて、と強引に先導された。風乃が、石垣の塀の両側にシーサーを構えた赤瓦の古民家に駆け込んで行く。

「トミおばあー! はいたい!」

 追いかけると、静かな島には不似合いなほど元気な挨拶をしたところだった。

「風乃かやー。どうしたんだい」

 玄関に出てきたのは、腰の曲がった白髪のおばあちゃんだ。

「海斗がさ、南風ぱいかじ荘に泊まるって言ってたから案内したさー!」

「海斗? ……ああ予約してた高木海斗かい?」

「そうそうそう! 海斗、トミおばあはとーっても料理上手だからさー! よろしくね!」

 僕の代わりに返事し、ついでにトミさんの紹介まで済ませてしまう。風乃は僕が今まで出会った人たちの二倍のスピードで生きている感じだ。

「よろしくお願いします」

 僕が頭を下げると、トミさんは無表情のまま頷いた。

「礼儀正しいね、さすがは内地の子さ。それに比べて風乃はまたびしょ濡れだし、裸足で歩き回ってから……、嫁入り前の娘とは思えんね」

「こ、これは海に入ってたからだしっ。私だって行儀良くできるし!」

「どこがよ。いつまでもやまんぐーだね」

「違うしー!」

 風乃が頬を膨らませた。トミさんはふっと柔らかく微笑み、風乃の頭を撫でる。

「風乃は自分がしたいことをすればいいよ。ほら早く風呂に入ってきなさい」

「……ん、分かった」

 ぷんぷんと拗ねた仕草をしていたのに、急に借りてきた猫のように大人しくなり、こくんと頷いた。血縁者では無いはずだが、まるで血の?がった祖母と孫のようだ。

 風乃が振り返り、玄関を出て行く。自分の家に帰るのだろうか?

「まだ帰らないよ。ウチの風呂は外にあるのさ。たぶんご飯を食べてくだろうから、風乃の分も用意しないとね」

「あ、そうなんですか」

 まるで心を読まれたかのようだ。それとも、誰が見ても分かるほど僕は彼女を名残惜しげに見ていたのかもしれない。もしそうなら恥ずかしい。

「部屋に案内するさ。荷物はそれだけかい?」

「あ、他の荷物は配送に出していて、明日の午前中に届く予定です」

 トミさんが小さく頷いて歩き始めたので、僕は靴を脱いであがった。障子で仕切られた畳敷きの部屋がいくつもあって、うち一部屋には立派な仏壇があった。民宿というものを初めて利用するが、ホテルや旅館なんかとは全然違う。広めの家だ。

「一人なのかい? 石垣島から船に乗ったのは、大人の男と高校生の二人だったと聞いたんだけどね」

 トミさんが廊下を歩きながら尋ねた。秋山さんのことだ。

「あ、はい。もう一人は明日仕事があるそうなので、すぐに石垣島に戻りました」

 なぜ船に乗った人数を知っているのだろうかと疑問に思ったが、これくらいの小さい島なら、きっと外から人が来るのはよほど珍しいことなのかもしれない。

「そうかい……、海斗は二十日までいるんだってね」

「はい、夏休みなので」

「夏休みかい、いいねえ。でも友達と遊ばなくていいのかい?」

「みんな予備校で忙しいですから」

「内地の子は大変だね」

「風乃さんも高三ですよね。受験があるんじゃないですか?」

 大して深く考えず、ごく自然に問いかける。トミさんは前を向いたまま黙っている。曲がった腰に手首を当てていて、一歩ずつ歩くたびに小さな背中が左右に揺れる。

 トミさんが一番奥の部屋の襖を開けると中から冷気が漏れ出た。

「ここが海斗の部屋さ。この部屋はもちろん、どの部屋も自由に使ってくれて構わないよ。他に客はいないからね」

 話を逸らされたような気がしたが、プライベートな話だし、人づてに聞くことでもないかと思い直した。

 四畳半の和室の中央にはすでに布団が敷かれている。隅に低い机と座椅子があり、その横には年季の入った緑色の扇風機がある。同じくらい古そうな、年代物の角ばったエアコンはすでに電源が入っていて、汗ばんだ体を心地よく冷やしてくれた。部屋を冷やして待っていてくれたようだ。

