歪な位置関係
「紫苑…」
「なに? パパ」
紫苑が、あどけない瞳を稔に向ける。
「お前…、煌牙を…」
「…、だって…、パパは本当のパパじゃなかったから…」
紫苑が俯くのを見て、稔は自らの思いのままを口にした。
「そうすぐに割り切れるものではないだろう… 無理はするな」
「……」
しかし、紫苑はまだ、何かに迷っているようだった。それに気付いた稔が、再び声をかける。
「…どうした」
「貴方に…悪いから」
まだ3歳ほどの子どもが、大人顔負けの感情を吐露する。その心情を察して、稔が反応した。
「さっきから何度も言っているが、お前が気にすることはない。事情はどうであれ、煌牙は今まで確かにお前の父親だった…
それを無理に否定することはない」
「!…うん」
紫苑の表情がわずかに明るくなったのを見て、稔は安堵した。その稔の様子を見た紫苑は、心からの笑みを浮かべた。
「じゃあ、“パパ”と…“お父さん”って呼んでもいい?」
この場合、煌牙が『パパ』で、自分が『お父さん』なのだろう…
そう察した稔は、頷いた。
「ああ。好きなように呼べ…」
稔は、傍らで聞けば、幼子を突き放しているのではないかと思えるほど、そっけなく答えていた。
だが、この時、既に稔を父親と認識した紫苑には、ひょっとしたら、それが彼なりの優しさなのではないかと…、極めて漠然とではあるが、そう感じ取ることが出来た。
…何故、そう思ったかは分からない。
分からないが…何故かそうなのではないかと素直に思えた。
…胸の奥に湧き上がる、感情が訴える。
“この人が敵でなど、あるはずがなかった”…と。
幾ら“父親”にけしかけられたとはいえ、何もしていない者に対する敵意など…そのような無意味な攻撃的な感情など、初めから一片たりとも持つべきではなかったのだ。
…そもそも、こんなにも力ある、厳しくも優しい存在を、自分は何故…疑ったのだろう。
何故、無謀にも…殺めようなどと考えたのだろう。
相手は自分の、実の父親だというのに。
…だがそれでも、父親・稔は、歯向かった自分に悪感情を持つこともなく、全てを赦してくれた。
それどころか、自分の中の今までの父親にあたる、煌牙の存在すら抹消させず、心理面では同格化した自らの存在と、感情内に共存させようとする姿勢など…
そんな、あり得ないほどの優しさに満ちたその様は…まるで天使が見せる慈愛そのものだ。
「…有難う…、お父さん」
…稔が自らを思い遣ったが故、そういった言動を取ったことが分かっているので、紫苑の口からは、嬉しそうな笑みと共に、自然にお礼がこぼれた。
それを父親の持つ風格も露に、静かに一瞥した稔は、再び軽く頷くと、音もなく立ち上がった。
──その美しい、至上の宝石のような黒銀の瞳に、眼前にいる煌牙と、彼に囚われたままの彩花が映る。
…ふと、稔は彩花に焦点を合わせた。
彩花は未だ気を失っているようで、表情に微かな翳りを残したまま、その身を委ねるように煌牙に任せている。
そんな彩花を慈しむかのように、深海にも似た、僅かな憂いを帯びた蒼の瞳を、傍らでそっと落としているのは…
組織・Crownの長・煌牙だ。
そして…彩花を抱いている彼こそが、梁のためにも、己の為にも、必ず討ち倒さねばならない…【強大な敵】。
「…、煌牙…」
「…巧く紫苑を手なずけたようだな、稔」
彩花から視線を外した煌牙が、凍れる湖にも近いほどに、冷たく口許を緩める。
その瞳の色も手伝って、一見すると、氷の化身と言っても過言ではないその美しいはずの外見に、稔はこの時ばかりは、酷い嫌悪感と違和感を、同時に覚えていた。
…一方、紫苑は、自分に関することに対しての、父親のいつになく冷酷な反応から、結果、今まで父親と慕っていたはずの煌牙が、初めから全ての真実を知りながらも黙っていたのだという、無情かつ衝撃的な事実を受け入れることとなった。
「!…パパ…」
