6.孤独
本当に欲しいもの程、その手に掴めない…
★☆★☆★
「紫苑様、彩花様とおられる所を、本当に申し訳ありませんが…
調整のお時間です。誠に恐れ入りますが、いつもの研究所までお越し下さい」
「え、もうそんな時間なんだ… 分かった。すぐ行くよ」
稔が紫苑と相対し、話をしていた、ちょうどあの最中…
幼い紫苑は、Crownの部下らしき少年が、畏まりながらも自らに報告するのを聞いて、そう即答していた。
しかし、傍らでそれを聞いていた彩花の表情は、およそ人に対しては使わないであろう、その“調整”という単語に、怪訝そうなものへと変化を遂げていた。
その疑惑を問いへと変えて紫苑に尋ねる。
「紫苑、調整って…」
「ああ…大したことじゃないよ」
紫苑は言葉を濁しながらも、座っていたソファーから立ち上がった。
すると少年は、脇に抱えていたファイルを取り出し、捲ると、そのファイルから目を離さぬまま、そこに書かれているらしい文章を読み上げる。
「今日の調整は… ああ、感情の鎮静化と…薬物・抗ウイルス剤の投与、それから採血ですね」
「分かった」
紫苑は顔色も変えずに答える。
しかし彩花は、瞬間、そんな紫苑の手を反射的に掴むことで、その言動そのものを遮った。
「ママ…?」
紫苑が不思議そうに振り返る。
一方の彩花は、とっさに紫苑の手を掴んだ自らの行動に戸惑っているようで、それでいてその双眸には、はっきりと否の光が浮かんでいる。
…彩花は声を沈ませた。
「紫苑、あたしには良く分からないけど…
駄目だよ、まだ小さいのに…そんなこと、平気で言ったりして」
「…え…?」
彩花の葛藤の意味が測れない紫苑は、幼いが故に純粋に問い返す。
「…ママ…」
「自分から行くんじゃなく、呼び出されるってことは、それは紫苑の意志じゃないんでしょ?
…ねえ紫苑、病気の検査とか、健康診断とかなら大切だからともかく、そうじゃないなら…そんなのやらなくていい。
…ううん、違う…、そんなのは…やるべきじゃない!」
「…、ママ…」
紫苑は、すっかり困り果てた表情で彩花を見つめる。
すると、傍らで今だ待機していた少年が、こちらも弱り果てた様子で口を開いた。
「彩花様、そうは申されましても、これは紫苑様の父君の、煌牙様直々の御命令でして…」
「!?」
瞬間、煌牙の名を聞いた彩花は、何故か、びくりと大きく身を竦ませた。
…するりと、その手が引力に引かれ、紫苑の動きを解放する。
「…煌牙…さんの…?」
そう呟いた彩花の声は、それまでとは打って変わって落ち着いていた。
「…煌牙さんの…命令… そう…、なら仕方ないか…」
「…?」
紫苑は彩花の対応の不自然さに、瞬間、その目を鋭く、細いものへと変えた。
…そう、それはまるで突然に自我を奪われたかのようだ。
感情を抑制され、すり潰され、消失され…
その感情そのものが、元から無かったもののように、その影を潜める。
「…行ってくるよ、ママ」
まだその表情に厳しさを残しながら、紫苑は試しにそれだけを口にした。
「うん。行ってらっしゃい、紫苑」
彩花は、先程の様子がまるで嘘のように、にこやかに手を振る。
その決定的な違和感が、紫苑の訝を更に煽った。
(…パパ…、ママに一体、何をした…?)
全く知らない訳ではない。
煌牙が彩花の記憶を奪った時、自分もその場に居合わせたのだから。
だが、これは…
これはただの記憶喪失ではない。
明らかに、それだけには留まっていない…
母が反応したのは、煌牙の名前。
そして、煌牙からの“命令”という事象。
(!まさか、パパは…)
紫苑の脳内を、あるひとつの恐ろしい仮定がよぎった。
(この、腑に落ちない一連の反応…
パパは…ママの、お父さんと梁牙に関する記憶を消しただけじゃなく、自分の言葉や名前に反応させる形で、服従させるように仕向けたのか…?)
