狂愛

「…俺に逆らうとは…

どうも勝手をさせ過ぎたようだな」


紫苑の瞳が、軽い怒りと共に剣呑に尖る。

それに梁は、蛇に睨まれた蛙の如く、更に体を強張らせた。


「…紫苑…」



──かつてこの体に、精神に嫌というほど与えられ、擦りこまれてきた恐怖を再び思い出し…

その喉はからからになり、引きつるように詰まり始める。



「…分かっているはずだ、梁牙…

俺は、お前に我名を呼ばれるのは嫌いではない。だからこそ、人前での呼び捨ても黙認して来た…

だが、本来のお前が俺を呼ぶその呼び方は…違うだろう?」

「!…」


紫苑の情け容赦ない言葉に、それまで、朝露を含んだ薔薇のような、ほんのりとした紅さを保っていたはずの梁の顔色が、一瞬にして青ざめる。

すると紫苑は、それに追い打ちをかけるかのように、恐怖で硬直した梁の耳元で、そっと囁いた。


「いつものように…俺を呼んではくれないのか? 梁牙…」

「!…」


梁の目が、これ以上ない程に大きく見開かれる。

兄である紫苑の与えた影響からか、その瞳には、途方もない畏れと、激しい迷いとが同時に浮かんでいた。


やがてそれが徐々にではあるものの引きを見せると、梁はただ、単語を紡ぐように言葉を漏らす。


「…、紫…苑」

「違う」


紫苑が冷たく呟く。


「…紫苑…」

「違う」


突き放すように、それでいて梁に言い聞かせるように、紫苑はその言葉のみを繰り返し放つ。


──梁の表情が、僅かながら苦痛に歪んだ。


「お前の名は、間違いなく紫苑だろう…

そして、俺もそう呼んでいる。それがお前の正式名だからだ…

でも、お前は俺を“梁牙”と…躊躇いなく呼んだ」

「……」


紫苑の眉がひそめられる。

それを見た梁は、その瞳に微かながら光を取り戻した。


「確信犯だな。お前は元々、全てを知っていた…

その上で、俺を翻弄していたんだ」

「…、今となっては弁明にしか聞こえないだろうが…

俺にはそのつもりはない」


紫苑が、苛立ち混じりに目を伏せる。


「名前に拘るのはお前くらいだ、“梁”」

「…呼び方に拘るお前の言う台詞じゃないだろう」

「…、よく言ったものだ」


紫苑の瞳が細められる。

瞬間、梁は、背中にぞくりとした恐怖を抱えて、その体の動き全てを止めた。


…紫苑の長い指。

その先が、ゆっくりと梁の唇に触れる。



端から見ればそれはまるで、天使が人間に情愛を与える時のそれに近かった。



…緩やかに唇をなぞられて、梁はその恍惚感に、抵抗する力を全て奪われる。


「…やめ…ろ…」


一文字ずつに拒絶を秘め、梁は嫌悪の意思を露にした。

それでも紫苑は指の動きを止めず、そのまま辿るように梁の顎のラインまで到達させ、指を加える。


「!」


人差し指を当てられ、もう一方の親指で難なく顎を持ち上げられて、梁の意識は、完全にそちらに向いた…と同時、紫苑がその整い過ぎている程の美貌を、その顔に近付ける。


「…さあ…言ってみろ」

「!紫苑っ…」


梁は反射的に、いつもの呼び名で兄を呼んだ。

しかし、そんな梁の失言を、紫苑が許すはずもなかった。


「違うと言っているだろう。何度も言わせるな」


不意にその親指に力を込められ、梁の顎は先程よりも空に近付く。

その息苦しさからか、梁は息をつくように、ついにその言葉を口にした。




「──やめて…くれ…“兄さん”…!」



「随分と無防備な色気を晒し示すのだな。

その様は何ともそそられるぞ…梁牙。

初めからそのように大人しく言うことを聞いていれば、こちらとしてもお前を手荒に扱うつもりはない」


勝ち誇ったように笑みを落として、紫苑は梁を抱く手に力を込めた。



…今や、紫苑の迫力に、そしてその威圧感に屈伏してしまった梁には、着ている服の擦れ合う音が、やけにはっきりと聞こえた気がした。



その表情は酷く虚ろで、瞳には絶望感だけが浮かんでいる。


先程まで梁にあったのは、言うまでもなく焦りだった。

だが紫苑に捕えられた今では、彼が満足するか、あるいは飽きるまで…



