それぞれの立ち位置
息が喉に詰まり、しばらくの間、噎せり、咳き込む。
ようやく話せるようになった時には、咳のし過ぎで、僅かに顔が赤くなっていた。
手の甲で口元を拭い、辛うじて声を出す。
「…な、何でそんな…!」
「だって、ママ…、何だか、パパに対して冷たくない?」
「!そんな事は…」
ない、と言いかけて、彩花は気付いたことがあった。
まだ幼い紫苑の目から、そう見えるのだとすれば、煌牙が怒った原因もそれなのだろうか?
…いや、違う。例えそれが一因だとしても、恐らくはそればかりではないはずだ。
彩花がそんな事を考えていると、不意に目の前の扉が大きく開いた。
そこから姿を見せたのは、当の煌牙だった。
だが驚いたことに、彼は上半身が裸で、下半身のみ衣服をつけている状態だった。
まだ火をつけたばかりらしい、長めの煙草をくわえたまま、まるで見下すように二人を見るその仕草は、今まで彼が見せた事もない『男』を彩花に感じさせた。
その彩花が固まっていると、煌牙はくわえていた煙草を手にし、彩花と紫苑を見やった。
「…話し声がすると思えば、お前たちか」
「……」
彩花は返答できずに黙り込んだ。
それを見かねた紫苑が、助け船を出す。
「パパ、今ね、ママにおトイレ付き合って貰ってたの!」
「…、成程。言葉の意味が分かったから、ここに来た訳ではないらしいな」
煌牙は、視線を彩花に走らせた。
それに対して、彩花は煌牙を直視できなくなっていた。
自分でもつかみ所のない後ろめたさと、不意に目の当たりにした彼の色気が、正視することを拒んでいた。
今の彩花は、ここから逃げ出したい気持ちで一杯だった。その不安定な気持ちを察したのか、紫苑が手を握りしめてくる。
「…ママ、大丈夫?」
「…あんまり…大丈夫じゃない」
少しでも気を抜けば、そのまま貧血を起こしそうになると自覚しながらも、彩花がようやく口を開いた。
「煌牙さん…、ごめんなさい。あの言葉の意味…よく分からない」
「…、言い方が遠回しすぎたか」
言いながら、煌牙は自らの雷の能力で、手にしていた煙草を焼き付かせた。
焦げついた、煙草だったものが、ぽとりと床に落ちる。
それを目で追って、ふと顔をあげた彩花は、煌牙の背後に見える部屋の内部に、何か異様なものを見た気がして、もう一度それを直視した。
そして…我が目を疑った。
…そこにあった、高級そうな大きめの白っぽいベッドには、金髪の、美しい若い女性が、全裸のまま寝ていた。
「!」
彩花は、反射的に口を押さえた。
みるみるうちにその顔が青くなる。
その異変に気付いた紫苑が、彩花を見上げて激しく叫んだ。
「ママ! ママ!? 大丈夫っ!?」
必死に叫ぶ紫苑の声すらも、耳に入らない。…彩花は剰りのショックに、口元に手を当てたまま、愕然と立ち竦んだ。
…自分でも、何故こんなにショックを受けるのか分からなかった。
そんな彩花の様子を見ても、煌牙は悪びれもせず、静かに嘲笑うと、扉に手をかけた。
「…お前の年齢で、刺激が強すぎるということもないだろう? 特に用がないのなら、すぐに先程の部屋へ戻れ」
「…パパっ!」
さすがに紫苑が目くじらを立てた。
「何でそんなこと言うの!? パパ…、ママの気持ちも少しは考えてあげてよ!」
「…、いいよ、紫苑」
彩花が、消え入りそうな声で、辛うじて遮った。
「ありがと。…でも、もう…いいよ」
諦めかけたように言葉を繋いで、もはや冷静には考えられなくなった頭の片隅で…わずかに残った感情が蠢く。
…何がいいんだろう。
自分では…分からない。
…自分が話していることも、今何をしているのかも、これから何をすべきかも全く分からない。
総てがどうでもよく、また、何も考えたくない…!
