3.困惑
…第三部の彩花視点。あらゆる負の感情に苛まれる…
「!ヤバ…、ち、遅刻する!」
…盛大に寝ぼけて、室内中に響きわたるような絶叫をあげ、ベッドから跳ね起きたのは、言わずと知れた彩花だった。
だが、この時点では、周りの様子を見る余裕は全くなかった。
荒くなった息をようやく抑えて、何度か深呼吸をする。
そこで初めて、彩花の目は、辺りの様子を窺う事を許された…のだが。
「!? な、何よ…このゴージャスさは…!?」
彩花は、思わずその目を疑った。
ゆったりとした広い空間が、そこには広がっていた。その隅々まで凝った作りは、まるでどこかの王侯貴族でも住みそうな城のようだ。
所々に観葉植物が置かれ、近くにある大きめの窓からは、朝の光がいっぱいに降り注いでいる。
その状況から判断できることが、ひとつだけあった。
(昨日の雪…、やんだみたいだけど…)
寝起きで朦朧とする頭で、ここまで考えて、彩花ははたと気がついた。
(っていうか、ここ、一体どこ…? 稔さんと、梁は…)
言いかけた彩花の脳裏に、昨日の記憶が鮮明に蘇った。
「!そうだ…」
気を失ったせいで、その後のやり取りは分からないが、昨日は本当にいろいろな事があった。
中でも一番ショックだったのは、梁が、実は煌牙の子供だったことだった。名前を様付けで、梁牙と呼ばれていたが…
…そこまで考えた時、不意に部屋のドアがノックされ、開いた。
そこから現れたのは、三歳くらいの、可愛らしい男の子だった。
にこにこと、あどけない笑顔を自分に向けてくる男の子に、彩花もつられて笑いかけた。
すると男の子が、ベッドから体を起こしたままの状態の彩花に近寄った。
その、くりっとした瞳を彩花に向け、言葉を選ぶように、ゆっくりと尋ねる。
「ママ…、大丈夫?」
「!ま…!?」
予測していなかった台詞に、彩花の笑顔がそのまま固まった。何とかそれを潜め、おずおずと男の子を見る。
「!あ、ああ…、あたしはママじゃないけど…、もしかして、ママがあたしにそっくりなのかな?」
とりあえず、思い立った事を口にしてみる。すると、男の子は口を尖らせた。
「違うよ! 貴女が僕のママだよ」
「…、あのねぇ」
顔を引きつらせつつ応対しながらも、彩花は、3歳児相手にどう言い聞かせたら分かるものか考えていた。
「うーん、じゃあ…先に名前を教えてくれる?」
「え? ママ、知ってるでしょ? 氷藤紫苑だよ」
「!氷藤…紫苑っ!?」
(って、あの、未来の世界での、Crownの…!)
そこまで考えた時、彩花の動きが止まった。反応に困って黙り込んだ彩花に、紫苑が再び声をかけた。
「どうしたの? ママ」
「!あ、いや、その…、って、ちょっと待って。紫苑くん、さっき、自分の名字… 何て言った?」
「僕のことを呼ぶ時は、呼び捨てでいいよ。名字は…氷藤だよ」
「氷藤? 緋藤じゃないの?」
彩花が驚いて尋ねた。
梁が紫苑と藍花を紹介した時、彼は二人の名字を『緋藤』と言っていた。そして、それを紫苑は否定してはいなかった。
…だが、ここにいる紫苑は、はっきりと自分の名字が『氷藤』であるという。このギャップは何なのだろう。
「緋藤? …緋藤って…炎の力を使う一族で、僕たちの敵なんでしょ?」
「え…!?」
彩花は、驚きで目を見開いた。…そのギャップが、更に開いたような気がした。
「違うよ! だって紫苑、あなたは稔さんの…」
子供なんだから、と、彩花が言いかけた時、ドアの方から、聞き覚えのある男の声が響いた。
「…目は覚めたか?」
はっとして彩花がそちらに目をやると、そこにはいつの間にか、煌牙が立っていた。
「!えっ…、煌牙さん!?」
「あっ、パパ!」
紫苑は煌牙を見つけると、嬉しそうに彼の傍に駆け寄った。
対する彩花は、紫苑の一言に、金槌で殴られたようなショックを受けた。
「…ぱ…、パパって…、この人が…!?」
ともすれば、そのまま固まってしまいそうな、震える指を煌牙に向ける。