 僕はリュックを座椅子の横に置いて、改めて頭を下げた。

「二十日間、よろしくお願いします」

「あまり気遣わずに、自分のオバアだと思って何でも言っておくれよ」

 表情は硬いが優しそうな人で良かった。知らない土地で二十日間も宿泊するのは初めてで内心緊張していたから。

 しばらくして、晩ご飯の準備ができたとのことで、居間に向かった。テーブルには料理が盛られた皿がいくつも並んでいて、風呂上がりの風乃が座っていた。タオルを首にかけ、髪はほんのり濡れている。女の子のお風呂にしては早い。でも彼女がじっとしている姿は想像できないので、妥当な気もした。

「今夜はご馳走だよ。海斗のおかげさ! 来てくれてありがとう!」

 風乃がにっと笑いながら見上げる。箸を両手で一本ずつ握りしめている姿は、まるでご飯が待ち切れない幼い子供のようだ。

 テーブルをはみ出しそうなほど用意されている食事は、彼女が言う通り豪勢だった。

 大皿には溶けかけのチーズにおおわれたタコライスや、湯気から鰹出汁しの匂いが漂うソーキそばに加え、ゴーヤチャンプルーや、味噌だれを添えた海ぶどうなどの郷土料理がある。さらに何の肉が入っているのかよく分からないお吸物やぷるぷるの骨付き肉もある。

「す、すごいですね」

 圧倒されながら、風乃の斜め向かいの座布団に座る。トミさんが目の前に茶碗を置いた。炊き込みご飯が盛られている。

「作り過ぎたかい? でも食べ盛りだし、大丈夫だろう。がちまやーの風乃もいるからすぐ無くなっちまうだろうね。おかわりの準備をしとくさ」

「は!? がちまやーじゃないし! おしとやかだし」

 匂いを嗅いでにこにこしていた風乃が、慌てて首を横に振る。がちまやーの意味が分からない僕に、トミさんが「食いしんぼうってことさ」と教えてくれた。

「もーっ! いただきます!」

 風乃は少し拗ねたように食べ始める。しかし一口?張ると眉間にあったシワはすぐに消え、笑顔でせかせかと箸を動かすのだった。両?を食べ物で膨らませる顔は小動物みたいで微笑ましい。

「ちゃんと噛むんだよ、喉に詰まらさんようにね」

「はむ、はむ、うん……、おいしー!」

 がちまやーという評価を嫌がっていたはずが、もうその出来事を忘れたかのように夢中で?張っている。したいことをすると宣言していた通り、彼女は今、食事をすることだけに熱中している。

 かくいう僕も、一口食べて「…… 美味しい」と無意識に感想をこぼしてしまった。

「トミおばあのラフテーは世界一だよ。何と言っても一晩寝かせてるからさ!」

 風乃はまるで自分の手柄かのように誇らしげだ。

 一見、豚の角煮のようなラフテーという料理は、皮、脂身、赤身の三層からなり、これでもかというほど煮汁が染み込んでいて、あめ色にテカテカと輝いている。箸で切れてしまうほど柔らかく、口の中に入れると熱々の肉汁と甘辛さだけを残し、ほろほろと崩れていく。すぐに無くなってしまったので、悲しかった。

 とはいえ、目の前で笑顔で?張る風乃を見ていると、他のどの料理も美味しく感じられた。あっと言う間にテーブルは皿だけになり、おかわりまでしてしまった。

「ふーっ、くったくった! トミおばあ、ごちそうさまーっ!」

 食べ終わり、風乃が畳の上であお向けになりながらぽんぽんと腹を叩く。

「風乃、眠くなる前に帰りなさい」

「そうするー! ねえ、海斗は明日からどうする予定なわけ?」

 風乃が上体を起こし、勢い良くテーブルに手をつき前のめりになる。

 僕は、「とりあえず午前中は荷物を受け取ってから、絵を描く場所を探します」と言いかけて、やめた。他人との壁を作らずにずかずかと踏み込んでくる風乃に、油断するとつい口を滑らせてしまいそうになる。

