悟りを見せた幼子

…数分後。


梁は、紫苑に教えられた別館の前へと辿り着いていた。


全体的に白く、近代的な様相でありながら荘厳に佇むその建物に、梁は何故か懐かしさを覚えながらも…

ふと気付いたようにそれを振り払い、走って来たために乱れた呼吸を整えると、ゆっくりと入り口近くまで歩を進めた。


恐らくは紫苑がそうしたのだろう。

それが無意識にか意識的にかは分からないが、入り口の扉は半開きのままになっていた。


そしてその周囲は、不気味な程に静まり返っている。


「……」


梁は無言のまま、油断なく周囲に目を走らせた。

…現在、煌牙と稔が対峙していることから考えても、この近辺にいるほとんどの組織の者の目はそちらに向いているだろうが、かといって全くこちらに向いていないというわけでもない。



何しろこちらには、紫苑と彩花がいる。

紫苑は組織の後継、そして彩花はその母。

警護の者がいないはずもない。



それでも躊躇っていても仕方がないことは分かっているし、何よりもそんな場合ではない。

梁は警戒を崩さないままに、半開きとなったままの入り口から別館へと入り込んだ。


…その別館の中は、一言でいえば、ただ“美しかった”。


それそのものがホールのように広がっているその広い部屋の窓は、一杯に開け放たれており、そこから樹々の葉擦れの音が聞こえて来る。


──さわさわと鳴る樹々。

柔らかく、心地よく吹き抜けてゆく風。



その部屋の中央に、紫苑は居た。

目を閉じ、まるで眠っているかのような彩花を、大切にその手に抱きながら。



ソファーに深く体を沈め、彩花を何よりも大事そうに扱うその様は、他の全ての者を拒絶するような、強い不可侵さを梁へと見せつけていた。


「…何だ…?」


梁は怪訝そうに母親を見る。

彩花の様子がおかしいのは、一目で分かった。


あの勝ち気な母が、抵抗することもなく…

そして人形のように大人しく、紫苑の手に抱かれているなど考えられない。



「…、何しに来たんだ? お前」



彩花の髪をいとおしそうに撫でながら、不意に紫苑が梁へと尋ねた。

その声はまだ幼い故に未成熟ながら、それでも確実に先程の成長した紫苑とイメージを重ねさせる。


それによって、結果的に自らの身が固くなることを否が応にも思い知らされた梁は、我知らず片牙を軋ませる。


ぎり、と擦れるほどに鈍い音に、比例するかのように紫苑の目が鋭くなった。


「用がないなら邪魔するなよ。僕はママと一緒にいるんだから」

「…、用ならあるさ。嫌ってほどな」


呟いた梁は、再び歩み始める。

その一歩を踏み出す度に、紫苑の瞳は強い殺気を帯びてゆく。


だがそれでも、今は目を閉じている母親を起こしたくはないのだろう…

紫苑はふと、彩花を撫でていた手を止めると、騒ぎを起こすようなことはせずに、黙ったまま、見下すように梁を見据えた。


「…お前、僕の弟だって…本当か?」

「煌牙が認めていただろう。それだけじゃ不服なのか?」


梁にとって、この答えは煌牙の言葉を肯定するようで、決して本意ではなかった。

しかし、生半可な答えでは、この紫苑が納得するはずもない。

そのために梁は、己があえて不本意だと思う答えを的確に切り返した。


…紫苑の側で、その歩みを止める。


「お前こそ、父さんと…

緋藤稔と話したなら、自分の置かれている状況くらいは理解できたんだろう?」

「当然だろ」


紫苑は即答し、そしてそれ故に双眸を更に尖らせる。

その、幼子には到底あり得ないような、ぞっとするほど冷淡な感情に、梁はやはり、先程の成長した紫苑とイメージを重ねずにはいられなかった。


兄であるが故。

自分の支配者であるが故…

どうしても、“肝心な時には強気に打って出られない”。


…だが、それでも。

自分の為ばかりではなく、他ならぬ稔の為に。

母親である、彩花の為に──


「そこまで分かっているなら、煌牙の言いなりになることもないだろう?

お前の父親は煌牙じゃなく、父さん…

緋藤稔なんだぞ」


「…それは、お父さん本人からも聞いた。

でも、そんなことは関係ない。

僕は確かにあの人の息子、そしてママの血も引いている…

でも、それだけだろう。僕が本当に欲しいのは、実の父親じゃない。ママだけなんだ」


「!紫苑っ…!」

「分かるだろう、僕とパパとは利害が一致している…

そして、それがパパにとっての僕の存在価値なんだ」

「!お前…」


梁はそう言ったきり、言葉を失った。


…今回の件で、幼い紫苑は己の居場所を見失ったに違いない。

煌牙の側にいて当然と思われた過去が、稔と自分が真実に触れたことで、一瞬にして潰えてしまったのだ。


あの煌牙のことだ、以降、使えないと判断すれば、即座に紫苑を切り捨てかねない。

そしてそれは、実質、血が繋がっている自分に対して、名前に酷く拘りを見せることでも明らかだ。


…紫苑はそんな梁の、同情にも近い心境を察したのだろう。

次にはその瞳に負けないほどの、酷薄な笑みを静かに浮かべる。


まるでそれは、天使が堕ちた時の様相さながらだった。


「僕とパパの絆なんて、ちょっとした介入で壊れる程に脆いものだったんだ。

でも、それが今後も…例え上辺だけになろうとも構わない。

僕とパパの目的は、どんな手段を取ってもママを手に入れたい…

それだけなんだから」

「……」


梁は、かけるべき巧い言葉を見い出せずに、ひたすらに答えを探している。

そんな梁に、紫苑は事もなげに言い放った。


「だから、例え弟であろうとも──

お前には絶対にママは渡さないよ、梁牙」

「!…っ、そんな勝手が通用するか!」


梁は完全に苛立ちを覚えて、知らぬ間に声を荒げて紫苑にぶつける。


「母さんはお前の所有物じゃない!

それに俺だって、お前に梁牙と呼ばれる筋合いはない!」

「…煩いよ、“梁牙”」


紫苑はわざとそう言い放つと、その手に途方もない雷の力を集束させる。

梁がそれに気付き、ぎくりと体を強張らせると、紫苑はいよいよその瞳を剣呑にひそめた。


「ママが起きるだろ。それ以上騒いだら…殺すよ」

「!紫苑…」


梁は、頬を伝う冷や汗もそのままに、絶句した。

それを冷酷に見やった紫苑は、手にした強力な雷の力を更に倍加させ、それよりも更に冷たい言葉を梁へと浴びせかける。


「まだ分からないの? 梁牙。ママは僕とパパのもの…

お前のものじゃないんだよ」

「!──っ、ふざけるなっ!」


紫苑の酷薄、かつ、実の父親である稔を軽視したかのようなその一言に、ついに腹を立てたらしい梁が、いきなり紫苑を頭ごなしに怒鳴りつけた。


「お前、自分が父さんの…緋藤稔の子どもだって自覚が、本当にあるのか!?

お前の父親は、煌牙じゃないんだぞ!」

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