遺伝子の行方
それでも、からからになった喉の奥から、ようやく絞り出すように言葉を発する。
「…違う。梁の父親は稔さんでしょ。貴方じゃない!」
「聞き分けが悪いな。そういう所が梁牙に受け継がれたのだろうが…、彩花、お前は今、俺に囚われている身だということが分かっているか?」
「ええ、そりゃあもう。紫苑にも泣きつかれちゃ、嫌でもここに居るしかないでしょ!」
開き直ったように、彩花が声を張り上げた。その、恐れを知らない純粋な強さに、煌牙は知らず知らずのうちに惹かれていた…が、それをおくびにも出さずに呟く。
「そういう意味じゃない…!」
「えっ?」
「天然なのか計算ずくなのか…、紙一重だが、お前は何も分かってはいない」
蒼の瞳が、わずかな苛立ちを見せる。
「…紫苑の感情は、お前をここに引き止めておくための餌だ。お前には、ここに居て貰わないと困るからな」
「!な…」
この会話で、彩花はようやく、自分が考えもしなかったことを要求されているのだと気がついた。
「何なの!? 煌牙さん! 貴方…、紫苑を利用して、あたしを束縛するつもり!?」
「…、結果的にはそうなるだろうな」
煌牙の表情から、苛立ちが消えた。それに、心のどこかでほっとしたものを覚えながらも、彩花は呟いた。
「…それって、何とかならないの?」
「“何とか”…?」
煌牙が訝しげに尋ねる。何となく、先の予測がついた気がした。
「煌牙さんが欲しいのは、あたしの遺伝子でしょ? 遺伝子って確か、粘膜や髪の毛とかからでも分かるはずよね?」
「…それらを渡すから、帰して欲しいとでも言うのか?」
「さすがに話が早いわね」
彩花が、にっこりと笑った。
その反応を見た煌牙は、彩花から視線をそらし、それをあっさりと切り捨てた。
「断る」
「!…なんでっ!?」
まさか断られると思わなかった、彩花の動きが止まった。
「今のあたし、献血して下さいって言われても、頑としてしなかった人が、ようやく自分から献血するって決めたのに、いきなり断られた時のような心境なんだけど!?」
「…どういう例えだ」
煌牙が、さすがに呆れ、嘆息した。
落ちてきた邪魔な前髪をかき上げ、彼は彩花に言い放った。
「…今、既に紫苑が存在している意味を考えてみろ。俺はお前の遺伝子など、とうに手に入れている」
「…え…!?」
彩花の顔が青ざめ、強張った。一体いつの間に…とも思ったが、紫苑には確かに、稔と煌牙、それに自分の遺伝子が使われているはずなのだ。
事実、目の前に紫苑が存在している以上、煌牙の言葉は疑いようもない。
「…じゃあ…」
茫然としながら、心情を表す言葉だけが、ただ、口から洩れた。
「それなら、今更…どうしてあたしが必要なの? ここで、紫苑のママ役をさせるため?」
「それもあながち間違いではないな」
視線を彩花に戻しながら、煌牙が呟く。
「だが、お前は肝心なことを理解していない。…何故俺が、お前たちで言う『梁』の父親たるかをな」
「…?」
彩花は首を傾げた。なかなか捉えにくい言い回しで、煌牙が何を言いたいのか、よく分からない。
「分からないなら、ここで分かるまで考えていろ」
素っ気なく言い捨てて、彼はそのまま部屋から出ていった。
後に残された彩花は、先程の煌牙の言葉の持つ意味を考えていた。
《お前は肝心なことを理解していない。…何故俺が、お前たちで言う『梁』の父親たるかをな》
「あれは…どういう意味だったんだろう…」
彩花が力無く溜め息をついた。
「意味的には、どうして煌牙さんが梁の父親なのか、それを考えろってことなんだろうけど…」
分からない。
彼の言葉だけが、頭をぐるぐると渦巻く。
「…ママ」
不意に子供の声がした。その声に、現実に引き戻されて、はっとしてそちらを向くと、紫苑が不安そうに自分を見上げている。
「…ど…、どうしたの? 紫苑」