つまりはその、かつての記憶を一部、喪失させただけではなく、それに更に手を加える形で、その空白の部分を改竄し…
自分の言葉に従うことを、さも当然のことのように認識し、納得させる為に、それそのものの伏線である感情に刻み込む形で、再び自らの“存在を”記憶させている──
「さすが…抜け目がないな、パパは」
…紫苑の口元に、冷たいながらも感嘆の笑みが浮かぶ。
そんな紫苑を促すように、少年がその後へとついた。
「参りましょう、紫苑様」
「…ああ。じゃあ──」
言いながら紫苑は、その少年の姿の先を見る形で、彩花の方を振り返った。
…相変わらず彩花は、無垢なまでに明るい笑みを浮かべている。
そう、かりそめの、造られた笑顔を。
「…、行ってくるね」
紫苑はそれだけを低く呟くと、くるりと体の向きを変え、組織の少年と共に扉の先へと消えた。
…後に残された彩花は、先程までの感情の起伏が、まるで嘘であったかのように、その場に大人しく座っていた。
すると、その二人が姿を消した先から、ほぼ入れ違いといった形で、成長した紫苑が静かにその姿を見せた。
…だが、紫苑の様子をひと目見た彩花は、一瞬にしてその様子がおかしいことに気がついた。
その絹糸のように艶やかな銀髪はわずかに乱れ、非の打ち所のない程に美しい顔立ちには、まるで病んだ後のように陰が落ちている。
そして何よりもその眼差しは、厳しく、そしてそれを上回る程に鋭く…
そんな、普段の紫苑を思わせない程のその面変わりは、自然、彩花の再びの感情の起伏を誘発した。
「!し、紫苑… どうしたの!?」
彩花が一転して狼狽え、思わずソファーから立ち上がる。
すると紫苑は、ほんの微かに歯を軋ませると、抑揚のない、淡々とした口調で呟いた。
「…あの男は、俺に迷いを置いて行った…」
「…? “あの男”…?」
稔の記憶を脳内から消されている彩花は、通常の状態であるなら、それまでの流れで分かりそうなことにも首を傾げる。
一方の紫苑は、そんな母親…彩花の様子を改めて見ることもなく、ほんの一時、目を伏せ、瞬きをすることによって、すぐに普段の状態へと戻るように、己の感情の切り換えを図った。
「いや…今のお前にとっては詮無いことだな、母よ」
そう告げ、顔を上げた紫苑には、先程までの様子はまるで見られなかった。
一瞬にして己の感情をコントロールしたらしい紫苑は、いつもとまるで変わらない毅然とした態度を示し、そこにはその脆さを匂わせ繋がる、油断や隙などは、まさしく欠片すらも窺わせない。
紫苑は彩花をその眼力で促した。
それに気付いた彩花が、再びソファーに腰を落とすと同時、紫苑はその右隣に己を位置付ける。
「…退屈か?」
紫苑は戯れにそう問うた。
それに彩花は正直に、こくりと首を縦に振る。
「うん、少しだけ」
「そうか。…煌牙もじきに来る。
もう少しだけ待っていろ」
紫苑は、幼子に語りかけるような口調で呟くと、その口元をほんのわずか緩ませた。
それに彩花は、再び首を縦に振る。
が、その時、何かに気付いたらしい彩花が、不意に大きく目を見開いた。
「ねえ紫苑…、梁牙は? 梁牙は何処へ行ったの?」
「……」
紫苑が黙っていたことで、彩花はそこに、言いようのない焦りを見いだした。
「紫苑、教えて! 梁牙は──」
「…、あれは言動が過ぎたのでな…
今頃は煌牙に仕置きをされているはずだ」
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