 ――絵を描いていることを知られたくない。

 もう中学のときのようなことにはならない。あれはお互い子供だったことが原因の、不幸な事故だ。頭では分かっている。でもそう思ってはいても、やっぱり同世代の人に知られるのには抵抗がある。

 しかし、無情にもトミさんが言った。

「絵を描くんだろう。そう聞いてるよ。必要なものがあるなら言っておくれ」

 僕が内心舌打ちしたのと、風乃が「えーっ!?」と叫んだのは同時だった。

「絵を描くための旅行!? でーじ本格的さ! 画家目指してるの? ていうかもしかしてすでにプロ!?」

 大きな瞳をきらきらと輝かせる。

 秋山さんがトミさんに伝えたのだろう。確かに油絵は手や服が汚れるから、宿側には伝えておくべきだ。しかし、風乃には知られたくなかった。

「そういうわけじゃないんですが、コンクールに出さないといけなくて、絵の先生に連れて来られたんです」

 テーブル越しに風乃の圧を感じながら、僕は否定する。

「それでもすごいさー! 何を描くの!?」

「僕は風景画しか描けないので」

「へえー! 志嘉良島の風景に目をつけたセンスは褒めてあげよう!」

 風乃の目尻が下がる。心底嬉しそうだ。

「場所って決まってる?」

「いえ、まだ……」

「じゃあ私が志嘉良島を案内してあげるさー! 良い場所いっぱい知ってるからさ!」

「案内?」

「それに、私この島大好きだから、海斗にも好きになって欲しいし!」

「いや、僕は」

 とっさに断ろうとしたが、右手をがっちりと掴まれた。

「遠慮しないでいいし! 一緒にがんばろー!」

 油絵の具を洗い落とすために洗剤を使うせいで、すっかりカサついてしまった僕の手とは違い、風乃の手はしっとりしていて柔らかい。それに気安くボディタッチし過ぎだ。緊張で胃が締まる。

 手を握られたまま、僕はトミさんに助けを求めるように視線を送った。しかしトミさんは困ったような呆れたような、複雑な表情をして、ため息をついた。

「……海斗、風乃に付き合ってやってくれんかい?」

 そうして断ることができない空気に追い込まれてしまう。

 確かに地元の人に案内してもらえるのは都合が良い。観光客の立場では知れないような場所にも案内してもらえるかもしれない。でも、あまり風乃と一緒にいるのは危険だと思った。僕は他人とは壁を作っておきたい。でも彼女は関係なく踏み込んで来てしまう。

「いや、悪いですよ。風乃さんも忙しいでしょうし」

「いーや大丈夫! 暇さ! 私、何もやることがないからさ。むしろ海斗の役に立てるならうれしい! いつまでに描かないといけないの?」

「一応、二十日までいる予定なので、それまでに」

 高三の夏休みが暇だなんてありえるのだろうか。

「ちょうど良いさ。二十日からお盆が始まるし、それまでに絶対良い絵を描こう!」

「いやいや、本当に大丈夫です。お構いなく」

「いいってば! きっとそれが私の役割なの」

 風乃が真正面から見つめてくる。相変わらず手は握ったままだ。正直、断れる気がしない。今まで会った誰よりも押しが強い。なぜこんなに頑ななのだろうか。関係ない他人なんかのために。僕には理解できない。

