露《あらわ》し始めたもの
…梁には分からなかった。
兄である紫苑が、この最悪のタイミングで姿を見せた、その理由が。
…紫苑の手から何とか逃れた梁は、中庭の片隅にある大樹を背にし、空に向かって息をついていた。
外の天気は頗る良く、中庭の手入れも怠りないことから、梁はそんな環境に触れ、徐々にではあるが落ち着きを取り戻し始めていた。
それでも頭の中では、既にこびりついた葛藤が、ぐるぐると巡る。
(…何で…、どうして紫苑が…!?)
こちらの世界の紫苑だけでも手に負えないというのに。
それを更に進化させ、成長させた形の同一人物が現れるとは…!
…全くの想定外だ。
それ故に、どうしていいのか分からない。
そうこうしている間にも、紫苑は再び自分を発見し、関わって来るに違いない。
…だが。
紫苑の出方を気にしている余裕はない。
彩花が何処に連れて行かれたのかが分からない今、そちらまで気にかける余裕は、自分にはない…!
梁がその一通りを、極めて冷静に考えるように努めていると、突然、
「…!?」
目も眩むような光と共に、背後の大樹に、凄まじい勢いで雷が落とされた。
その雷は、しなやかに枝を伸ばし、光と影を適度に現し見せることで、梁の感情を少なからず和らげていたその樹を、無惨にも一撃でまっ二つにした。
「…っ!」
無慈悲な諸行を行うその人物に容易に予測がついて、梁は忌々しげに力の放たれた方向に目を向ける。
…そこには梁の予想通り、まだその右手に雷の能力の余韻を残した、紫苑がいた。
その強大な能力により散らされた、沢山の葉が風に舞う。
そんな中、梁はもはや逃げることもせず、静かに紫苑の方へと向き直った。
…紫苑は躊躇うこともなく、再び梁へと近づいた。
そんな紫苑に、梁は突き放すように言葉をかける。
「随分と…残酷な真似をするんだな」
声で突き放してはいても、その瞳にはそれと比例する程の鋭さはない。
何処か虚無感漂うその淡い瞳の奥底に見られる感情を察したのか、紫苑は静かに、しかし諭すように告知した。
「お前が逃げるからだ…」
「…、俺が?」
梁の瞳に、意思の光が目覚める。
迷い、疑い、驚くような感情と共に。
「お前相手に怯むことはあっても、逃げることはない…
そんなものが徒労に終わるのは、俺が一番良く分かっている」
諦めきった口調で、梁は紫苑から顔を背けた。
すると紫苑は、そんな梁を独占するかの如く、ゆっくりとその右腕を梁に絡め、腰を抱く体勢をとる。
しかし、梁は何故か紫苑に対して抵抗することもなく、ただ、されるがままでいた。
…彼が満足し、飽きるまでこのままでいた方が良いのは、今までの未来の世界での経験からも、嫌と言うほど分かっていたからだ。
一方、当の紫苑は、そんな梁の心情すらも既に読み取っているのか、微かに体を強張らせる梁の耳元に、半ば慈しむかのように、そっと声を落とした。
「いい子だ…、“梁牙”」
「──俺を子供扱いするのは…もうやめてくれ…」
梁は、紫苑特有の色気を強く含んだ声に、呑まれ翻弄されそうになりながらも、その一方で、わずかに顔を紅潮させた。
…こんなことをしている場合ではないのは良く分かっている。
そう、理性では、充分過ぎるほど分かっているはずなのに…
感情の方が、まるで言うことをきかない。
逆らえないのは、兄だからなのか。
所詮それだけの理由しか、自分は持ち合わせてはいないのか?
逃げることは出来る。だが逃れられない。
何処に居ても、何をしていても…
紫苑は自分の身を、的確に捉える。
…何故、見つけられる。
そして何故、捉えられる?
自分はそれを、望んではいないのに──!