「…行こう? 紫苑」
青い顔で、弱々しく紫苑に呼びかけた彩花の表情には、どこか諦めたような虚無感が浮かんでいた。
「ま、ママ…!」
紫苑は、彩花に強く呼びかけた。
言葉で縛っておかないと、そのまま…消え入りそうに見えたから。
そんな彩花を見て、煌牙はその嘲笑をひそめた。
整った唇を僅かに噛みしめると、わざと勢いよく扉を閉め、彩花の傍に立つ。
「? …煌牙さん…?」
彩花が、精神の疲れと疑問を同時に露にして問う。
「お前は…まだ分からないのか?」
冷たい、怒りの溶け込んだ声に、彩花は叱られた子供のように首を竦めた。
煌牙は、それに更に怒りの矛先を向ける。
「お前が、この紫苑と藍花、そして梁牙の母親だという事が…、まだ、完全に理解出来ないのか!?」
「…それは分かってる!」
追い詰められた彩花の心の奥で、先程からくすぶっていた何かに火がついた気がした。
考えてみれば、何故こうも一方的に言われなければならないのか。
押しつけるように、子どもたちの『母親』だと言われても、それはあくまで、未来の話ではないか。
今現在の段階で、ここまで責められ叱られる謂れは全くないはずだ。
そう考えた彩花は、何だか無性に腹が立ってきた。
怒りでこめかみが疼くのを気にもかけずに、苛立ち混じりに喚く。
「確かに、あたしは三人の母親なのかも知れないけど、それが今の煌牙さんに、一体何の関係があるっていうの!?」
この彩花のあまりの鈍さに、煌牙はさすがに息をついた。
「お前の視点は、常にそこにしか向いていない。
…いいか、お前が母である以前の問題だ。子供に母親がいれば、当然父親もいる。両親が居なければ、子は存在しないはずだ。
その意味が分かるか?」
「…!?」
それなりに分かりやすく話したらしい煌牙の言葉が、彩花の知識に、水のように溶け込み、浸食する。
不意に、先程のこの部屋の中での光景が脳裏を掠めた。
『父親』…、そして『母親』…
『男』と『女』…、それに『子ども』…!?
「!ってことは…、こ、煌牙さんが…!?」
“未来での、自分の旦那…、というか、伴侶というか…!?”
「ようやく気付いたか…、相当に鈍いな」
いつの間にか手にしていた二本目の煙草に、自らの能力で火をつけながら、煌牙がようやく苛立ちを解く。
普段の彩花なら、そのまま聞き捨てることもなく、ここで煌牙に何かしらの強烈な一撃を加えるところだが、その当の彩花は、あまりのショックに固まったまま、それすら忘れている。
このまま固まられても困ると判断したらしい煌牙は、煙草をくわえ、おもむろに吸い込んだ煙を、彩花に向かってしたたかに吹きかけた。
瞬間、心の準備もなく、ニコチンの匂いをまともに嗅いだ彩花は、我に返って思い切りむせった。
「!っ…、な…、何なのよ!?」
彩花がいきり立つ。
それを、くわえ煙草で横目で見ながら、煌牙が何か言いかけたその途端、屋敷内の赤外線センサーが複数、何かに反応した。
途端に、けたたましい音で警報機らしいものが作動する。その特有の、機械音のあまりの煩さに、彩花は飛び上がって耳を押さえた。
だが、紫苑と煌牙の反応は違っていた。
二人とも全く驚かず、煌牙は煙草をゆっくりと口から離した。センサーが捉えたらしい『何か』の方向を、鋭い目で窺い、無言のまま警戒を固める。
もう一方の紫苑は、センサーが捉えた侵入者とは逆方向から、こちらに向かってくる、複数の足音を意識していた。
程なく紫苑の前に、血相を変えた数人の少年少女が走り込んできた。
一様に同じ制服のようなものを来ており、彩花はそれが、組織『Crown』が規定している服なのだろうと考えた。
騒音に慣れてきたらしい彩花が、少しずつ耳から手を離すと、少年たちは次々に口を開いた。
「──煌牙様! 紫苑様!」
「彩花様っ!」
「…へっ?」
いきなり様付けで呼ばれて、彩花は鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、思わず自分を指差した。
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