「……ね、お願い。そんなに私じゃ嫌?」

 風乃は眉尻を下げ、口を横に結んだ。先程までのはつらつとした態度から一転、震えるような寂しげな声だ。こんなギャップはずるい。

 僕はため息をついて、頷いた。

「分かりました。じゃあ、描くところは見られたくないので、場所を教えてもらうだけです。都合が良いようですが、それでも良いですか?」

「もちろんいいさー!」

「完成しても風乃さんには見せませんよ」

「うん、ありがと!」

 酷い条件だと思うが、風乃は気にしてなさそうで、ぱっと笑顔になった。

「あとタメ口でいいし、名前も呼び捨てでいいさ! 同い年なんだからさ」

「で、でも」

 今日会ったばかりの女の子を名前で呼び捨てなんて、ハードルが高い。

「それが嫌なら案内してあげない」

「いや、それなら別にしなくても」

「ほら、早く!」

 風乃は腕を組んで、険しい顔で顎をくいっと上げた。見下すような見方で圧迫感を与えてくる。怖くはないが、こんな表情もするのか、と新鮮だった。

「じゃあ……風乃。よろしく」

 たどたどしい口調で言うと、彼女は満足げに立ち上がった。

「うん、よろしく! 明日の朝にまた来るから! トミおばあもまた明日ーっ」

 そうして僕らの返事を待たず、とたとたと足音を立てて去って行った。

 すぐにガチャン、と玄関の扉が閉まる音がする。まるで台風が去っていった後のように、途端に静かになった。

 トミさんが空になったお皿を重ねて後片付けをし始めたので、僕は手伝いますよと言って立ち上がる。

「助かるさ」

「いえ、これくらいは」

「片付けじゃなくて、風乃と仲良くなってくれたことがよー」

「まだそんなに仲良くはないですけど」

「そうかもしれんね。でも風乃が楽しそうで、それが何よりも嬉しいのさ」

 洗い物をするトミさんの声には実感がこもっていた。肉付きの薄い?が柔らかく持ち上がっている。

「ずいぶん懐いてますね、遠慮なく食べてましたし。昔からああなんですか?」

「この島は子供が少なくて、小さい頃からみんなで可愛がってたからね。やまんぐーに育ってしまったね」

 島民全員が家族みたいなものか。いかにも田舎という感じだ。好きな人は好きなんだろうが、小さい頃から何でも知られているのは少し窮屈だなとも思う。

「申し訳ないけど、あの子の気が済むまで相手してやってくれ」

「はあ、分かりました」

 こっちは客だというのに、孫の世話を押し付けられたような気分だ。出会って間もない女の子と二人きりでなんて、明日のことを思うと胃が痛くなる。しかし、風乃に握られた右手の温かさは、なぜか忘れられなかった。

 その夜、秋山さんから電話があった。無事民宿にたどり着けたか確認され、親にも連絡しておけよと釘を刺された後、グランプリの話になった。

『良い場所見つけたか?』

「まだ夜なので何とも。あ、星は綺麗でした」

『そうか。地元の人間に案内してもらえたら一番良いんだが、お前はそういうの苦手だろ』

「失礼ですね。明日案内してもらう約束しましたよ」

 そう答えると、スマートフォン越しの秋山さんの声が、興味深げなトーンに変わった。

『ほう。もう知り合いができたのか?』

「はい」

『どんな人だ?』

「地元の子です」

『その言い方、まさか女か?』

 なんて鋭いんだ。さすが、四年半もの付き合いなだけある。

「はい、まあ、そうです」

『やるじゃないか。恋愛は大事だぞ。【恋愛と芸術は同じだ。全身をぶつけること、そこに素晴らしさがある】。これは岡本太郎の言葉だ』

「いやいや、飛躍し過ぎですから。そういうのじゃないです」

『いや、お前の態度はあやしい。何かいつもと違う。童貞ってやつは気になる女の影を過剰に隠そうとするものだ』

「高校生になんてことを」

『海斗、気持ちは分かるがちゃんと絵は描けよ。女にうつつを抜かしている間に他の応募者は……、いや逆に教育者としては、絵なんかいつでも描けるぞと言って背中を押すべ』

 そこで、僕は通話を切った。本当はもっと早く切っても良かったが、志嘉良島に連れて来てもらったという感謝を加味して長めに付き合ってあげた方だ。

 一応秋山さんに言われた通り親に連絡をしておいた。タカヤからも通知が来ていたが、面倒だったので未読のまま寝た。

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