「梁牙…俺はお前を子供扱いするつもりはない。お前は幾つになっても、俺の可愛い弟だ。
だからこそ、兄であるはずの俺から逃げたらどうなるかは──その身に嫌と言うほど刻みつけたはずだな?」
「!…紫…苑…!」
梁が瞬間、何かを思い出したように目を大きく見開き、歯噛みするように兄の名を呼ぶと、紫苑は梁の腰を抱えていた手を、梁の後頭部へと移動させ、そのまま絡めるように掻き抱いた。
「梁牙…また、痛い目に遭いたいのか?」
「!? ──嫌だ!」
紫苑の意味ありげな言葉に、何故か梁は酷く驚愕し、深い畏れと恐怖に満ちた表情で、激しく首を横に振った。
その体は、かつて与えられたらしい途方もない恐怖に、恐れ、怯え…
ただひたすらに、震えている。
不意に、紫苑はそんな梁を、優しくかき
耳元でそっと、甘美な、低い声を洩らす。
「…お前が俺に逆らわなければ、罰は与えない。あの時は、稔が共に居たからこそ見逃してやったが…
梁牙、強がるな。お前が俺に抗えない事は、身に染みて分かっているはずだ…!」
「!…紫苑…っ」
知らぬ間に
…紫苑は、自分の兄。
だが、恐らくは支配者でもある…!
現に自分は流されている。
そうしたくないのに。
望んではいないのに。
流され、狂わされ、そして突き堕とされてゆく──
「…嫌だ…もう…やめろっ…!」
梁は、いつの間にか力の抜けきった体を無理やり覚醒させるかのように、弱々しい力で、それでも何とか紫苑を押し退けた。
「今は…こんなこと、している場合じゃ…ないんだ…!」
わずかに荒くなった息の下から、梁が告げると、紫苑はそんな梁の反応そのものを楽しむかのように、ふと笑った。
「──分かっている。“俺を追わなければならない”のだろう?」
「…、紫苑、お前はいつもそうだ…
意地悪で酷薄で、そして気まぐれで…俺の都合など、まるでお構いなしだ。
だが分かっているだろう? …俺はお前の玩具じゃないんだ」
まだわずかに赤さの残る顔を、伏せるようにして逸らした梁には、どこか哀愁感が漂っている。
紫苑はそんな梁に、そっと瞳を落とした。
「…壊そうと思えば壊れるところは、まさに玩具のそれだ…
だが、誰がお前を玩具だなどと言った?」
ここで紫苑は間を置いたが、溜め息にも近い様子で一息つくと、再び口を開いた。
「…梁牙、お前は俺の、ただひとりの弟。
分かるな? お前の力、お前の血、お前の体…そして、お前の脳。
お前自身を構成する、その全ては──
兄である、俺のものだ…!」
「!…」
梁は、もはや声にもならずに絶句する。
…紫苑の独占欲の強さが、まさかこれ程までだとは。
“尋常”…これはもはや、そんな陳腐なレベルでは片付けられない。
そこには確かに、途方もない狂気と、鋼の蔦にも近い束縛感が混じっている。
「…梁牙…組織に来い。お前が父親と慕うあの男──稔と共にな」
「“Crown”は、無意味な人殺しを好む、快楽殺人者の集団だ。
例え話を持ちかけたところで、あの父さんがそんな話に乗り、お前たちに与したりするものか…!」
それまで、父親であると信じて疑わなかった、稔の性格をよく知る梁が、わずかに苛立ちを覚えて、半ば抗議混じりに返答した途端、
「勘違いするな、梁牙」
紫苑が、ぞっとするほど冷めた、威圧感のある声で呟いた。
それに梁の体は、意図せずぎしりと軋む。
「勘違い…!?」
「そうだ。お前に選択権などはない。言うなればこれはただの猶予──
お前の意志は聞く必要がない」
「!…っ」
梁は、感情のままに、いつの間にか自らの顎に伸びてきた兄の手を、勢い良く振り払った。
──鈍い音と共に、紫苑の形の良い手が、わずかに赤みを帯びる。
「──…」
紫苑は、弾かれた己の手を気にかけることもなく、無言のまま梁を見下ろした。
ただでさえその存在には並々ならぬ威圧感があるというのに、無言になると、知らぬうちに相手に与える感覚は、その恐怖は…
その比ではない。
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