この行為は、本当は失礼にあたるのだが、彩花はあまりの驚きで、そんなことを気にする余裕は全くなかった。
煌牙は、父親が来たことに素直に喜び、無邪気に笑いかける紫苑を抱き上げ、頷いた。
「…ああ」
「何で…!? 紫苑の父親は、貴方じゃ…」
「…よせ、彩花。お前は、それ以上の事を紫苑の前で話すつもりか?」
「!」
彩花が、ぎくりと身を竦ませた。
…紫苑は、煌牙の腕に大人しく抱かれている。そして煌牙を見る時の目は、頼もしさに満ち溢れ、すっかり信頼しきったものになっている。
その紫苑の前で、迂闊なことは言えない。
このくらいの年頃の子供に、軽々しく言葉で傷をつければ、それは下手をすれば、そのまま
そこまで考えた彩花が、ぐっと詰まったのを後目に、煌牙は紫苑を抱えたまま、彩花へと近付いた。
…耳元で、静かに囁く。
「息子を傷つけたくなければ、今は余計なことは言わないことだ」
「…分かったわよ」
彩花は釈然としないまま、渋々返事をした。が、そこまで話していて、ふと気付いた。
「!…って…、そんなことを話してる場合じゃない! 稔さんは気にかけてくれているか分からないけど、梁は絶対に心配してる…! 早く帰らないと!」
そう言って、ベッドから足を降ろす彩花に、紫苑が縋るような瞳を向けた。
「!えっ…、ママ、どこに行くの!?」
その幼い、あどけない顔は不安に彩られ、心配げに彩花の返事を待っている。
「どこって…、帰らないと。学校は今日から冬休みだから大丈夫だけど、いつまでもここにいるわけにはいかないし…」
「やだ!」
紫苑が、煌牙の手を離れて、彩花を捕まえた。
「…ママが帰るなんて嫌だ! どうして帰るの!? ここには居てくれないの!?」
紫苑が必死にしがみつく。それを見た彩花は、辛そうに唇を噛んだ。
この場合、どう言ったらいいのか分からない。ただ、自分の希望をストレートに伝えれば、間違いなく紫苑が悲しむことだけは想定できた。
それは、先ほど口にしたように、単に“帰る”だけではない。あの2人のもとに“戻る”ことだ。
「…ねぇ、ママ…お願い! 僕、いい子にする。ママの言うこと、何でも聞くから…ここに居て…!」
しゃくりあげるような子供の泣き声に、はっとして彩花が紫苑を見ると、その綺麗な瞳からは、大粒の涙が零れていた。
「!紫苑…」
母親から名を呼ばれて、感情が弛んだのか、紫苑は彩花に縋りついて、火がついたように泣き出した。
その様子を見ていた煌牙が、冷笑を浮かべながら、低く呟いた。
「…これでも、まだ帰ると言うのか?」
「!今の状況で…、帰れるわけないじゃない!」
その感情の全てを言葉に変えて、煌牙にぶつけた彩花は、泣いている紫苑を抱きしめた。
「!…マ…マ?」
「ごめん、紫苑…、泣かせたりして」
「…ん」
紫苑は、ごしごしと流れた涙をこすると、まだ出てこようとする涙を無理に抑えた。
それでも、その目は擦ったため、赤く、腫れぼったいものになっている。
「なかなかいい母親ぶりだな」
様子を見ていた煌牙が、茶化すように声をかけた。彩花はそれに、棘のような目を向ける。
「それって皮肉? そう仕向けたのは、他でもない貴方でしょ?」
「ふん…、だが、お前が紫苑の母親なのは事実だろう?」
「!それは…そうなのかも知れないけど…」
彩花がしどろもどろになったのを見て、煌牙は更に先手を打った。
「それに、お前の子は紫苑だけではない。藍花も…梁牙もそうだろう?」
煌牙の言葉を、彩花は聞き咎めた。はっきりとした怒りが、紫の瞳を彩る。
「!梁牙って…、梁のこと!? 梁は、その呼び方をされるのが大嫌いなはずでしょ!?」
「おかしな事を言うな。…お前は忘れてはいないか? 奴の名は、梁ではなく梁牙。…そして梁牙は、紛れもなく俺とお前の子だ」
「…!」
辛辣な事実を突きつけられ、彩花は、しばし立ち竦んだ。
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