母親を、探すことは叶わない。



「…“兄さん”…、俺を…離してくれないのか…?」


梁が、ぽつりと呟く。

その静かな口調には、本人である梁も知らぬ間に、諦めと、そして僅かな咎めが含まれていた。



──瞬間、梁の性格を、その全てを良く知る紫苑が笑う。



「お前を、手放せると思うか?」


紫苑は梁の顎に当てていた手を崩し、辿るように頬へ触れた。

相手に敵わない事実を理解した梁は、最早されるがままで、抵抗しようともしない。


絶望も焦りも通り越した、ぼんやりとした瞳を、それでも紫苑に向けたまま…

梁は表情も変えずに、ただゆっくりと、唇のみを動かした。


「…でも、手放して貰わないと…

俺は、幼い兄さんと、母さんの所に…行けない」

「お前なら分かるだろう。我等が母・彩花は、煌牙の唯一の弱味であり、弱点だ。

殺されることはまず無い。何故なら、煌牙の今の目的は──」

「言うな!」


会話そのものを切り裂かんばかりの激しい怒声が、瞬間、紫苑の言葉を遮った。

自分でも驚く程にその意思を示した梁は、はっきりとした嫌悪の感情を覚醒させ、紫苑の手を振りきると、自らの耳を強く押さえた。


「…それ以上…言わないでくれ…!」

「…やれやれ。それ自体が既に、我々にとっては“起こってしまった過去”だと言うのに…」


紫苑はまたも、言葉ほどは困らずに苦笑してみせる。

…その中に、僅かばかりの侮蔑を込めて。


「…梁牙、お前の考えは読めている。

お前は自らの存在を消滅させてでも、それを阻止しようと目論んでいるのだろう?」


「!…」


紫苑のはっきりした、よく通る低い声は、押さえているはずの指の合間を縫うようにして、否が応にも梁の耳に滑り込んでくる。


…それすらも見越していたらしい紫苑は、知らぬ間に変わった、梁の蒼白になった顔色を窺いながら、先を続けた。


「…だが、俺はお前の消滅は望まない。

血を分けた…ただひとりの弟を、むざむざ死なせる手段を取らせるはずもない。

だからこうして──」

「…俺を、足止めしているのか?」


梁が、徐々にその声に怒りを含ませる。

それに紫苑は気付きながらも、そ知らぬ表情で頷いた。


「…ああ」

「そんな固執は必要ない!」


梁は怒りのあまり、先程よりも更に声を荒げると、少し前までは怯えていた、兄である紫苑に対して、面と向かって噛みついた。


「紫苑、全てを知っているなら分かっているはずだろう!?

…俺が本当に煌牙と彩花の子どもであると言うなら、今の俺は…

その事実を…、いや、“自分”そのものを抹消しないと、気が済まないんだ!」

「…それはあの男…、稔に対しての、義理立てのつもりなのか?」

「違う! 俺がそうしたいから…  !?」


…はっきりとした言葉の応酬の後に。



紫苑の瞳が、残酷に細められた。



それはまるで尖った三日月を思わせるような鋭利さと、そしてそれを上回る、氷のような冷たさを含んでいた。


「…紫苑…?」


兄である紫苑の変化を目の当たりにした梁は、不思議さの中に些かの警戒を折り混ぜて尋ねる。

すると紫苑はその瞳を、緩やかに剣呑なものへと変貌させた。



「…実の父親ではないあの男…稔の為に、お前がそこまでする必要はない」



「!…っ」


紫苑の、その艶のある透明度を帯びた声は、低いながらも、一瞬にして梁の動きを支配する。

痛い所を突かれ、またそれがもはや真実であると理解している梁は、今度はそれに反論することすらままならなかった。


紫苑はそんな梁を冷たく一瞥すると、これ以上ない程に冷たく、更に先程のそれを上回る程に低い声で、ひっそりと告げる。


「…稔は、強力な能力を持った危険要因。

本来ならば殺すところだ…が、我が組織に与する意志があるのであれば、あの男の居場所は幾らでも作り出せる。

お前の出方次第では、稔を、その場にこそ存在させることは可能だが…?」

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