絶望と驚愕で、紫苑の顔が、死人のそれに限りなく近く青ざめた。
…感情の行き場を無くした頭が、まるで貧血でもおこしたかのように、酷くふらつく。
「…まさか…、まさか…パパは…、全部…初めから、知っていたの…?」
呆然自失となりながらも、それでもまだ彼に…煌牙にすがるように、辿々しく問いを口にする。
そんな紫苑に、稔は、彼には似つかわしくなく、戸惑いと哀れみを混在させた瞳を向けた。
「──紫苑…」
…稔の、どこか重みのある呟きが、名を呼んでいる通り、自分に向けられているのだと知った紫苑は、その、まだ幼いままの潤んだ双眸に、じんわりと涙を滲ませた。
「!…っ、どうして!? パパ! …どうして…、何で僕に本当のことを話してくれなかったの!?」
「…随分と分かりきったことを言うな。では尋ねるが、紫苑…
お前は、事前にこの話を聞いていれば信じたとでも言うのか?」
からかい半分に、残酷なまでに綺麗な笑みを顔に張り付ける。それに紫苑は、その時点で雰囲気に呑まれていることを知りながらも、それとは裏腹に、更に激しく動揺した。
「…ど…、どう…して…っ、何で…!」
それまで疑うことなく信じていた、父と呼んでいた者に裏切られた想いから、紫苑の瞳からは…とめどなく涙が溢れる。
それを、彼にしては珍しくも辛そうに見つめた稔は、紫苑に向ける哀の感情とは打って変わって、その紫苑から見た場合、自分と同等の立場にいるはずの煌牙に、底知れぬ怒りの感情をぶつけた。
「…貴様…、己の血を引く子らの運命を翻弄し、歪めるのもいい加減にしろ」
「…お前には分からないだろうな、稔。
歪めているのではない。これは起こさねばならない【必然】だ」
煌牙が笑みを湛えたまま、極めて平然と呟いた。
これに尚も言いようのない怒りを覚えた稔が、猛獣でも逃げ出すような冷酷な、途方もない殺気を、その眼力と共に煌牙にぶつける。
「…話すだけ時間の無駄なようだな」
低く告げた稔の声は、既に氷の刃のごとく冷たく尖っている。
彼はそのまま、それと相反する自らの炎の力を一気に高めた。
──だが、その時。
「…父さん!」
稔の右隣に、突然、梁が現れた。
手には、それに含まれる彩花の力を使ったらしい、例のメモリーリストを所持している。
こんな時、この場に息子である梁が…
いわゆる当事者が現れたことで、稔の注意はほんの一瞬、そちらに逸れた。
「…、梁牙か…」
梁を認識し、どこか安堵したように煌牙は呟いた。
現段階で、息子の存在を確認し、刹那ながらも隙の出来た稔に、彼の動きを止めるレベルの攻撃を仕掛けることは容易かった。
だが、それが不可能と化した理由は、息子であるはずの梁…、いや、梁牙を傷付けた時の感触が、瞬間、思い出したかのようにその手を支配したからだ。
一方の稔は、まだ顔色のすぐれない梁に、半ば咎めるように話しかけていた。
「梁…、何故来た? そのような体調で来られても、足手まといなだけだ」
「…そう言うだろうと思った」
最悪なまでの体調の悪さを隠し、無理やりに笑ってみせた梁は、つと、煌牙を見据えた。
…その腕に母親が捕われているのを認識し、色がすぐれないはずのその表情に、追い打ちをかけるかのように渋みが混じる。
「…煌牙…、母さんを…」
捕えたのか、という言葉を、梁はあえて飲み込んだ。
とにかく捕われているのが現状であるなら、その状況をただ憂いていても、実質どうにもならない。
「…来たか、梁牙」
彩花を抱いたままの、煌牙の冷たい呼びかけに、梁はこれ以上ない苛立ちを露にした。
「まだそう呼ぶのか…、未練がましいな。…だが分からないのか? 俺の名は緋藤梁だ。氷藤梁牙なんかじゃない」
「…梁牙」
「!っ、だからそう呼ぶな! 俺はお前の息子でも…何でもないはずだ!」
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