兄と弟

…一方、紫苑を追って走り出していた梁は、油断なく神経を研ぎ澄まし、紫苑の行方を探っていた。


しかし紫苑は、よほど巧妙にその痕跡を隠しているのか、梁の能力をもってしても、その気配の一部すらも感じとれなかった。

それによって、いよいよの焦りを見い出した梁は、紫苑が潜んでいると思われる箇所を、片っ端から当たってみることで、辛うじて切羽詰まったにも近い焦燥感を抑えていた。


しかし、彩花はおろか、まだ幼いはずの紫苑が隠れている箇所すらも見抜けない苛立ちは、徐々に梁から、その特有の平常心を奪っていった。


…苛立ちにも似た不安感も露に、梁は広い通路を宛てもなくさ迷う。

己も知らぬ間に、梁は中庭へと続く扉を背にしていた。


「くそっ、紫苑の奴、一体何処へ…!」


翻弄されているのが分かっていても、見抜けないのでは意味がない。

そしてそういった意味では、まだ確かに幼いはずの紫苑は、自分より一枚も二枚も上手だ。


「紫苑っ…!」


苛立ちに任せて、曲げた肘から繰り出される拳を扉へと叩きつける。

…すると、その横で、梁にとっては至極聞き慣れた声が響いた。




「お前は少しも変わらないな」




語りかけるその内容は平坦そのもの。

しかし、その口調は…!


昔を懐かしむでもなく、かといって咎めるでもなく。

ただ淡々と、冷めた口調でそれは告げられた。


「!その声…」


梁は、驚きで力を失った腕を、引力に引かれるがままに無意識に落とす。

反射的に、宝石のように無機質化したのではないかと思える双眸までもが、無意識にそちらを向いていた。


…そこにある窓から、さも当然のように通路へ音もなく入り込んだ男。

艶やかな長い銀髪が、緩やかな風になびいて、より一層美しく見える。


だが、その美しさは悪のそれであって、凡そ普通の人間の持ち得るものでは到底あり得ない。

だからこそ梁は、相手が誰であるか、その顔ばかりではなく、本質で理解した。



「──紫苑…!」



そう。

そこに居たのは、あの幼子ではない。

組織・Crownの皇帝の異名を持つ、【成長した紫苑】…

未来の世界にその籍を置く、類い稀なる力を誇る、まさしく名称通りの“超能力者”だった。


…兄である紫苑の存在に気付いた梁の表情は、瞬時に頑なで警戒に満ちたものへと変化する。


すると紫苑は、足音を立てることもなく、梁の側まで歩を進めた。

それでも真綿で首を絞められるように、じわりじわりと確実に近づく兄・紫苑の存在に、梁の心臓は早鐘のように鳴る。


「…あ…」


梁が紫苑の接近に、今までの様子を崩し、明らかに躊躇いを見せると、紫苑はついにその距離に梁を捉え、そのさらりとした銀髪を流しながら梁の顔を覗き込んだ。



──透明な低い声が、梁を束縛する。



「…梁…、いや、梁牙と呼んだ方がいいか…?」

「…っ!」


梁は、いつの間にか引き込まれていた紫苑の瞳から視線を逸らした。

わずかに興奮して紅くなった梁の頬を、その反応を…

紫苑は満足気に、深く愛でる。


「あの時は随分と強がっていたようだな…

だが解るだろう? …お前は俺には逆らえない」

「!」


…梁の瞳が、瞬間、目には見えない、例えようもない恐怖に凍る。

それにも紫苑は、慈しみ哀れむような視線を梁へと落とした。


「…そう、お前は決して抗えない…!」

「…っ…、い…、嫌だっ!」


梁は紫苑から逃れようと、その手を強く振りきり、反射的に身を翻した。

背にしていた、中庭に続く扉を、力任せに開け放つ。

そこから、梁は逃れるために飛び出した。


…梁の姿が遠ざかり、紫苑の視界から完全に失せる。


後に残された紫苑は、それでもまるで焦る様子を見せず、子どもが軽い悪戯をした時の親が見せるような反応を、僅かながら垣間見せた。


「全く…、仕方のない弟だ」


恐らく、口調ほどは面倒そうに思ってはいないであろう紫苑は、ゆっくりとその口元に苦笑を張り付けた。


「…隠し事をするには、お前はまだ幼すぎる…

それに気付いてもいないのだからな」


低くも意味ありげにそう呟いた紫苑は、笑みを潜めると、ようやく梁を追うべく行動を開始した。

…瞳が、獲物を狙う豹のように、引き締められ鋭くなる。


──そこにあるのは、力ある者の余裕。


梁と紫苑の、絶対的な力の差、そして…

まだ梁は気付いてはいないであろう、紫苑の梁に対する、ある感情。

それら全てが、その場の空気に深く溶け、じんわりと染み入っていった。

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