ママと呼ばれるのはやはり慣れない。そんなことを頭の片隅で考えながら彩花が尋ねると、紫苑は再度、その可愛らしい口を開いた。
「おトイレ行きたい」
「…え?」
瞬間、頭の中がはっきりとする。紫苑は3歳くらいだ。この口振りでは、オムツはしていないのだろう。
つまり…“早くトイレに連れていかないと、大変なことになる”。
そう察した彩花は、勢い良く立ち上がった。
「紫苑! トイレどこ!?」
寝起きなため、着ているものが乱れたままだが、体裁に構っている暇はない。
「あたし、場所分からないから、案内して!」
「うん! こっちだよ!」
紫苑は彩花の手を取り、走り出した。つられて彩花も走り、二人で部屋を飛び出す。
「!うわ、広っ…!」
…そこに広がる空間は、一流ホテルの敷地より広く、また、それより綺麗だった。
壁や床などを見ると、作りは全て大理石のようだ。しかし、冬だというのに、それでも寒さを全く感じさせず、暖かい。
よほど暖房機能がしっかりしているらしい。
何にせよ、高そうな作りには違いない…
などと、走りながら考えていたため、どの道を通ったのか、彩花はよく覚えていない。
気付いた時には、トイレの前にいた。
「じゃあ、ママ、ここで少し待っててね!」
紅葉のような小さい手を離して、紫苑はトイレの中へと姿を消した。
後に残された彩花は、間に合って安心したのもあって、じっくりと周りの様子を観察する機会が出来た。
この隙に、辺りに目を走らせていると、近くにあった、これまたゴージャスな作りの部屋の扉が少し開いており、中から、人の話し声が聞こえてくることに気がついた。
「? …誰かいるのかな」
彩花はそれに興味を示した。聞き耳を立ててみたが、話の内容までは分からない。
だがどうやら声の持ち主は、若い男と女、二人のようだ。
すると、
「…お待たせ、ママ」
さっぱりした表情で、紫苑がハンカチで手を拭きながら現れた。
「あ、お帰り」
彩花はいったん会話を聞き取るのをやめ、紫苑に向き直った。
その顔色を読んだらしい紫苑が、彩花を気にかけてか、尋ねてくる。
「どうしたの、ママ? 何か気になったことでもあった?」
幼い紫苑に図星を突かれて、彩花は一時ぎくっとしたが、
「!うん…、ねぇ紫苑、そこの部屋… 誰かいるの?」
「え?」
彩花の指差した先を、怪訝そうに見た紫苑は、一瞬にしてそれを解き、口元に笑みを浮かべた。
「あぁ…、そこはパパの部屋だよ」
「煌牙さんの…?」
それにしては、女の声が聞こえるような気がするのだが…
「考えすぎだよね」
彩花が首筋を軽く掻く。すると、それを見ていた紫苑が、ハンカチを服のポケットにしまい、彩花の手を取った。
「気になるなら、行ってみる? …パパは普段、決まった人にしか部屋の出入りはさせないけど、ママなら絶対大丈夫だから!」
言うが早いか、紫苑はすたこらと駆け出した。
「!え…、ちょ… 紫苑っ!?」
手を取られている彩花は、付いていくしかない。
…引きずられるようにして、その部屋の前まで来た彩花は、躊躇いがちに紫苑の手を離した。
「…ママ?」
「やっぱり…、いい」
俯き加減に呟いた彩花の表情には、明らかに戸惑いがあった。
先程の女の声が、幻聴ではなく、さらに煌牙が部屋の中にいるとすれば…
自分など、完璧にお邪魔だ。
「あたし、別に煌牙さんに呼ばれた訳じゃないし…」
「え? 用事がなきゃ、来ちゃダメって事もないんじゃない?」
紫苑が首を傾げる。それに対して、彩花は首を横に振った。
「…とにかく、いいの。今は煌牙さんには会わない」
その反応を目の当たりにした紫苑が、寂しげに、ぽつりと尋ねた。
「…ママって…、もしかして、パパのこと嫌いなの?」
「えっ…!?」
不意打ちで来た紫苑の質問に、彩花は動揺を隠せなかった。
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